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初恋 2

 

初陣から3戦目のカイア・アンドロスの攻防戦で受けた傷が思いの外深く、布で吊った左腕に目を遣ったボロミアは小さく溜息を吐いた。

 

療病院で「大した怪我ではない」と嫌がるボロミアの腕を布で吊ったヨーレスは「何をおっしゃるのです、若様」と、ボロミアをじろりと睨んで言った。

「利き腕でなかったから良かった様なものの、若様が思っておられるよりずっと傷は深いのですよ。

 医師達の許しが出るまで絶対に布をお外しになってはいけません。

 日に二度は必ず包帯を替えにいらして下さい。

 逃げ様なんてなさっても無駄ですからね。

 ちゃんといつでも私の“目”が見ておりますから」

 

ヨーレスの言葉は大袈裟ではなかった。

 

その日もボロミアは、早朝にこっそり行った教練所でヨーレスの“目”に捕まった。

ヨーレスの幼馴染であるトゥランバールは、カイア・アンドロスからの帰投後ヨーレスに頼まれたボロミアのお目付け役を引き受け、ヨーレスの期待以上のお目付け役となっていた。

ヨーレスとトゥランバールに睨まれて、療病院と居室の往復以外に行き場を失くしたボロミアは途方に暮れていた。

腕を吊った状態では下層階に“お忍び”で行く事も出来ず、かと言って改めて市井の下層階以外でボロミアが行く場所と言えば、教練所と兵舎や厩舎、負傷兵の見舞いに行く療病院くらいしかないのである。

白の都が誇る広大な書庫で日がな一日図書室に籠るのはボロミアの性に合わない。

結局、一日中室内に閉じ籠っているくらいならと、ボロミアはそれまで足を向けた事のない、自分の居室からは遠い執政館の南方にある園庭に足を踏み入れた。

 

一度足を踏み入れてしまうと、ボロミアはその園庭の心地良さにすっかり気分が和らいだ。

滴る緑から流れ出る清々しい空気を肺一杯に吸い込み、葉脈が透けて見える日の光のちらちらと踊る木の葉の美しさに目を細めた。

暫く散策するうち、ボロミアは園庭の隅にかがみ込む後姿に目を留め、何という気もなしにその背に歩み寄ろうとした。

その瞬間、振り返った瞳の色に、ボロミアは打たれた様に足を止めた。

“陽の光に透ける瑠璃の色だ”

弟のファラミアも青い瞳だが、更に色の薄い瞳は、陽の光を通して見る瑠璃の様に澄んだ明度の高い青だった。

ふわふわと肩に掛かる銀の髪はたんぽぽの綿毛の様で、頬に差す淡い薔薇色と透明な青い瞳だけが白い肌に色彩を添える少女は、噴水広場にすらりと立つ白の木の精が現身を持って抜け出してきたかの様であった。

 

その少女は暫し不思議そうにボロミアが立っている辺りを眺めていたが、なぜかくるりと公子に背を向けると、再び園庭の土の上にかがみ込んだ。

その時初めて息を詰めて少女を見つめていた事に気付いたボロミアは、ふと息を吐き、思わず小さく咳払いした。

すると少女は、つと顔を上げ、再びボロミアの方を振り返った。

微かに眉根を寄せてボロミアの方を見る少女は少しの間そうしてボロミアの方を見ていたが、結局は再び小首を傾げると、先程と同じ様にボロミアにくるりと背を向けた。

近いとは言えないが、ボロミアを認められぬ距離ではない。

流石に不審に思ったボロミアが少女の方に歩を進めると同時に、今度こそ全身でボロミアに向き直った少女は、不安気な声でボロミアに向かって

「どなたですか?」

と問うた。

「え?」

と、思わず少女の前で足を止めてそう呟いたボロミアの声に耳を欹てる様に、僅かに体の向きを変えた少女は、声の主の姿がある辺りに瞳を彷徨わせた。

「そなた…目が…」

と口篭ったボロミアの声に、その声の主を求める様に目を向けた少女は

「はい、見えておりません。

 ですから、足音もお声も聞き覚えがなく、お尋ねしました」

と、にっこりと微笑んだ。

見えていないと分かっても、真っ直ぐにボロミアを見詰める少女の瞳に、つい目を伏せがちになったボロミアが、しきりに顎を撫でながら

「ああ…その…、名は…ボロミアと申すが…」

と、戸惑いがちに言うのをを聞いた少女が

「ボロミア様…?」

と小首を傾げた姿を、ボロミアが僅かに顔を上げてちらりと見遣った時、少女は“あっ”という表情で瑠璃の瞳を大きく見開き、ぱっと立ち上がった。

じり、と少女が後ずさるより、しかしボロミアが少女の手首を捉える方が速かった。

が、次の瞬間「あ、すまぬ」と、ボロミアは身を強ばらせた少女の手を離した。

次に掛けるべき言葉が見つからず、やたらと頬や顎を撫でながら俯きがちに佇むボロミアの目が、その時差し伸ばされた少女の白い手を捉えた。

顔を上げたボロミアは、僅かにボロミアの顔から焦点を外れた辺りを彷徨う少女の瞳に吸い寄せられ、思わず少女のその白い手を取った。

少女はボロミアの長い指が自らの細い指に触れた瞬間、安心した様に彷徨わせていた視線をボロミアに向けた。

ボロミアは少女のその笑顔に、輝く翡翠の瞳を合せたまま少女に問うた。

「そなたの名は?」

「ニーニエルと申します、ボロミア様」

少女は零れる様な笑顔をその薔薇色の頬に浮かべた。

 

