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名にし負う、王と呼ばるる 1  -追想-

 

 

名にし負う

王と呼ばるる身なれども

我が身虚しき

半月<はんげつ>の夜

 

 

中つ国 第4紀120年 3月1日

 

中つ国のほぼ全土を占めるテルコンタール王朝の王都である階層都市、白き都ミナス・ティリスの最上階、第7階層に一際高く聳えるエクセリオンの白の塔は、東から射す日の光に照らし出され、白み始めた空にゆっくりとその優美な姿を浮かび上がらせ始めていた。

 

テルコンタール王朝以前、開祖エレンディルが興したこのヌメノール人の王国は、中つ国第3期の前期に当たる1050年の頃、北方のアルノールと南方のゴンドールに分断された。

その後3018年から始まる大いなる年に起った“指輪戦争”に勝利し、分断された王国を再統一してテルコンタール王朝を打ち立てた功に依り名にし負う王となったエレスサールは、一度は滅亡した北方の、王家の血を継ぐ身に生まれた王である。

だが北方に生まれ育ったこの王は、王国統一後南方の王国ゴンドールの王都であったミナス・ティリスを統一王国の王都と定め、この都を深く愛した。

 

その王はこの日白の塔の天頂部にある小部屋に一人立ち、南東に開いた小窓から、射し染める朝の日射しが大河アンドゥインの水面ににキラキラとその光を照り返す様を見詰めていた。

 

最後のヌメノール人であり上古の代の最後の王でもあるエレスサールは、中つ国の死すべき運命<さだめ>の人の子たちの3倍にも及ぶ長寿のみならず、己が意のままに世を去る恩寵をも、イルーヴァタールから与えられていた。

もう幾年も前からエレスサールは、その恩寵を以て人の子の運命に従い世を去る日を心に決めていた。

エレスサールの一粒種である王国の世継ぎエルダリオンは、父からその意を告げられた時驚愕し、思い留まる様父の説得を試みた。

しかし父の意が決して揺るがぬと知ってからは覚悟を定め、父の望みを尊重してその言に従った。

だがエレスサールの妻である王妃はそうではなかった。

夫の言葉に納得しなかった。

 

前夜王妃から浴びせ掛けられた罵声を思い起こすと、エレスサールは溜息を零さずにはいられない。

 

夜更けに夫の居室を訪れた王妃は、その期に及んで尚エレスサールに逝去を翻意する様懇願した。

しかしエレスサールは王妃の言葉に耳を貸さなかった。

夫のその態度に激昂した王妃は眦を釣り上げてエレスサールを激しく罵倒し、挙句に夫の頬を力一杯平手打ちしたのだった。

騒ぎを聞き付けて父の居室に駆け付けたエルダリオンが、母である王妃を引き摺る様にして部屋から連れ出した時、泣き喚き乍らエルダリオンに連れ出される王妃をエレスサールは、一顧だにしなかった。

騒ぎの治まった夜半過ぎ、葬礼までには廟所に向かう故探さぬ様にと息子に宛てて書付をしたため、エレスサールはひとり人目を忍んで白の塔のこの小部屋に上ったのだ。

嘗て冥王の目となり”見る石“と呼ばれたパランティアの石が置かれていたこの部屋の存在を、王妃は勿論、嫡男であるエルダリオンにも、エレスサールは知らせてはいなかった。

自分が世を去った後、この部屋は誰にも知られる事なく朽ち果てるだろう。

勝者の書く歴史からは闇も穢れも修祓され、偉大なる王と気高き騎士の歌のみが歌わ

れる。

“後の世に残る歴史とはそういうものだ”

エレスサールの口元に、皮肉な笑みが薄っすらと浮かぶ。

 

その間にも山の端に残る茜の色は薄れ、明け染める朝の光にアンドゥインの水面が眩しい輝きを増していた。

手の込んだ瀟洒な死装束に身を包んだエレスサールはその眩しさに目を細め、アンドゥインの水面から手にした篭手へと視線を移した。

 

エレスサールが身を包む瀟洒な死装束はエルダリオンが父への餞にと用意したものだった。

だがエレスサールにとっては正直なところ、死装束などどうでもよかった。

大切なのは手にしているその傷だらけの篭手だけだった。

再統一される以前の南方王国ゴンドールの紋章である白の木の図柄が型押しされた古い革の篭手。

その篭手を身に着けてこの世を去る事だけがエレスサールの望みだった。

 

 「120年、120年だぞ。

 この私が120年もの間、性にも合わぬ王様稼業に耐えたのだ。

 もうよいだろう、なあ、我が執政の君殿?」

愛し気にそっと篭手を撫で、エレスサールはそう呟いた。

 

“執政”

そう呼ばれる事を、エレスサールからその職に任ぜられた青い瞳のイシリエンの大公は決して望まなかった。

 

40年近く前に逝ったその大公を、エレスサールもまた、生涯唯の一度も“執政”とは呼ばなかった。

 

