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初恋 6

 

「お父様!」

伺いも立てず居室の扉を開けた娘の顔を見たブランディアは既に充分うんざりしていた表情を、更にげんなりとしたさせて、きつく眉を顰めた。

「何事だ、騒々しい」

「お父様はお聞きになっていらっしゃらないのですか!?

 大侯様がボロミア様の…」

「知っている。

 今もデネソール様に上奏申し上げて来たばかりだ」

「あってはなりません!」

間髪入れずニエノールの激昂した声が部屋に響いた。

「当然だ」

ブランディアは苦虫を噛み潰した表情を娘に向けると

「ボロミア様に何の力も持たぬ女官見習いの娘など」

そう言って額に手を当てると、ブランディアはふるふると頭を振った。

「デネソール様ともあろう御方が…」

「お父様、私は…」

「ああ、もうお前は下がりなさい。

 私はこれからまた上奏文を書かねばならんのだ」

ニエノールは父の言葉に唇を噛み締めると、慇懃に一礼し、足音高くその居室を辞した。

ブランディアは娘が出て行った扉を見遣りながらひとつ深い溜息を吐いた。

「全く…、なぜあの女官見習いの娘なのか…。

 亡き父親共々親子揃って忌々しい」

 

翌朝、食欲のないまま食堂に足を運んだニエノールは、いつもは必ず自分より早く朝餉の卓に着いているはずの父の姿がないのを訝しんで、昨夜まんじりとも出来なかった寝不足の目で室内を見回した。

「お父上様は建白書を上程する為、早朝より御同輩の方々とお打合にお出掛けになられました」

微かに訛りのある声に首を巡らせたニエノールは、いつの間にか傍らに立っていた浅黒い肌の家扶を認めて僅かに眉を上げた。

「そう、分かったわ。

 私も部屋に戻ります。

 朝餉はいらないわ」

そう言い残して食堂を出たニエノールの背中を家扶の声が追ってきた。

「姫様」

振り返ったニエノールは眉を顰めて自分より頭一つ分は背の高いその家扶を見上げた。

「何?マブルング」

ニエノールに視線を絡みつかせたまま、その浅黒い肌の家扶・マブルングが言った。

「お父上様からお聞きしましたが、公子様のご婚約が決まったとか」

「決まってないわ!」

ニエノールの頭にかっと血が上った。

「そう…でした、今は、まだ」

その家扶の黒い目の奥が研いだ刃の様に鈍く光った。

「今なら…まだ、間に合います、姫様」

「マブルング?」

家扶の黒い目の光に、その場に射竦められた様に凍り付いたニエノールの背中を、ぞくり、と冷たい感触が駆け抜けた。

 

 

戦時の俘虜として白の都に連れて来られたハラドの少年兵が共通語を解するのに目を留めたブランディアは、功臣への恩賞を下賜される際、その少年兵を自家の雑仕にと所望した。

その希望は容れられ、兵士であった少年は利き手の親指を折られ、片足の腱を斬られた上でブランディアに下賜された。

傷が癒えた後は食事を摂ったり文字を書くのに不自由はせず、多少足を引き摺りはするものの、普通に歩く分には支障を来さない程度にまで少年は回復した。

嘗て兵士であったその少年は、再び剣を握って戦場を駆ける代わりに共通語を学び、高い計算能力と記憶力で資産運用と経理の才を開花させ、少年にマブルングという新たな名を与えたブランディアの信頼を勝ち得た。

それはブランディアが周りの反対を押し切って、自家の財務管理に関わる家扶のひとりにマブルングを取り立てるまでの信頼、という事であった。

それ故ブランディアは、娘がマブルングを“ハラドリム”を呼ぶ事を決して許さなかった。

それでもニエノールにとってマブルングは物心付いた頃から“卑しむべきハラドの民”以外の何者でもなかった。

 

 

「その女官見習いの娘が、公子様の許嫁など許されぬ身になってしまえば良いのです」

嘗ての少年兵・マブルングはニエノールにそう言った。

「難しい事ではありません。

 下層階のごろつきにでも金を掴ませ、その娘を可愛がってやれと一言そう言えば良いだけの事です」

“卑しいハラドリムが…!”