その三日後、もう腕を吊っておく必要はないとの医師の許しを得たボロミアは、療病院でヨーレスが布を外すが早いか、療病院の外へ駆け出した。

「若様っ!まだ怪我が治った訳ではありませんよっ!」

ヨーレスが叫ぶ声に「分かっている」と振り向いて包帯を巻いた腕を上げて見せたボロミアは、丁度その時療病院に入って来たトゥランバールをすんでに避けた。

「若、どちらへ行かれる」

いかめしく聞く武将にボロミアは、光の粒を振り撒く様な笑顔を投げて

「兵舎でも教練所でもない故安心致せ」

そう言い残し、その金の髪をさらさらと風に煌めかせて駆け去った。

その後姿を見送るトゥランバールの傍にヨーレスが歩み寄った。

「あの様子だと行き先は決まってるだろうねぇ」

「若は最近庭いじりに熱心故な」

そう言って二人は顔を見合わせて笑い合った。

 

噴水広場から第六階層に向かっていたトゥーリンとベレグは、その第六階層から駆け上がって来た年下の主が、軽やかに彼等の脇を駆け抜けてゆくのを振り返った。

「若、どちらへ?!」

振り向きざま「すまぬ、トゥーリン、べレグ、少々急いでいる」と鮮やかな笑顔で言い残して駆け去る主の後姿を見送ったトゥーリンとべレグは顔を見合わせた。

 

ボロミアが園庭に駆け込んだのと、水桶を運ぶニーニエルが振り向くのは同時だった。

「ニーニエル」

「ボロミア様」

重なった声がボロミアの胸を温かくした。

歩調を緩めニーニエルの隣に歩み寄ったボロミアは、ニーニエルの手からひょい、と水桶を取り上げた。

「ボロミア様っ」

慌てて水桶を取り戻そうと宙を彷徨わせたニーニエルの手を、包帯から覗いた長い指で掴まえたボロミアは

「水汲みはだめだ」

とニーニエルの顔を覗き込んでそう言った。

「でも母様に出来る事は何でも自分でする様にと言われていますのに…」

「それは聞いた。

 だが水汲みはだめだ」

ニーニエルの掌にはまめが出来ている。

「今日から腕を吊っておかずともよいと医師から許しを得た。

 鍛錬も出来ず体が鈍っていた故、水汲みは丁度良い鍛錬なのだ。

 この程度の水桶なら右腕一本でもそなたの倍は運べるぞ」

「まあ、ボロミア様…」

そう言ってふわりと微笑んだニーニエルの笑顔を、ボロミアもまた柔らかな温かい笑顔で見詰めた。

 

ニーニエルと出会った翌日から園庭を訪れるのが日課となったボロミアは、ニーニエルの母親が亡き母・フィンドゥイラス付きの女官であったという事を聞いていた。

そしてまた、ニーニエルがその母を半年程前に亡くしたという事も。

ニーニエルの父は近衛の兵であったが、物心付かぬうちにその父を戦で亡くし、フィンドゥイラスは自分を慕ってドル・アムロスから付き従ってくれた女官とその娘が不自由せぬ様にと、何くれとなく気に掛けてくれていたという事を、深い感謝を込めてニーニエルが語るのも聞いた。

今もまだ母の居室である南翼の窓からよく見える園庭で、緑の芽吹く気配すらない土の上に水を撒くニーニエルに手を貸しながらボロミアが

「それ故そなたはこの庭の世話を?」

と聞くと、ニーニエルはボロミアの方に顔を向け、にっこりと頷いた。

「母上の育てておられた花の苗は皆枯れたと聞いたが…」

ニーニエルは水を撒いた土の上にその白い手を置いて、見えないものを見るように、じっとその土の上に目を凝らした。

「確かに花は枯れましたけれど…、根はまだ生きていますわ」

「分かるのか?」

ボロミアの方に向けられた瑠璃の瞳には明るい光が湛えられていた。

「私は目に映る光は見る事が出来ませんけれど、目に見えない光はよく見えます」

ボロミアは土の上に置いたニーニエルの手を取り、その細い指を見詰めた。

「そなた…辛くはないのか?」

ニーニエルは自分の手を取るボロミアの胸の辺りにじっと目を向けながら

「ボロミア様のお手は…、とても温こうございます」

そう言って顔を上げると言葉を継いだ

「私の目はボロミア様のお姿を見る事は出来ませんけれど、ボロミア様がどの様なお方かは、私の心の内にはっきりと見えます」

ニーニエルは陽の光に縁どられる様な美しい笑顔で微笑み、澄んだ声ではっきりと言った。

「私は目が見えない事を辛いとも不幸せだとも思った事は御座いませんわ、ボロミア様。

 目に映る影を見る事は出来ませんけれど、だからこそ見えるものは沢山御座いますもの」

ニーニエルのその笑顔はボロミアの胸に優しく染み透った。

「ニーニエル」

ボロミアは強くニーニエルの手を握り締め、自らの姿を映す瑠璃の色の澄んだ瞳を、その翡翠色の瞳の輝く光で包み込んだ。

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