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初恋 14

 

数ヶ月ぶりでヘンネス・アンヌーンの岩屋からミナス・ティリスの執政館に帰った大侯の次男は、食堂の前を通りかかったその時、扉の向こうに聴き慣れた声を聞き咎めると僅かに眉を顰め、伺いも立てずいきなり扉の把手に手を掛けた。

 

長い足を組んで、愛らしい給仕の少年の巻き毛に指を絡ませていた隣国の世継ぎの君は、前触れもなく開いた扉に鷹揚に目を遣ると、そこに氷の彫像を思わせる馴染みの公子の美しい姿を認め

「相変わらず無粋な奴だな」

と、口の端で笑って見せた。

その黒髪の継嗣の前から慌てて飛び退り、真っ赤になってぎこちない礼をすると、あたふたと厨房へと駆け戻って行く少年の後姿を見送ったファラミアは小さく吐息を吐くと、面白そうに葡萄酒を燻らせるその継嗣へと険のある目を向けた。

「益体のない事をなさいますな。

 まだ稚い少年ではではありませぬか」

「人聞きの悪い事を申すな。

 私は何も無体な事などしておらぬぞ。

 ただ髪の色を褒めていただけだ」

 

“髪の色…ですか”

彼の人を思い起こさせる少年の甘い蜜色の髪の色は、ファラミアの胸にちくりと小さな刺を刺した。

 

「兄上がいらっしゃらないからと言って…」

「ボロミアが居ればボロミアの髪を指に絡めるのだがな」

ファラミアの言葉を遮り、悠然と言い放つ継嗣のその笑顔に、公子の片眉がぴくりと跳ね上がった。

「一刻程前にオスギリアスより伝令が到着しました故、じき兄上もお戻りになられましょうが、私がこの都に居ります上は、継嗣殿が兄上の髪を指に絡めるなど出来ようはずもございませんでしょう?」

何時もにも増して冷気を含んだファラミアのその物言いに、黒髪の継嗣は訝し気に眉を顰めた。

確かにファラミアとはボロミアを巡って、心胆寒からしめる会話もしばしば繰り広げる事がないではないが、この様にあからさまに刺々しいファラミアを見るのはついぞなかった事である。

「如何致した?弟君」

常にない真摯なセオドレドの声に、ファラミアは我知らず深い溜息を漏らした。

 

「継嗣殿は、兄上初陣の頃、このミナス・ティリスに敵の間者が侵入したという折の事を存じておられましょうか?」

ここ数日頭から離れる事のなかった物思いは、口にするつもりはなかった言葉をファラミアの口の端に上らせた。

しかし思い設けず、セオドレドはその言葉に得心がいった表情で頷いた。

「まあ座れ」

勧められた椅子に、ファラミアは何時になく素直に腰を下ろした。

「敢えてそれを口にする者はおらなんだが、他言無用の達しがあった訳でもない故、いずれそなたの耳にも入いろうとは思っておったが…」

視線を石の床に落とし、眉根を寄せるファラミアの表情を見て取ったセオドレドは、食卓の上のゴブレットに葡萄酒を注ぎ、ファラミアの方へ押しやった。

葡萄酒の注がれたゴブレットに視線を移したファラミアは呟く様に言った。

「兄上を庇い、儚くなった娘がいたとか…」

セオドレドは自らの杯にも葡萄酒を注ぐと

「私は現にその娘をみておらぬ。

 急報を受け我等が東谷よりミナス・ティリスに到着したのは、かの敵の襲撃より3日程後の事ゆえな」

そう言いながらゴブレットを持ち上げ、杯の中でとろりと芳醇な香りを漂わせる深い黄金色の液体を見詰めた。

「しかしあの折のボロミアが、見る者の肺腑を抉る程に憔悴しきっていたのは確かだ」

セオドレドは、彼のその言葉に表情を強ばらせた白き都の、秀麗な公子の顔にちらりと目を遣ると、杯の中の酒に視線を戻した。

“あの折の私も、この様な顔をしていたのやもしれぬな”

 

 

東谷から休む暇もなく馬を駆り、セオドレドがミナス・ティリスに到着した時、この、時に麗しき乙女に見間違えられる程嫋かに見える馬の国の継嗣に、辛うじて追走していたのは、トゥーリン唯一人であった。

そのトゥーリンですら、駆け通しで強ばった体躯を馬の鞍から降ろすのがやっとだったのを尻目に、セオドレドは勝手知ったる執政館への道を大股で駆け抜けた。

しかし執政館でボロミアへの取次を頼んだ侍従は、困った様にただ首を横に振るばかりで埒が明かず、業を煮やしたセオドレドは侍従を押し退け、一人執政館の北翼にあるボロミアの居室へと向かった。

