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貴方と星を見る

 

冬の夜空に煌々と白い月が明るい光を投げている中、蔓薔薇の絡まる弓状の門が淡く仄かに浮かび上がっている。

門に溶け込む様に繊細な透かし模様で、門と同様の蔓薔薇の意匠が施された銀の扉には模様の一部の様な鍵穴があり、同じ銀の薔薇模様を象った小さな鍵を差し込むと、カチリと微かな音を立てて鍵が開く。

ファラミアは湯気の立つ陶の器持った手の、毛布を掛けた腕の下にある長衣の袖に隠された折り返しに鍵を仕舞い、蔓薔薇の絡まる園庭の門を潜った。

 

複雑に刈り込まれた植込みの角を幾つか曲がると急に視界の開けるその先に、小さな東屋が現れる。

薔薇の立ち木に囲まれた東屋には、やはり薔薇の意匠が施された白い石のベンチが設えられており、時期ともなれば満開の薔薇がそのベンチを覆い隠してしまうのだが、春にはまだ程遠いこの時期では、葉の落ちた薔薇の植込みはベンチに凭れ掛かる丈高いその人を隠し遂せる事は適わない。

枝翳から覗く白い絹の長衣の肩口には切り揃えられた金の髪が月の光を弾いてきらきらと煌いている。

ファラミアは暫しの間夢見る様な心地でその後姿を見遣った後、ゆっくりと兄が背を預けるベンチへと歩み寄った。

 

ふわりと肩に毛布を着せ掛けると、兄は首を回してファラミアを見上げる。

自分を見上げる翡翠色の瞳を、とろりと甘い濃厚な葡萄酒を入れた壜の色だ、とファラミアは思う。

 

肩に着せ掛けられた厚手の毛布を胸の前に掻き寄せ

「よくここが分かったな」

と、兄が言う。

「兄上のお姿が見当たりませぬ時には、大抵こちらにいらっしゃいますので」

そう微笑む弟に

「そなたの姿が見えぬ時には、大抵書庫に居る様にか?」

と、ボロミアは笑って応える。

微笑みを頬に残したままベンチを回り込んだファラミアは

「けれどこちらは書庫よりお寒うございましょう」

と、兄の隣に腰を下ろす。

絹の長衣はボロミアの長身を際立たせる優美で上品な仕立てだが、冬の夜空の下では如何にも寒々しく、外套を羽織ったファラミアに向かって声を立てずに笑うボロミアの頬は、月の光に照らし出され、ほっそりと透ける様に白い。

 

既に二十歳を一年ばかりも過ぎたというのに、背丈に比して目方が増えぬのがボロミアの悩みの種になっており、殊に年長の屈強な部下達に囲まれた時など、いかんせん、どうにもボロミアばかりが華奢に見えてしまう。

それが不本意だと言ってボロミアは、せっせと増量を試みてはいるのだが、今のところその試みは功を奏してはいない。

寧ろファラミアの見るところ、ほっそりと優雅なボロミアの佇まいは本人の意に反し、概ね妙齢の姫君方に“恋する乙女”の溜息を吐かせる方にばかり役立っている。

 

つい先刻の宴席で、頬を染めてボロミアを見詰めていたペラルギアの姫君の姿が瞼の裏に浮かび、ファラミアは思わず苦笑する。

 

三月程前、ミナス・ティリスの近衛部隊はウンバールの海賊討伐に出て勝利を収めた。

今回の宴席は、その際海賊の襲撃から保護したペラルギアの大使が謝意を表したいと、姫君を伴ってミナス・ティリスを訪れた為設けられたものだ。

だが大使のミナス・ティリス訪問は、海賊襲撃の際に同行してはいなかった姫君を伴っての来訪であった時点で、その真意は明らかである。

そしてその意図を読めぬはずのないデネソールには、この訪問を喜ぶ理由はなかった。

宴席を設けたのは都を預かる執政として、型通りの礼儀に従ったに過ぎない。

それ故大使に姫を引き合わされた嫡男が早々にメレスロンドを抜け出すのを、見て見ぬふりで父が見過ごしにした事にも、勿論ファラミアは気付いていた。

兄の後を追うつもりで目立たぬ様外套を羽織ってメレスロンドを抜け出そうとしたファラミアは、その際父が鋭く目配せした先で、人目に付かぬ部屋の隅に折り畳んで置かれた厚手の毛布を目の端に捉えた時にも、当然それを不思議とは思わなかった。

元来父はこの様な政治的意図を持った宴席を好まない。

それがボロミアを見据えての事となれば尚更である。

その点に於いて大侯と彼の次男は、完全に思考が一致していた。

素早く毛布を手に取ったファラミアは、そっと父に黙礼し、メレスロンドを後にしたのだ。

 

