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騎士と姫君(後編)

 

「あら、そうね、ラライス。

オロドレスは丁度イヴリニエルと同じ位の背丈だったわね。

手間を掛けて申し訳ないけれど、オロドレスに頼めるかしら、ラライス?」

「はい!奥方様、私行って来ます!」

その若い女官はぱっと頬を染めると、青い瞳を輝かせ、イヴリニエルが引き留める間もなく銀の髪を揺らして部屋を飛び出した。

ラライスの背を呆然と見送るイヴリニエルの耳に

「オロドレスはラライスの恋人で近衛の兵なの。

 殿も目を掛けていらっしゃるとても気持ちの良い若者なのよ」

と言う姉の楽し気な声が虚しく響いた。

「あの…お姉様…」

イヴリニエルが情けない声で姉を振り返った時、部屋の外から賑やかな足音が聞こえ、部屋の戸を叩く音と「奥方様、入っても宜しいでしょうか?」と問う、若い娘の声がした。

「どうぞお入りなさい」

フィンドゥイラスの声で部屋に入って来たのは、ラライスと同じ年頃の数名の若い女官達だった。

「奥方様、今そこでラライスから、今日はイヴリニエル様が下層階にご一緒されると聞いたのですが…」

と、その女官が言い終えぬうちに別の女官が

「近衞の鎧をお召になるとか」

そう口にし、その途端、他の女官達が口々にはしゃいだ声を上げた。

「奥方様の弟君の振りをなさるって…」

「恋人同士の振りでしょ?」

「あなたどうしているの?今日は非番じゃない」

など、きゃあきゃあとかしましくはしゃぐ女官達に、イヴリニエルが唖然としているところへ、ラライスが両手に近衞の装備を抱え、息を切らして駆け込んで来た。

女官達は一斉にラライスを取り囲むと「借りられたのね」「丈は合うかしら」などと、はしゃいだ声で口々に聞いた。

「丁度兵舎に予備品を持って行くオロドレス様にお会いして…。

 丈は大丈夫だと思います」

ラライスは頬を上気させ、そう女官達に答えた。

言葉もなく呆然と突っ立っていたイヴリニエルは「ではお支度をしましょう」と言う女官達に衝立の陰に引きずり込まれ、あれよあれよと言う間に支度が整えられてしまった。

 

「奥方様、ご覧になって下さい」

と、女官が衝立を畳むと、その陰から現れたイヴリニエルを見て

「まあ、イヴリニエル」

と、フィンドゥイラスは、その綺麗な碧の瞳をぱっちりと見開いた。

そしてそれから、にっこりと光の粒が零れる様に微笑んだ。

「まるで本物の騎士様の様に見えてよ」

 

イヴリニエル自身、実際に着てみてその着衣の着心地の良さに驚いた。

革鎧と言っても、足回りの防具は装備せず革の長靴を履き、胴回りは軽い胸甲と背甲を合せた胴鎧、腰部に巻く歩兵用のロング・タセットはメイル・スカートを省略し、腕回りは籠手だけの軽装なので重量も軽く、それはすらりとした手足の長いイヴリニエルの長身を引き立てた。

ドレスの様に足にまとわり付く裾を気にする事もない装備の快適さに、イヴリニエルはあれ程困惑していたのが嘘の様に、すっかり浮かれた気分になっていた。

「本物の騎士様の様」

そう言った姉の声が、イヴリニエルの浮かれた気分に拍車を掛けた。

 

いつの間にやら麻のドレスに着替えていた姉は下級士族の姫君の装いになっている。

当然の事ながら、その美しさがドレスの格式如きで陰ろうはずもないが、今イヴリニエルにおっとりと笑いかけている姉は“次期執政の妻”ではなく、下級士族の姫君・フィンドゥイラスなのだ。

“騎士と姫君として、お姉様と町中に出掛ける…”

血の上ったイヴリニエルの頭からは、ほんの少し前までお忍びで姉と下層階に出る事に当惑していた事など、千里の彼方へと追いやられていた。

沸き立つ様な喜びに胸を躍らせたイヴリニエルは、我知らず芝居じみた大仰な仕草で、姉に手を差し伸べていた。

「では参りましょう、姉上」と。

 

