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萌芽 2

 

ローハンの東谷戦勝から3日後、ファラミアは兄・ボロミアと灰色の森まで遠乗りに出掛けた。

 

その前日兄に「明日遠乗りに行かぬか?」と声を掛けられてから、ファラミアはうきうきと落ち着かなかった。

 

「いつも兄上の傍にいたい」

そう思って帰って来たはずのミナス・ティリスだったが、現実にはミナス・ティリスに戻ってからのファラミアが、ボロミアと一緒にいられる時間は極限られていた。

 

ファラミアが帰城した時、すでに1小隊を任されていた兄は戦場に出る事も多く、特にオスギリアスの駐屯に当たる際にはひと月は戻らないのが常だった。

戦場に出ない時でも武術の鍛錬に軍事演習、偵察部隊から敵情報告を受けての軍議など、やるべき事は多く、その上、その僅かな隙を縫う様に「お忍び」と称して朋輩達と城下に足を伸ばす兄の時間を、ファラミアが共有出来る機会は少なかった。

そしてまた、ファラミアはファラミアで、ミナス・ティリスに戻ってからはいずれボロミアが執政職を継ぐ時に補佐する立場となるべく、政はもちろん、城中の儀礼、式典、祭祀に至るまで、学ぶべき事の多さに、一日の大半を、師事すべき学者達と過ごさねばならず、書物に親しむ事を厭わぬファラミアをして、時にそれは大きな徒労感を齎した。

その一番大きな要因は、当然の事ながら師事すべき事柄の内容ではなく、唯でさえ少ない、兄といられる時間を割かれる事にあった。

 

ドル・アムロスに在った時、兄に会える短い時間の全てを、ボロミアはファラミアの為にだけ在ったが、ミナス・ティリスに在っては、ボロミアはファラミアの為だけに在るわけではなかったのだ。

 

兄が自分を愛し慈しんでくれる事は疑いようもなかったが、このミナス・ティリスに在っては、手を伸ばせば届く距離にいる兄が、酷く遠かった。

そして気が付けば、目にしているのはいつも兄の背中ばかりだった。

 

それでも兄は、出来る限り都合のつく時間を弟の為に割いた。

ドル・アムロスに弟を訪ねた時の様に一日中一緒という事は稀だったが、城中に居る時は極力同じ食事の卓に就き、夜自分が休む前には、ファラミアが起きていようが眠っていようが、必ずファラミアの居室を訪れた。

ファラミアはそれを知ってから、ボロミアが城中に居る時にはどれほど夜遅くなろうと、ボロミアが部屋を訪れるまで眠らなかった。

いや、正確には起きてはいるが、眠っている振りをした。

ボロミアが眠る弟にいつもそうする様に、弟の寝顔を覗き込み、その額に柔らかく口付けを落とすのを確かめる為に。

帰郷してからの3年間、ドル・アムロスにいた頃の様に兄を独り占め出来る事など、数える程しかないファラミアにとってそのひと時だけが、兄を独占できる時間であった。

 

それ故その滅多にない、兄を独占出来る、兄と二人きりでの遠乗りはファラミアの胸を躍らせた。

遠乗りに出る前夜、夜具に包まったファラミアは

“灰色の森までの遠乗りなら、少なくとも夕刻までは兄上を独り占め出来る”

そう考え、そしてその「独り占め」という言葉に僅かにその頬に熱を上らせた。

頬に上った熱を枕に押し付ける様に寝返りを打ったファラミアは、高鳴る胸を抑え、寝付かれない幸福感に包まれていた。

 

翌日は清々しく晴れ渡り、遠乗りにはお誂え向きの上天気になった。

朝食後厨房の賄方が「遠乗りにお持ち下さい」と、ボロミアに黒パンと葡萄酒の入った荷袋を差し出した。

その中には僅かながら小さな焼き菓子なども入っていて、ボロミアとファラミアは顔を見合わせて目を丸くした。

「良いのか?この様な贅沢…」

「偶にの事で御座います。

 ご兄弟でお出掛けになられますのは数か月ぶりでは御座いませんか」

そう言う人の好い賄方の笑顔に、兄弟の顔も綻んだ。

「では灰色の森でこの荷袋一杯に木の実を摘んでこよう。

 丁度良い頃合で木の実が熟れていよう程に」

賄方にそう言ったボロミアが、ファラミアに向かって

「帰りが少し遅くなるが構わぬな?」

と笑顔を見せた。

 