「それは何だ?」

ファラミアの手元を覗き込んで聞く兄の声で現実に引き戻されたファラミアは

「兄上が召し上がっていらっしゃらない様でしたのでお持ちしました」

と微笑んだ。

「兄上は甘いものがお好きでいらっしゃいますから」

と。

 

メレスロンドを抜け出した後厨房に立ち寄ったファラミアは、薄着のまま屋外で冷え切っているであろうボロミアの身体が温まる様にとこれを持って来たのだった。

ファラミアであれば酒度の高い蒸留酒でも選ぶところなのだが、生憎ボロミアは酒には弱い。

その分甘いものには目がないボロミアには、丁度これが良かろうと思ったのだ。

「大使の献上品の中にありました。

 カカオという木の実を原料にして作ったものだそうです」

ファラミアがそう言って器を包んだ綿入れの布ごと手渡した陶の器を、ボロミアは大切そうに両手で包み込む。

とろりとした褐色の液体から立ち上る甘い芳香をくん、と吸い込み

「好い香りだ」

と相好を崩すボロミアの表情は、ファラミアの胸を温める。

兄をこの様に見られる様になったのはつい最近の事だ。

昨年初陣を果たしたファラミアは、初陣のその戦場で重傷を負った兄を、このまま失うのではという恐怖を以てその胸に抱いた。

その時兄に対しての愛情が、本来肉親に対して持つべきそれを大きく踏み越えている事をファラミアは知った。

しかしそれを知る事と、それを認める事は同じではない。

兄を想って眠れぬ夜の熱はファラミアを幾度となく苛んだ。

その罪悪感から理不尽に不愛想な態度をとってボロミアを戸惑わせた事も一度や二度ではない。

だがどれ程否定しようと募る想いは止められなかった。

遂には降り積もる想いの耐え難い重さに、その熱を自らに許した夜からは、兄を求めて夢想する幾度もの夜の熱の熱さに悩まされた。

夢幻のうちに兄をその腕に抱いた翌朝などは、不用意に兄に触れれば肌は粟立ち、微笑み掛けられれば頭に血が上った。

それを兄に気取られるのではないかと、態度がぎこちなくなった事とて少なくなかった。

「これは美味いな」

ほんのりと頬を桜色に染めてそう笑い掛けるボロミアに

「それは宜しゅうございました」

と、自然な笑みを返しながらファラミアはふと思う。

この様に穏やかに日々を積み重ねていくうち、いつかはこの胸に抱く兄への熱も、ただ温かい肉親への情へと変わる事があるのだろうか、と。

“埒もない”

ファラミアは自らのその思いを一蹴する。

今のファラミアには、最早兄への想いを否定する気など毛頭ない。

その想いを否定する事は、生涯解放される事のない熱を抱えて生き続けねばならぬより、遥かに耐え難い事なのだと、ファラミアは既に知っている。

「兄上」

と、ファラミアは、瞳の奥の熱を隠した涼しい瑠璃色の目でボロミアに微笑む。

「宜しければ私にも一口頂けますか?」

「そなたが?

 甘いものを好まぬそなたが珍しいな」

小首を傾げるボロミアに、ふわりと笑ってファラミアは言う。

「兄上が召し上がっていらっしゃるのを拝見しておりましたら、私も欲しくなりました」

「そうか」

そう屈託なく笑ったボロミアが差し出した器を受け取ったファラミアは、兄が口を付けた跡を確かめ、そっとその上に唇を重ねた。

「どうだ?」

「甘うございます」

「甘いか。

 成程、真理だな」

朗らかに笑う兄にファラミアは、秘めやかな笑みを口元に上らせる。

一頻り笑ったボロミアは

「さて、そろそろ宴席に戻らねばな」

と、独り言の様に言い、諦観の表情をファラミアに向けた。

「息子二人が宴席から姿を消し戻らぬとなれば、父上がお困りになろう」

“息子二人”ではなく“ボロミアが”であり、困るのは父ではなく大使の方であろうとファラミアは思うのだが、それをそのまま口にするのは躊躇われた。

だが「そなたのお陰で夜気に当たらず助かった、礼を言うぞ」と肩から毛布を外し、すっかり宴席に戻るつもりになっているボロミアを見遣るうち、このまま兄を宴席に帰したくない気持ちが湧き上がってくる。