 

いざ下層階へ出てみると、イヴリニエルが考えていた様な騒ぎが町中で起こる様子は全く無く、偶に陽気な物売りの親父などが「よう、別嬪さん、ちょっと見てかないかね」などと声を掛けてくるくらいで、下層階の市民達は、フィンドゥイラスに対して特別な興味を示す事はなかった。

イヴリニエルにとってみればその方が余程不思議なのだが、フィンドゥイラスは「ほら、気づかれないでしょ」と、全く疑念など感じていない笑顔を妹に向けた。

その時イヴリニエルは遠く目の端に捉えた男の顔に、ふと思いが至った。

それは昨夕ミナス・ティリスに到着した時に城中で見かけた男だった。

市民の様ななりはしているが、その男は確かデネソールの親衛隊に属する兵士だったはずだ。

ゴンドールが国として持つ正規軍である近衛に対し、親衛隊とは謂わばフーリン家の私兵である。

たとえ白き塔の総大将を努め、国の統治を担おうと、フーリン家は王族ではない。

執政とは言っても、所詮ゴンドールいちの名家というに過ぎぬ。

しかもデネソール個人の親衛隊である彼等の数は少ない。

私兵を雇う城中の名家の中でも最も少ない。

理由は簡単である。

雇う金が無いのだ。

執政家に金が無いという訳ではない。

事実、デネソールの父であるエクセリオンは他家と同等並みの親衛隊を持っている。

それはデネソールが殊、自身の為の個人資産を持たないという事である。

デネソール自身、自ら親衛隊を求めた事も無い。

しかし城中に多くの政敵を持ち、憎まれる事の多いデネソールには、数こそ僅かだが、彼に心酔し信奉する者達がある。

その信奉者達は一部を除き、その殆どは下位に属する低い身分の者や、国に属さない自由騎士や傭兵であり、彼等は給金の多寡に関わりなく、自ら進んで親衛隊に志願した。

彼等のその熱意に応えた形で親衛隊を持つデネソールは、しかし元々自由騎士であったり庶民の出身であった彼等を、都に留め置く任務は与えなかった。

それ故彼等を城中で見かける事は稀だった。

イヴリニエルがその男の顔を認識出来たのは姉の婚儀の際、流石に都に戻っていた義兄の親衛隊のうちの数人を見かける機会があったからである。

 

西方の血を濃く継いだイヴリニエルは、剣の捌き方も弓の扱いも、誰に師事せずとも、兵舎で兵の教練の様子でも見ていれば、その扱い方を記憶してしまう事が出来る。

それと同様に、一度でも顔を見た事がある者ならば、多少身なりが変わろうと、その人物を見違える事はない。

その上、西方の見通す目を持つイヴリニエルは、2000フィート以内の人物ならば、容易に見分ける事が出来る。

イヴリニエルは意識を集中し、市場の親父と話すその親衛隊の男の声に耳を欹てた。

意識を集中しさえすれば、イヴリニエルの聡き耳は、周囲半マイル程の人声を、簡単に拾う事が出来るのだ。

 

「今回のお付は女官様じゃないんだな」

「公子様からは聞いてはいないが…。

 胸甲に白の木の紋章があるから近衛だろう」

「何だい、お前さんの知らない兵隊さんかい?」

「俺達は普段国中に散らばってるからな。

 近衛の兵とは関わりがないんだ」

「へええ、兵隊さん同士でもそんなもんかね。

 そう言えば、奥方様がわしらのとこに来なさる時にしかお前さんらを見んなあ」

「奥方様の警護に近衛は出せんと、公子様がおっしゃるからな」

「お前さんらも大変だな。

 公子様ってったら、そのひと睨みでオークどもが纏めて卒倒するってえ噂の、おっかねえお方だろ?」

「はは、おっかないお方か。

 確かにおっかないが、立派なお方だ」

「立派なお方ねえ…。

 まあ、あんな別嬪さんを奥方様にもらうくらいだからな。

 立派なお方なんだろう」

「あははは、それは真理かもしれんな。

 まあ何はともあれ今回も宜しく頼むぞ。

 奥方様に気付かれぬ様にな」

「分かってるって。

 へまなんかしてあの可愛らしい奥方様が町へ出られなくなったりしたら、わしらが淋しくなるからな。

 傭兵の頃から知ってるお前さんらも付いてるんだから大丈夫さ」

 