傍系とはいえ南方王国ゴンドールの祖たるアナーリオンの嫡流であったエアルヌア王が、アングマールの魔王との戦いで消息を絶った後、ゴンドールの統治は王の執政であったマルディルによって引き継がれた。

その後エレスサールに拠り王政復古されるまでの間、マルディルから数えて第26代となるデネソールまで、歴代の執政達は自ら玉座に上る事なく、執政のままゴンドールを統治し、祖国を支え続けた。

 

歴代のその、祖国に尽くした執政達の忠義に報いる為、エレスサールはゴンドールに於いて唯一王家同様の世襲を許された執政家を存続させ、最後の“統治する執政”となったデネソールの次男であるイシリエンの大公ファラミアをその職に任じた。

だが任じられたファラミアにも、また任じたエレスサールにも、本来“ゴンドールの執政”と呼ぶべき存在は別に在った。

二人乍らに胸に抱く、同じ唯一人の存在こそが、二人ともに“ゴンドールの執政”と呼ぶべき唯一無二の存在なのだった。

 

“我が王”

と、最後に彼の人が呼んだその声が、エレスサールの胸に蘇る。

 

“私に付いて行きたかった、とあんたは言った。

 だが母なる大河アンドゥインにあんたを還した時、あんたに付いて行きたかったのは私の方だ。

 私にはそれが出来たのに。

 あんたと共に逝く事も出来たのに“

撫でていた手を止め、エレスサールは傷だらけのその古い篭手をじっと見詰めた。

“あんたはそれを許してくれなかったな”

寂し気な笑みを口の端に上せ、エレスサールは小さく折り畳んで篭手の留め具に挟んであった古い羊皮紙を取り出した。

書状というには小さく薄いそれは、精々が書付の紙片という程度の大きさでしかなかったが、それにも拘らず折り目をずらして二つに畳まれた紙面の端は、黒い封蝋で閉じられていた。

その封蝋に捺された印璽はゴンドールの王家が持つ白の木の紋章を模ったものではない。

2匹の蛇が互いの尾を咬み合い絡まり合う図柄の印璽。

本来それは、その羊皮紙が白紙であるべき事を示している。

だが開封されていない羊皮紙の、白紙であるべき事を示す印璽が捺されたその封蝋の横には、ひとつの走り書きが記されていた。

 

 名にし負う

 王と呼ばるる身なれども

 我が身虚しき

 半月の夜

 

古いゴンドールの言葉でそう綴られた走り書き。

 

“名にし負う王、か”

エレスサールの口元に自嘲気味の苦い笑みが洩れる。

“あの時私があんたと共に逝けなかったのは、あんたが私にその王を望んだからだ。

 亡国の汀にある祖国に還る救国の王、名にし負う気高き王を。

 だからあの時、私はあんたと共に逝けなかった。

 私が追い詰め、私が救えなかったあんたの為に、私が出来る事は唯ひとつ、あんたが望んだその還る王になる事だけだった。

 あの時野伏の馳夫であるアラゴルンは死に、還る王、エレスサールが生まれたんだ。

 ゴンドールに王が還ったのは冥王サウロンが倒れた時でも、況してや成したる功を誇示するが如き戴冠式の時でもない。

 あんたを母なる大河アンドゥインに還した時、あの時だ。

 あれから120年、私は結構いい王様を演じてきただろう?

 私にしちゃなかなかよくやってきただろう?

 だがな、今私はここにいて、あんたのところにはあの小面憎い弟公やら、油断のならぬ馬の司の世継ぎやらがいるんだ。

 そう思うと私は、時々気が狂いそうになるんだぞ?

 だから…もういいだろう?

 もう許してくれるよな?“

エレスサールは、語り掛ける様に愛おし気な視線を革の篭手に落とす。

“今日、名にし負う王であるエレスサールは死に、野伏の馳夫であるアラゴルンが還るんだ”

 

顔を上げたエレスサールの目の先には、何処までも麗らかに澄んだ春の日の空が広がっていた。

 

120年前と変わる事無く豊かな河の水を湛え、ゆったりと揺蕩う母なる大河アンドゥインを見晴るかすエレスサールの顔からは、いつしか王の仮面が剥がれ落ち、その目には飢えた野伏の表情が表れる。

灰青色の瞳の奥に、金と翡翠と滑らかな象牙の色で象られた獲物の影がくっきりと揺らめき始める。

「だから…」

そう呟くエレスサールの心は120年を経て尚変わらぬアンドゥインの流れに乗り、遥かなる時を越え、野伏の馳夫と呼ばれたアラゴルンへと還っていく。

 

“今度はあんたを泣かさない。

 今度はあんたを離さない。

 この母なる大河アンドゥインを流れ下り、大海の果てのその先、時の果つるその先までも、何処までもあんたを追い続ける。

 だから…ボロミア…、今度こそ…“

 

 

細めた灰青色の瞳の先には、蕩々と広がる母なる大河アンドゥインが、春の日の光に川面を煌かせ、弛む事無く唯静かに移ろいゆく時の中、悠久の流れを湛え続けていた。

 

 

 

-了-

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