ファラミアにとって兄と二人きりでこの様に過ごせる機会はそう多くはないのだ。

一分でも一秒でもこの時間を長引かせたかった。

「父上が然程お困りになられようとは思われませぬが…」

語尾を濁してそう言ったファラミアは

「なぜそう思うのだ?」

と邪気なく問うボロミアの姿に意を決した。

「大使殿が当地にいらっしゃった理由が明白なれば、兄上の婚儀を政の道具とされる事を厭われる父上が、斯様な宴席を快く思われる由のあろうはずもございませぬ故」

これにはボロミアが言葉を失う。

ファラミはちらりと兄を見て

「それとも兄上は、ペラルギアの姫君をお気に召されましたか?」

と問うた。

口に出してしまうとファラミアは、熱心にボロミアを見詰めていた姫の横顔が思い起こされ、俄かに理性が揺らぐのを感じる。

 

ファラミアより一つ年上だという姫は、秀でて美しいという訳ではなかったが、慎ましやかでおっとりとした横顔は中々に愛らしく、決して印象は悪くはなかった。

 

「気に入るとか、気に入らぬとか、そういう問題では…」

と口籠る兄に、ついファラミアは尖った声で畳み掛けてしまう。

「では兄上は、お気に染まぬ姫でも家の為妻に娶る事が出来る、と仰せになられますか」

「ファラミア」

澄んだ兄の声でそれ以上語を継ぐことが出来ず、ファラミアは覚えずきゅっと口元を引き締めた。

「そなたも存じておろうが父上は」

静かな声でボロミアは言う。

「母上を妻に迎えられるまで、どれ程周りが強く進言されようと、決して妻を娶ろうとはなさらなかった」

 

確かにその話はファラミアも知っている。

 

市井の民の間でさえ、ただ愛のみによって婚姻する者がそれ程多いとは言えぬこの時代に在って、大国ゴンドールの執政家嫡男であったデネソールが、西方の恩寵を受けぬドル・アムロスの公女フィンドゥイラスを娶った経緯は、宛ら伝説の様に語られている。

母が存命であった頃の思い出とて殆どないファラミアにとってそれは、幼い頃に聞かされたお伽噺の域を出ない。

だが5歳年長のボロミアにとっては、決して夢物語などではないのだ。

 

「その父上が私に、家の為妻を娶れと、おっしゃろうはずもない。

 私もまた…、父上のお気持ちを無にするつもりは、ない」

兄の瞳に哀しげな翳が過るのを見て取ったファラミアは、問うべき言葉を一つ、喉の奥に飲み込んだ。

 

執政家の嫡男であるボロミアの事なれば、既に妻を娶り子を成していても不思議ではない齢でありながら、未だ独り身でいるボロミアに苦言を呈する廷臣は城中にも決して少なくはない。

父・デネソールは悉くそれらの苦言を撥ね付けてはいるが、中には直接それをボロミアに訴える者もないではなく、その様な折、ボロミアの瞳にはいつも今と同じ翳が過るのを、幾度となくファラミアは目にしている。

その度ファラミアは、今と同様、一つの言葉を飲み込んできた。

“どなたか想うお方がおありですか?”という言葉を。

ファラミアには、どうしてもその言葉を口の端に上せる事が出来なかった。

兄の口から“いる”と聞くのが怖かったのだ。

 

兄に心寄せる人があるやもしれぬと思うだけで、身を引き裂かれる様な痛みがファラミアの胸に走った。

弟として生きる限り口にする事さえ叶わぬ想いを抱えたまま、何れは兄が愛する姫と手を携えて立つ婚儀の場を、この目で見なければならぬ日が来るやもしれぬと思えば、潰れる様な胸の痛みも感じた。

いっそ兄が家の為、愛無き妻を娶ってくれれば、と願った事さえもあった。

だが、どれ程廷臣達に迫られようと、自らが愛のみに依って望まれた子である兄が、その様に妻を迎えようはずもない事は、当然ファラミアにも分かっていた。

“兄上は私とは違うのだ”

そう思った瞬間ファラミアの口からは、自分でも思ってもみなかった言葉が零れ落ちた。

 

「兄上は愛のみに依って望まれた御子でいらっしゃいますから」

自分自身の声に、はっと唇を噛んだファラミアは

「ファラミア…」

と呼ぶ兄の声の中に、それと分かる憂いを聞き、居た堪れない気持ちで長い睫を伏せた。それ故石のベンチに視線を落としたファラミアには、続く兄の言葉に淋し気な笑みを浮かべ、小さく首を横に振る事しか出来なかった。

「そなたとて同じだ」

兄はそう言った。

 

なぜ自分が父に厭われるのか理解出来なかった幼い頃とは違う。

今のファラミアには、自分の生まれた当時の事情が分かっている。

「私は…家を護る為…」

 