イヴリニエルは彼等の会話を聞き、この市井の状況に“なるほど”と合点がいった。

“まさか西方の血に流れる超常の力が、この様な事に役立つとは思いませんでしたよ、義兄上”

デネソールは姉が下層階に行く日に合わせて手を回し、町中に知らせを出し、歳費を拠出する必要のない親衛隊に、密かに姉の警護を任せていたのだろう。

姉はあの大鷹の様な公子の、大きな翼の元に守られているのだ。

イヴリニエルがちりっと灼ける様な胸の痛みを感じた時

「イヴリニエル?」

と、姉が振り返った。

訝し気にイヴリニエルを見遣る姉の眼差しに“何でもないわ”と言いかけたイヴリニエルは小さく咳払いすると

「何でもありません、姉上」

と、胸の痛みを隠して微笑んだ。

たとえ城中に戻ればあの大鷹の公子の妻であろうと、今の姉は士族の姫君なのだ。

「姉上、私の名はイムラヒルですからね」

「あ」

とフィンドゥイラスは口元に手を当てた。

「ええ、そうね、イムラヒル」

そう言って姉は、にっこりとイヴリニエルに微笑んだ。

 

既に何度か下層階に来ているフィンドゥイラスは、顔馴染みになった女将に声を掛けられた露店の前で足を止めた。

「おや、お姫さん、今日はいつもと連れが違うね」

「今日は弟と一緒なのよ、女将さん」

「イムラヒルと申します」

女性としては低い声でイヴリニエルがそう会釈すると「へええ」とイヴリニエルを見て目を丸くした女将が「姉さんも別嬪さんだけど、あんたもいい男だねぇぇ」と豪快に笑った。

女将の言葉に姉と顔を見合わせたイヴリニエルは、くすりと笑いを漏らした後澄ました顔で女将に向き直ると

「折角だからこれを貰っていこうかな」

と、木箱の中の林檎をひとつ手に取った。

「兄さんいい男だから、おまけするよ」

女将は林檎にひと房のベリーを付けてくれた。

「ありがとう、女将さん」

その女将に、イヴリニエルは晴れやかな笑顔を向けた。

 

林檎を齧りながら姉と一緒に市場の屋台や露店を見て回っていたイヴリニエルは、林檎を食べ終える頃にはすっかり気分が浮かれ切っていた。

その浮かれ切ったイヴリニエルは、露店の女将におまけしてもらったベリーを一粒摘んだ姉に目を留めると「姉上」と、足を止めた。

「なあに?」と見上げた姉の翠の瞳を覗き込んだイヴリニエルは「私にも頂けますか?」と、姉の指の先にあるベリーを指差した。

フィンドゥイラスは指先のベリーとイヴリニエルを交互に見た後にこりと笑い、「はい、どうぞ」と、そのほっそりと白い指先のベリーをイヴリニエルの口元に差し出した。

ばくん、と姉の白い指先からベリーを掠め取ったイヴリニエルは、蕩ける様な瞳で姉に微笑みかけた。

 

「いやあ、仲がいいねえ、お二人さん」

そういうだみ声に我に返ったイヴリニエルが声の主に目を向けると、その店先に足を止めた射的屋の主人が、陽気な笑顔を二人に向けていた。

「今日のお連れさんはいい男だねえ、姫さん」

「弟なのよ、小父さん」

答えたフィンドゥイラスに合わせる様に

「イムラヒルと申します」

と、イヴリニエルは今日何度目かの会釈をした。

「へええ、兄さん近衛かい。

 だったらちょっとやってかないかい?

