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初恋 13

 

官邸に駆け込んだニエノールは、朝議の最中故と押し留める警備兵に、青ざめた表情で父への取次を訴えた。

「朝議は大侯様が白き塔よりお戻りになるのをお待ち申し上げておる」

玄関広間に姿を現したブランディアを目にしたニエノールは、警備兵を押し退ける様にして父に駆け寄った。

「マブルングが…」

「マブルング?」

怪訝そうに眉を顰める父に、ニエノールは蒼白な顔で取り縋った。

「ボロミア様のお命を…」

「ボロミア様の?どういう事だ?

 確りいたせ、ニエノール」

「マブルングがお父様をお呼びしろと…。

 お願いです、館に…。

 マブルングを止めて下さい、お父様」

ブランディアは娘の目の中に、猶予ならざる必死な色を見て取ると、それ以上問う事無く

「分かった。

 私は公邸に戻る故、そなたはここで待て」

そう言い置いて、公邸へと駆け出した。

ニエノールは父のその後ろ姿を祈る思いで見送った。

 

 

ブランディアが公邸へ駆け戻ったその時、弓を背に担いだ南方人は屋上への階段を駆け上がり、東夷の二人は公邸付の警備兵と刃を交えていた。

そして嘗てハラドの少年兵であった男は、公邸の玄関口で僅か数日前まで己が仕えた家令の遺骸に腰を下ろし、床に立てた長剣の柄に顎を乗せていた。

その男の周りに累々と倒れた家中の者達の遺骸を目にしたブランディアは、息を飲んで足を止めた。

顔色を失くしたブランディアの表情をじっと見詰めていた男の口元にうっすらと、満足そうな笑みが浮かんだ。

「マブルング!」

マブルングと呼ばれたその男は、もったりと家令の遺骸から腰を上げた。

「これは一体何の真似だ!」

「何の真似もない」

男は剣を構え、じり、とブランディアににじり寄った。

「我等ハラドの民が忠節を誓った主の命に従ったまで」

ブランディアは素早く足元に転がった短剣を取り、振り下ろされた男の剣を受け止めた。

「そなた、命を救われた恩を忘れたかっ!」

「恩?恩だと?」

男の、利き手の指を折られ足の健を切られた者とは思えぬ剣の気迫に圧され、ブランディアの剣は横に滑り、受け止めた長剣の刃が逸れた。

逸れた刃の切先はブランディアの頬を掠め、一筋走った傷口から真っ赤な血が滴った。

「お前等の飼い犬にされる事の何が恩だと言うかっ!」

次々と繰り出される男の刃をすんでに避けながら、ブランディアは徐々に壁際へと追い込まれていった。

「戦場で戦士として死ぬのが俺の望みだった!

 その望みを絶ったお前達にどんな恩を感じろというのだ!」

そう叫んで振りかぶった男の長剣は、ブランディアを袈裟懸けに切り裂いた。

 

倒れた朋輩を横目で見ながら、その警備兵は東夷の男を袈裟懸けに切り倒すと、死骸を跨ぎ超して、南方人の後を追った。

 

血の滴る長剣を手にした男は、既に生ある者の顔色を失いつつある嘗ての主の顔を、冷ややかな眼差しで見下ろした。

「マブルング…」

口元から溢れた血と共に吐き出されたブランディアの声に、男の目が鋭く光った。

「それは俺の名ではない」

血に濡れた剣を振り上げ、男は言った。

「俺の名は…」

 

屋上への階段を駆け上っていた南方人の男は、追っ手の足音で間合いを測り、振り向きざまに一本の矢を放った。

その矢は過たず追っ手の胸を貫き、警備兵はその場にどう、と倒れた。

 

男の目には、その胸に深々と突き立てられた、折れた剣を握るブランディアの姿が映っていた。

男の手から長剣が滑り落ち、「貴様…」と手をかけた瞬間、嘗ての主はぐらり、と傾いて、そのまま人形の様に床に転がった。

よろよろと後退った男は、渾身の力で胸に刺さった折れた剣を引き抜き、それを床に投げ捨てた。

その瞬間、大量の血が男の口から溢れ出し、男はがくり、と床に膝を着いた。

虚空を見詰める男の目は、その時既に、何も映してはいなかった。

 

 

パランティアの石を手にしたデネソールは、その漆黒の球の中に、無謀としか言い様のない突撃を繰り返し、累々たる死骸の山を築く東谷のオーク達を見た。

少数部隊である斥候にさえ、容易く倒される海賊の雑兵達を見た。

ミナス・モルグルから攻め上ったはずの敵軍が、オスギリアスの1マイルも手前を、剣すらろくに扱えぬゴブリン達の骸で埋め尽くすのを見た。

 

陽動と言うにはあまりには呆気なく失われてゆく命の残骸。

 

自軍の兵を、これ程までにむざむざと使い捨てる彼の敵が、真に狙うものが何であるか、それを見極めねばならぬ。

 

デネソールが更に眼を凝らすと、その球の闇の中で、瞼の無い目が蛇の舌の様な炎を燃え立たせた。

 

その目が見ているもの

それは

 

デネソールの背筋に戦慄が走り、その手から漆黒の球が落ちた。

「狙いは…ボロミアか!」

 

 