「違う!」

思い掛けない程鋭い兄の声に、思わず視線を上げたファラミアの瑠璃色の瞳を真っ直ぐに捉え、ボロミアが言う。

「私が望んだのだ」

 

衝撃の余り瞬きも忘れ、じっと兄を見詰める弟の瞳を真っ直ぐに見詰めたままボロミアは、もう一度はっきりと言った。

「私がそなたを望んだのだ」

 

息を飲み、大きく見開いたファラミアの瞳には、星の光を宿した緑玉の瞳だけが映っている。

「私はまだ三つか四つの幼子だったが、その日の事はっきり覚えておる。

 ここの、この場所で、母上は私にお尋ねになられた。

 兄弟が欲しい?と。

 弟か妹が、と。

 それ故私は、こう申し上げた」

ファラミアは息を詰め、兄の言葉を待った。

「弟が欲しい、と」

 

その瞬間、ファラミアの世界が反転した。

これ程の幸福があるだろうか?

これ程の歓びがあるだろうか?

 

手に持ったままの陶の器が、膝の上でかたかたと揺れた。

ボロミアは弟の手からすっかり冷え切った器をそっと取り上げてベンチの上に置くと、弟の手を取り言った。

「私はそなたが生まれた時本当に嬉しかった。

 そなたがその小さな手を伸ばし、私の手を握った時、どれ程そなたを愛しく思った事か。

 父上、母上とてそれは同じだ。

 そなたは決して家を護る為などに生まれてきたのではない。

 そなたもまた愛のみで望まれた子供なのだ、ファラミア」

 

 ファラミアにとっては、もう他の誰の事もどうでもよかった

 ボロミアに望まれたから自分はここにいる

 それがファラミアの全てだった

 イルーヴァタールの思し召しがどうであれ、人の則がどうであれ、自分はボロミアを求めずにはいられない

 兄を求めて、幼いその手を差し伸ばしたというその時から、それは既に定められたファラミアの願いだったのだ

 兄が弟を望むなら、自分は生涯弟を演じ続けよう

 例えそれが煉獄の炎に焼かれる胸の痛みを伴おうと、それで兄を愛する証となるのなら

 

ファラミアは強く兄の手を握り返し、言った。

「私が心得違いを致しておりました。

 兄上の御言葉はこのファラミア、生涯心に留め、決して忘れは致しません」

真摯な声で言う弟の青玉色の瞳を覗き込んだボロミアが、にこりと笑ったその時、手を取り合う兄弟の間を、長く尾を引く一つの星が流れた。

 

星を目で追った兄弟は顔を見合わせ微笑み合った。

「子供の頃そなたと星を見た事があったな。

 父上がご不在の夜に」

「ございましたね。

 亡き人は星になるのだと聞き、母上の星を探すのだと言って」

その思い出はファラミアの胸を焼く傷を優しく癒し、穏やかな温かい気持ちで満たしていった。

「ひとつ毛布に包まって、朝までご一緒しました」

「そうだった。

 あの日も今日の様に、冬にしては暖かな夜だったな」

「2月14日の夜です」

即座に言う弟に、ボロミアは目を丸くする。

「よく覚えているな」

 

忘れるはずがない。

兄と共に朝まで過ごした日の事だ。

ふとボロミアは悪戯気な笑顔を浮かべ

「今日も毛布が一枚だ」

と、一旦畳んだ毛布を広げた。

僅かに躊躇い

「子供の頃とは違います。

 今ではそれは、小そうございましょう」

と言うファラミアに

「そなたは華奢ゆえ大事ない」

そうボロミアは笑った。

自分こそ余程華奢だろうに、とファラミアは思うのだが、年長ぶってそう言うボロミアの表情が可笑しくて、ついファラミアの口元が綻ぶ。

「では」

と、兄に寄り添ってひとつ毛布に包まれば、思いがけぬ大きさのその毛布は、兄弟の薄い肩を温めてくれる。

懐かしい温もりに夜空を見上げてみれば、空には満点の星が兄弟を優しく見下ろしていた。

 

“あの星々のどこかに母上がいらっしゃる…”

寄り添う兄から伝わる温もりに、ファラミアはそっと毛布の中の兄の手を握り締めた。

 

 

 今宵貴方と星を見る

 温もり分け合い

 思い出分け合い

 貴方が兄である事を

 貴方の弟である事を

 亡き人偲ぶ星の下

 今宵一夜は感謝を込めて

 その幸せを噛み締める

 今宵二人で星を見る

 愛しい貴方と星を見る

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