がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
宿業 10
ファラミアは成人に先立ち婚儀の意義や夜伽の趣意、床入りの作法に関する講義を受けた時の事を思い出す。
実のところファラミアは講義など受けずともその内容については充分把握していた。
実践についてはともかく、暇さえあればミナス・ティリスが誇る広大な書庫に篭もり、手当たり次第に書物を読み漁る少年であったファラミアにとって、それは既に蓄積された知識の一部に過ぎないものとなっていたのだ。
しかし講義を受け持つ内官に敢えてそれを高言し不興を買う様なファラミアでもなかった為、表面上は至極真面目に講義を受けた。
そんなファラミアの態度に気を良くした内官は
「やはりご兄弟でいらっしゃる。
兄君とよく似ておられまするな」
と上機嫌で言った。
内官のその機嫌の良さに乗じファラミアが聞き出したところに拠れば、この様な講義では名家の子息でも落ち着きなく講義を脱線させる者や、それとは逆にあからさまに不快な表情で講義を無視する者も多い中、ボロミアはしゃんと背筋を伸ばし、至って真面目に講義を受けたのだという。
だがその態度もさることながら、何より内官が感服したのはボロミアの言にあったのだという。
曰く。
「家門の血を絶やさぬ為子を成してくれる御婦人には礼を尽くさねばならぬ。
その作法を学ぶのであれば真面目に講義を受けて然るべきであろう。
そうであらねば御婦人に礼を欠く」
何ともボロミアらしい生真面目な言葉だと、ファラミアは思う。
そして今でもボロミアの本質はその頃と全く変わっていない。
そのボロミアが執政家の血を絶やさぬ、という責務より亡き乙女への誓を優先するのかと思えば、ファラミアの胸の蟠りは暗さを増さざるを得ない。
一方でファラミアは
“それにしても”
とも思う。
妻を娶るの娶らぬのというだけの話であれば、亡き者への誓を守るという精神論の範疇かも知れぬが、現実問題としてボロミアは、健康な肉体を持つ成人男性なのである。
精神論だけでは済まぬ事もあろう。
寝所に伽を上げぬからと言って、ではボロミアが下層階のいかがわしい店に出入りするなどという事は全く以て考える余地もない。
それではファラミアが一人寝の夜、ボロミアを想って我が身を慰める様にボロミアも…と考えたファラミアは、その考えを脳裏から振り払った。
ボロミアが誰ぞを想って、などとは考えたくもない事だ。
だが一度気になり始めると、どうにもファラミアにはそれが気に掛かる。
かと言って何の脈絡もなく唐突にそれをボロミアに訊ねる、という訳にもいかぬ。
そんな益体もない事をつらつらと考えていたファラミアは
「灯を持ってくるのであったな」
というボロミアの声に、つ、と足を止めた。
この時期日が落ちるのは早い。
資材用の天幕を出た頃にはまだ西に傾き始めたばかりであった日はとっぷりと暮れ、辺りを取り巻く闇は既に濃い。
人に倍して夜目の効くファラミアにとってはどうという程でもないが、普通であれば確かに足元も危うい宵闇である。
資材用の天幕と居住用の天幕がある場所の距離を考えれば、随分歩調を緩めて歩いていたらしい。
しかし然して広くない宿営地の事であり、ボロミアの占住用に張られた幕屋の入口でちらちらと瞬く松明の火が燃えるのは既に認められていた。
こうしてボロミアと肩を並べて二人きりで歩けるのもあと僅かの間だ。
ファラミアが口を開きかけた時、潅木の茂みから、かさり、と葉ずれの音がした。
こういう時のファラミアは切り替えが速い。
ボロミアと目配せを交わすと二手に別れ、気配を殺してそろそろと潅木の茂みに近づいた。
大方のオークを捕らえたとは言え取り逃したオークが潜んでいるやも知れぬ。
そっと葉ずれの音がする茂みの奥を覗いたファラミアは、まず唖然とし、ついで吹き出しそうになるのを堪えた。