構わないどころではない

 

ファラミアは大きく頷くと、賄方が思わず狼狽えてしまいそうな笑顔を彼に向けた。

「心遣い感謝する。

 そなたに喜んで貰える程荷袋を一杯にして戻ろう」

ボロミアは弟のその言葉に声を立てて笑った。

「それでは遠乗りなのか木の実狩りなのか分からぬな」

そんな兄の笑顔を、ほんの少し頬を染めて見詰める弟の、その美しい兄弟の光景を眺めながら、賄方は、前夜自ら厨房に足を運び、息子達の為に菓子の用意を頼みながらも「この事決して他言無用だ」と言い置いた、大侯閣下の仏頂面を思い出し、何とはなく笑いを噛み殺した。

“大侯様にもこの光景を見せて差し上げたいものだ”

賄方は心からそう思った。

 

ランマス・ホエールの北門を出て暫くの間、兄弟は爽やかに風を切って灰色の森に馬を走らせた。

僅かに先を行く兄の背を見て馬を駆るファラミアの頬に、風が心地よかった。

 

しかし、灰色の森まであと1マイル程という所で、ファラミアは聞き慣れぬ耳障りな物音を耳にして思わず馬を止めた。

その物音は、それまでファラミアが耳にした事のない、金属が擦れ合う様な不快な鋭い音であった。

しかもそれは、それほど金属的であるにも関わらず、確かに話し声の様に聞こえた。

不快な話し声には重々しい靴音も混ざって聞かれた。

その足音もまた、話し声同様にファラミアの気分を悪くさせた。

微かに目眩を感じたファラミアはこめかみを押さえて頭を振ったが、その時はっと辺りを見回すと、いつの間にか兄の姿を見失っていた。

ファラミアは慌てて兄の姿を求め、再び灰色の森に向かって馬を走らせた。

 

それから半マイルばかり馬を走らせ灰色の森の入口に差し掛かった所で、ファラミアは不快な物音の正体を目にする事になった。

それはファラミアが初めて見るオークの兵であった。

おぞましく醜いオークの兵は、鉄屑の様な鎧兜を身に付け、重い不規則な足取りで灰色の森に入って行くところであった。

“あっ”

と思った時にはすでに遅く、オーク達の異様な気配を察した馬が、高く嘶いて棒立ちになった。

振り落とされたファラミアが身を起こしてオーク兵を見ると、1500フィート程までに距離の縮まっていたオーク達が、怯えて立ち竦んでいる馬の姿に気付き、恐ろしい速さでこちらに向かって走って来るところであった。

ファラミアは素早く辺りを見回し、手近にあった茨の藪に飛び込み身を隠した。

金縛りにあった様に立ち竦む馬の周りに集まったオークの兵は4人ほどで、隊を組んでいるとは見えず、東谷の戦場から敗走したモルドール軍の残党の様であった。

オーク達はその場で馬を殺すと、暫く何か臭を嗅ぐ様な獣じみた様子で辺りを窺っていたが、やがて諦めた様に、殺した馬を担ぎ上げ灰色の森の中に姿を消した。

 

ファラミアは初めて目にしたオーク達の醜悪で残忍な姿に酷い嫌悪を感じたが、彼らが灰色の森に入って行ったのを見ると、真っ先に頭に浮かんだのは兄の事だった。

“兄上があの森の中にいらしたら…”

そう思うと、ファラミアは血の気の引くのを感じた。

剣の柄を握り締め、震える膝で立ち上がろうとした。

 

その時。

 

日の光を背に、黄金のシルエットを浮かび上がらせて馬を駆る、丈高い人影が、灰色の森から躍り出て来た。

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