「ボロミア殿!」と、無断でその居室の扉を開けたセオドレドは、しかしその瞬間その場に立ち尽くした。

 

ボロミアは窓辺に立っていた。

まるで日に透けて消えてしまう朧な白い影の様に。

 

セオドレドの声などまるで耳に入っていないかの様に、唯一点を見詰め、己の体を抱き締めてゆらりと立ち尽くすボロミアの、その儚気な姿は、彼岸の岸辺で、その彼方を見霽かす人の様であった。

 

「ボロミア!」

セオドレドはボロミアに駆け寄ると、ボロミアが自身を抱き締めているその美しい長い指を手に取った。

が、その刹那、セオドレドの背筋に冷たい戦慄が走り、継嗣は一旦は手に取ったボロミアのその指を思わず手放した。

“冷たい…”

一度はセオドレドにその手を掴まれ、はらりと胸の前で解けた腕を、ボロミアはゆるゆると再び胸の前まで持ち上げ、広げた両手の中に、見えない何かを見詰める様にその掌にじっと視線を注いだ。

“ボロミアが彼岸の彼方に奪われる…!”

咄嗟にセオドレドはそう思った。

 

今ボロミアの目は、彼岸の岸辺を渡った彼の乙女に向けられている。

その緑玉の瞳が見ているのは、彼岸の彼方にいるであろう、彼の乙女だけなのだ。

 

ぞわり、とセオドレドは、己の躰の最奥から込み上げる、突き上げる様な熱を感じた。

それは初陣前、初めて寝所に伽の女官を上げた夜の熱とも、その後初陣の陣幕の内で、戦の熱に浮かされる様にして知った蜜の味を伴う熱とも、全く質の異なる熱だった。

 

 渡したくない

 

とセオドレドは思った。

 

 例えその相手が誰であろうと、何であろうと、ボロミアを渡したくない

と。

 

ボロミアを抱き締め、自らの内に湧き上がる熱で、冷たく凍えたボロミアに熱を与えたかった。

彼岸に向けられたその翡翠の瞳を自分だけに向けさせたかった。

セオドレドは、その抑えがたい情動に突き動かされた。

 

しかし、ボロミアを抱き締める為に伸ばされたセオドレドのその手は、ボロミアに触れるその寸前で、ぴたりと止まった。

 

 自分より高い背

 自分より広い肩

 そして

 自分より大きな手

 

その手の中に抱き締めた愛する乙女を、ボロミアは失ったのだ。

セオドレドは、自分がボロミアを抱き締め様とするのが、ボロミアのその喪失を埋める為でも、その痛みを癒す為でもない事を知っていた。

それがセオドレドの手を止めさせた。

 

 

 

 嘗てボロミアは代々執政家の長子に伝わる大角笛を受け継ぐ継承式の夜、メレスロンドで開かれた宴の折、人熱れを逃れて出た

 

 月明かりの露台で私を抱き締めてくれた。

 

 唯ボロミアと同じ境遇にあるという事実を共有したいが為だけに口にした「私も幼くして母を亡くしました」という一言に、

 

 ボロミアは寸分の躊躇いもなくその温かな胸に、しっかりと私を抱き締めてくれた。

 

 

 そしてその長い美しい指で力強く私の手を握り締め

 

 「例え立つ瀬の違いはあろうとも、我等は生涯の友となりましょう、セオドレド殿」

 

 真っ直ぐに私を見詰めてそう言った。

 

 ボロミアのその手の温もりは、今も私の中に生きている。

 

 思えばその日以来、私の胸からその時の、僅かに潤んだボロミアの透明な翠の瞳の光が消えた事など、一日としてなかった。

 

 

 その日の夜から、私は常に求めていた。

 

 今もこの手に残るボロミアの、その温もりに身を沈め、甘い熱でボロミアのその温もりを、この腕の中に囲ってしまうのを。

 

 甘く耳朶を慰撫するボロミアの、柔らかく蕩けた声が呼ぶ私の名を聞くのを。

 

 そしてボロミアがその目許を薄紅に染め、熱を帯びて潤んだ翠の瞳で私だけを見詰めるのを。

 

 

 私は切にそれを求めていた。

 

 

 

 

“ボロミア、私は…そなたが…”

止まっていた継嗣の指が微かに動いたその瞬間、部屋の扉を叩く控えめな音が室内に響き、セオドレドはびくり、と肩を震わせた。

 

しかしボロミアは、その耳に何の物音も聞こえていないかの様に、唯宙を見詰め、身動ぎ一つせず窓辺に立ち尽くすだけであった。

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