そこに居たのはオークなどではなく、事に及んでいる二人の若い兵だった。
戦場に於ける代償行為として、それは然程珍しい事ではない。
しかし風紀という点では推奨している訳でもない。
それ故こういった場に遭遇した際の対応は概ね現場の指揮官に判断が委ねられる。
ファラミアであれば何食わぬ顔で見過ごすが、さてボロミアはどうするものか、と生真面目で実直な“兄”に目を遣ると、弟を見返したボロミアは、当惑した表情ながらそのまま退くよう目で合図を送って寄越した。
兵等自身は事に没頭し過ぎてファラミア達の存在などには気付いてもおらぬ様子だが、それでも足音を忍ばせそろりそろりと後退ったファラミアは、ここまで退けばもう大丈夫だろうという所できて漸くボロミアの肩からほっと力が抜けたのを見定めて“兄”に声を掛けた。
「よろしかったのですか?見過ごしにされて」
「まぁ…、若い兵のこと故…致し方あるまい」
困った時によくそうする癖で、ボロミアは微かに朱く染まった頬の辺りをしきりに摩りながら、あらぬ方に目を泳がせている。
ボロミアのその姿はつい苛めてしまいたくなる被虐性を秘めてファラミアの目には何とも可愛らしく映る。
そうこうしているうちにもボロミアの幕屋はもうすぐ目の前だ。
幕屋の入口に立つ衛兵の姿を認めたファラミアは、瞬時に“思いやり深い上官”の顔をボロミアに向けた。
「今回は私の天幕が近うございます。
万一の際には私がお側近くにおります故、見張りの兵を休ませてはいかがでしょう。
それに…今宵はもうこれ以上何も起こりますます」
にっこり笑ってそう言うファラミアの言葉に、ボロミアの頬に差す朱の色がぽっと濃くなる。
「そ…そうだな、うん、兵等もゆっくり休ませてやらねば。
しかし我が弟ながら、そなたは真に心配りが行き届く。
そなたの様に心効く上官を持った部下は果報者だな」
「いえいえ、私も彼等が休んでくれた方が気が楽なだけです」
笑って言うファラミアの、これは本音である。
幕屋に着いたボロミアに、今宵はもう下がって休むようにと言われた兵等が一礼し、衛兵用の天幕に去るのを見送ったファラミアは内心ほくそ笑む。
幕屋の入口に置かれている水桶で手を濯ぐボロミアの背に視線を戻したファラミアは
「兄上」
と声を掛け「ん?」と振り向いたボロミアに
「兄上は遠征の際にはどの様になさっておられるのですか?」
と問いかけた。
「どの様に、とは…何がだ?」
不思議そうな表情でボロミアは柄杓に掬った水を口に含む。
「長期の遠征で人肌が恋しくなるのは何も若い兵だけの事ではございませんでしょう。
もしや見目良い兵でも幕屋に上げておられまするか?」
ファラミアのその言葉にボロミアは口に含んだ水を盛大に吹き出す。
「な…何を言い出すのだ、突然」
ごほごほと咽返るボロミアの背を摩りながら
「この様に兄上と戦場で夜を共にした事がございませんでしたので、ふと気になりまして」
そう平然と微笑むファラミアに
「そ…そう言うそなたはどうなのだ!?」
と、薄らと目に涙を溜め、耳まで朱くしたボロミアは、狼狽した声で問い返す。
「私は自身で対処しております故ご心配には及びません」
嫣然と微笑むファラミアに、ボロミアは口元に手を当て俯いてしまう。
「…そ…そうか…」
“これは拙いな”
ファラミアは胸の内で苦笑を零す。
俯いたボロミアの、朱に染まった項が艶めかしい。
“どうやら墓穴を掘ったようだ。
それこそ今宵は自身で対処せねばならぬだろうな“
うっそりとボロミアに見惚れていたファラミアには、それ故口の中でもごもごと言うボロミアの言葉を聞き逃した。
「私は…どうもその…あまりその必要を感じぬ性質…らしい…」
その同じ日の夜半過ぎ、遠く北方の荒地で野伏の頭領は頭を抱えていた。
“ああ…これは拙い…”