 10本的中したら景品が振るってるんだぜ」

「景品?」

「宮廷画家が描いた肖像画を複製したフィンドゥイラス様の細密画なんだ」

フィンドゥイラスとイヴリニエルは顔を見合わせた。

「町一番の絵師が描いた逸品だぜ。

 フィンドゥイラス様の複製画は今一番人気だから、なかなか手に入らないんだ」

そう言って景品の棚から主人が持って来た細密画を見たフィンドゥイラスは不思議そうに小首を傾げた。

見ればその細密画のフィンドゥイラスは、やたらと瞳が大きく強調され、その瞳の中には星の如き輝きまでもが描き込まれている。

まるで10才の少女の様な愛らしさのそのフィンドゥイラスは、それを見る当人とは似ても似つかない。

複雑な表情でその細密画を見る姉を横目に見遣りながら、イヴリニエルは笑いを噛み殺した。

「10本的中だな?」と確かめたイヴリニエルに「ああ、10本だ」と、主人は頷いた。

「よし、やろう」と、イヴリニエルは、射的の弓を取り上げた。

 

5本目の矢が的中すると、行き交っていた町の人々は次々に射的屋の前で足を止め、イヴリニエルの次の矢の行方を見守った。

6本、7本…と射的屋の前には人垣が出来、遂に10本目の矢が的の中心を射抜いた時には、わっと歓声が上がった。

「凄いね、兄さん」「さすが近衛だねえ」などと言う市民の感嘆の声に、イヴリニエルは誇らかな笑顔で優雅に応えた。

「凄いな、兄さん。

 10本的中はなかなか出ないんだぜ」

と、楽し気な声の店主から渡された細密画を受け取ったイヴリニエルは、その細密画に注がれている視線に気付き、視線の先を追った。

視線の先に居た小さな女の子は、熱心な眼差しを細密画に注いでいた。

イヴリニエルはその少女の前に跪くと「この画が欲しいの?」と少女に問うた。

「そんな!とんでもないです、兵士様」と慌てる少女の母を目で制し、イヴリニエルは

「フィンドゥイラス様が好き?」

と、優しく少女の瞳を覗き込んだ。

こくこくと頷く少女に、にっこりと笑いかけたイヴリニエルは、跪いたまま恭しく少女のその小さな手を取り

「それでは我が主の名誉にかけ、小さき姫に我が勲を捧げましょう」

そう言ってそっと少女の手に細密画を握らせた。

少女はきらきらと輝く瞳でイヴリニエルを見詰め、ぎゅっと細密画を胸に抱き締めると

「ありがとう、騎士様」

と、はにかんだ声で言った。

少女のその声に、それまでその光景に見蕩れていた市民達からは、盛大な拍手が沸き起こった。

 

その拍手の渦の中、立ち上がったイヴリニエルは、市民達と共に誇らしやかに微笑んで手を叩く姉の前に進み出た。

「立派な騎士ぶりよ、イヴ…イムラヒル」

女神の如く麗しく輝く姉の笑顔を真っ直ぐ見詰め、イヴリニエルは静かな声で言った。

「ではこの行いにご褒美を頂けますか?我が姫君」

「ご褒美?」

きょとんとしたフィンドゥイラスにイヴリニエルは

「姫君が騎士に下さるご褒美といえば決まっています」

そう言って自分の頬を軽く指で叩くと、すっと姉の方に頬を向けた。

きょとんとしていたフィンドゥイラスの表情から花の綻ぶ様な笑顔が零れだし、楽の音を思わせる澄んだ声が聞こえた。

 

「では我が騎士様の風儀にご褒美を差し上げましょう」

 

麗しの姫君は騎士の肩に手を掛けて爪先立ちになると、その柔らかな頬に、そっと優しい口付けを贈った。

 

その瞬間市民達の拍手が一層大きく響き渡り、イヴリニエルは目眩がする程の幸福感に包まれた。

 

それは寒気の中にも春の兆しが感じられる2月中半の暖かな日、14日の事であった。

 

 

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