一心に公邸の方角を見詰めていたニエノールの胸に、その時鋭い痛みが走った。

「お父様…」

口に出した次の瞬間、ニエノールは公邸へと駆け出していた。

 

 

白の木の前に立ち、その滑らかな白い幹に手を当てていたニーニエルの耳が白き塔の扉の開く音を捉えた時

「ニーニエル!」

と、ボロミアの声が響き、ニーニエルはその声の主を振り返った。

 

 

公邸に向かって走るニエノールの、西方の血を継ぐ遠く見る目は、その公邸の屋根の上に、弓を構える一人の射手を見咎めた。

その射手の指す先に視線を走らせたニエノールは、そこに白き公子の姿を捉え、悲鳴を上げた。

「ボロミア様!!」

 

 

白の木に向かいかけたボロミアは、自らの名を呼ぶ声に足を止め、その声の先に視線を向けた。

 

 

ニーニエルはボロミアの名を呼ぶ声を耳にしたその刹那、空気を切り裂く矢羽根の音を、同時に捉えていた。

 

ボロミアへと放たれた矢は真っ直ぐ闇の糸を引き、紺碧の空を駆けた。

 

ボロミアがその矢に気付いた瞬間、ボロミアと黒き矢の間に、ひらりと白き影が踊った。

 

 

飛ぶ様にエクセリオンの塔を駆け下りたデネソールは王の間に飛び込むと、足を止めぬまま、壁に掛けられた伝説の大弓と、交差した二本の銀の矢を掴み取った。

 

 

「ニーニエル!」

その胸を黒き矢に射抜かれた白き乙女は、階段を駆け下り、乙女に向けて差し伸ばされた白き公子の腕の中に、ふわり、と舞い落ちた。

 

 

血の気の失せた顔で棒立ちになっていたニエノールが、その場に崩れ落ちた。

 

 

「目を開けよ!ニーニエル!」

白の木の前に膝を着いたボロミアの腕の中で、ニーニエルの長い睫が微かに震えた。

 

 

大音声と共に開いた白き塔の扉から飛び出したデネソールは、大の男が二人掛かりで弦を引くという、伝説の強弓に銀の矢を二本同時に番え、その弦を耳の後一杯まで引き絞った。

狙い定める間も見せず射放った銀の矢は、ボロミアに向かって放たれた二の矢を弾き飛ばし、更にもう一矢は公邸の屋上から黒き矢の射手を射落とした。

 

 

「ニーニエル」

微かな光を残した瑠璃の瞳が薄らと開き、ボロミアの声のする辺りにその瞳を彷徨わせた。

「ボロミア様…」

 

 

デネソールを追って、開け放たれたままの白き塔の扉から走り出た侍従は、白の木の前の二人のその姿を目にしてその場に凍り付き、女官長は膝から崩れ落ちた。

 

 

「ロスイアと…」

「ロスイア?」

「花の名を…ロスイアと…」

「分かった、分かったから、もう何も言うな、ニーニエル」

 

一息ごとに血の気の失われていく白い頬。

一泊ごとに弱くなる息。

遠くなる愛しい温もり。

 

「ボロミア様…。

 ずっと…、ご一緒しとう…ございました…。

 我が上…」

ボロミアに向かって差し伸ばすかの様に、ニーニエルの白い指が微かに動いた。

「ニーニエル…」

ニーニエルのその細い指を握り締めたボロミアの手の温もりに、ニーニエルが微かに微笑んだ。

「我が君…。

 我が…殿…」

「逝くな!ニーニエル!

 生涯我が妻はそなた唯一人だ。

 だから逝くな、ニーニエル」

微笑みを残したままのニーニエルの唇は、しかし既にボロミアの声に応える事はなく、澄んだ瑠璃の瞳から、その最後の光が静かに失われた。

 

 

ランマス・エホールに向かっていたトゥランバールは、急を告げるミナス・ティリスからの角笛の音に、ペレンノール野から近衛の兵を率いてミナス・ティリスに取って返した。

そのトゥランバールが都の第7階層に駆け上った時そこで目にしたのは、雲一つない蒼天の下、胸に黒き矢を飲んだ白き乙女をその胸に抱き、声もなく肩を震わせる白き公子の姿であった。

 

 

瞼の無い目はちらちらと炎の燃える目を西の方に向けていた。

白き希望の光を屠る事は能わなかったが、確かにひとつの希望をその都から葬り去り、白き光に闇の孔を穿った。

その孔はやがて白き希望の光を身の内から虚無の闇で侵すだろう。

その闇の孔を更に深く抉って毒を注ぎ、耳元に破滅の誘惑を囁く時、白皙の頬に浮かぶ苦痛と恍惚を見るのは如何程の愉悦を我に齎すものか。

瞼の無い目はその淫らな歓びに思いを馳せ、紅蓮の炎をその目に燃え立たせた。

自軍の半数を失った事は、寧ろ待つ楽しみに取って変えられた。

其も、益体もない雑兵など惜しくもないのだ。

 

新たな兵を集め、力を蓄え、いずれ白き光がその身の内の闇に屈して我が足元に膝を折

り、濡れた目で我が情けを乞うその日を楽しみに待つとしよう。

 

そして瞼の無い目は、舌なめずりするかの様にその目の虹彩を、きゅうっと細めた。

 

 “なあ、ボロミアよ”

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