ニエノールは穢らわしいものでも見る様にマブルングを見ると

「何を言っているか分からないわ」

とそう言ってその場を立ち去った。

しかしマブルングのその言葉は、ニエノールの胸に澱の様に沈んで蟠った。

 

「どうなさったの?ニエノール様」

その声で我に返ったニエノールは、瞬時に見事な笑顔を取り繕った。

「少し難しくて…。

 糸の刺し幅が不揃いになってしまいましたの」

名家の子女が集まるこの社交場の女主人である、重臣首座を夫に持つ老婦人は、ニエノールに向かってにっこりと微笑んだ。

「後で見せてご覧なさい。

 手直しして差し上げるわ」

ニエノールはそういう彼女の目の奥にほの暗く揺らめく狡猾な火を決して見逃しはしなかった。

ニエノールにとって、そしてその場にいる全ての女達にとって、ここは社交場などではなかった。

彼女達の視線と舌先は互の夫や父、兄や弟といった家門の男達の出世と地位という天秤の上で動いていた。

ひとつでもその動かし方を間違えれば自家の男達はその地位から引き摺り下ろされかねず、それは取りも直さず我が身の破滅を意味した。

「ありがとうございます。

 奥様にお手解き頂けるなんて光栄ですわ」

ニエノールはにっこりと老婦人に微笑み返すと、刺繍の刺し幅を、少し不揃いになる様に針を動かした。

刺し上げた刺繍が手直しの余地もない程完璧過ぎる事、茶匙に一摘み分の茶葉が多いお茶を淹れる事、僅か半拍竪琴の弦を弾く指が遅れる事、その何がこの社交場での命取りになるかしれないのだ。

ニエノールは細心の注意を払って、老婦人を喜ばせる程度に不揃いな刺し幅の刺繍を仕上げた。

美しすぎてもいけないが、侮られる程不格好でも立場を危うくする。

ニエノールはその境界をよく分かっていた。

“完璧な手直しの余地を残した九割方美しい刺繍”を刺繍枠から外しながらニエノールは思った。

“ボロミア様に必要なのは私よ。

 何の力も持たない唯人の卑しい身分の娘がボロミア様の妻になるなど、断じてあってはならない事だわ“

 

ブランディアは、朝議で決定した午後に緊急で招集される軍議の準備に追われていた。

前夜半過ぎ、東谷攻防への援軍を求めてミナス・ティリスに到着したローハンからの使者に戦況の報告を受けた後、午後に軍議を招集する事を決するだけに朝議の時間が費やされ、用意した建白書を上程する余地はなかった。

だがブランディアの思考は既に軍議の方に切り替わっていた。

出兵となれば、物資の準備に掛けられる時間や備蓄の状況、歳費の見直しから資材の確保まで、やらなければならない事はあまりにも多かった。

 

朝の教練を終えた後、午後に軍議が招集される事が兵達の間に伝えられ、非番の者を除き、午後は兵舎にて待機する様にとの伝達が下された。

「教練に復帰した初日にお気の毒ですな」という朋輩の軽口に「全くだ」と笑って答えたボロミアだったが、下士官詰所の窓から西日が差し込む頃になると、さすがに口元から笑みは消えていた。ボロミア以外の小隊長達も「随分軍議が長引いている様だが…」とざわめき始めた頃、漸く士官である中隊長達が軍議伝達の為、詰所に姿を現した。

第1大隊旗下の第1中隊長であるグウィンドールから東谷の戦況説明があった後、援軍要請に対し、第7・第8の2個大隊の出陣が決したとの伝達がなされ、その後大隊旗下にある各中隊とその指揮下の小隊長は作戦内容展開の為詰所に残った。

そしてその他の士官と下士官は、伝達を待つ兵等の元に向かった。

ボロミアはグウィンドールが傍らに歩み寄るのを見計らって彼に歩調を合せた。

「唯の援軍要請ではないな?」

「敵の動きが読めません。

 軍としての体裁すら整っていない雑兵ばかりの大軍を投入して東谷を攻撃する理由が見当たりません。

 にも関わらず引く気配も無い攻撃の真意が掴めませぬ。

 ローハンでは業を煮やした公子殿が自ら出陣を申し出られたそうです」

「セオドレド殿が?」

足を止めたボロミアに

「今回は若にお許しは出ませぬよ」

と、グウィンドールが苦笑した。

「分かっている」

ボロミアも苦笑を返し、再び歩き出した。

「但しトゥーリンをお貸し頂きます」

「トゥーリンを?」

「第7大隊旗下の第1小隊に負傷欠員がありますので、補完兵として仮配属の承認をして頂きます」

「分かった。

 べレグは一緒でなくて大丈夫か?」

「べレグには別の仕事をしてもらうやもしれませぬ故」

「別の仕事?」

「今はまだ杞憂ですが」

そう言いつつもグウィンドールの表情は厳しく曇った。

 

兵等への伝達が終わり、各自帰路に着く頃には既に空には鎌の様な月が掛かっていた。

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