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名にし負う、王と呼ばるる 9  -情念-

 

 

夜の闇を裂いて逢いに行こう

想いが凝って生霊<すだま>となるのなら

我が身を賭しても

愛しい君に

 

 

中つ国 第3紀 3014年 晩秋

 

夜の闇を衝き実体を持たぬアラゴルンが立ったのは、野営地の天幕の中だった。

1年前吟遊詩人に扮したアラゴルンはミナス・ティリスに入りその術を得た。

以来幾度もの試行錯誤を経て、今では北方に在ってさえ夢を通しボロミアの枕元に立つ事が叶うまでになった。

今もアラゴルンの前には簡易寝台の上で静かな寝息を立てるボロミアの姿が在る。

戦場の事とて完全に軍装を解いてはおらぬものの装備は軽くなっており、戦闘が終結した安堵と共に、その表情には幾何かの疲労感が滲んでいる様子が見て取れた。

実体を持たぬ躰で寝台の端に腰を下ろし、幾分窶れたボロミアの頬にそっと触れたアラゴルンは、既に幾度か繰り返された同じ失望に肩を落とした。

夢の薄衣を通して触れるボロミアの肌が、アラゴルンの指先に伝える温もりはほんの微かにすぎない。

それでもアラゴルンは夢にボロミアを訪わずにはいられなかった。

触れずにはいられなかった。

あまりに長い時の間、アラゴルンはボロミアを求め続けていた。

頬から微かに開いた唇に指先を滑らせ、額から閉じた瞼、頬へと口付ける。

けれど自身の熱をボロミアに伝える事は出来ない。

互いの熱を分け合う事は叶わないのだ。

そうと分かっていてもアラゴルンには求める事を止められなかった。

 

“それ”を続ければ北方に在る“実体”は激しく消耗する。

既にそれはこの1年で何度も経験していた。

酷い時には丸1日寝台から起き上がれぬ事さえあったのだ。

更にもっと悪いのは、その一瞬の甘い夢が齎す“飢え”に突き動かされ、疲労困憊しているにも関わらずそれから何日も続けざまに娼館通いをせずにはおられなくなる事だ。

アラゴルンがボロミアの枕元に立つ度、それは幾度も繰り返されてきた。

それでもアラゴルンは執拗にボロミアの夜着の上を、時に胴着の上を、鎖帷子の上を指でなぞった。

額に、瞼に、頬に、口付けた。

幾度も、繰り返し、繰り返し。

白い喉から項に舌を這わせ、耳朶を甘噛みした。

そうして漸く夢の薄衣の下でボロミアの肌がほんのりと色付き、切な気に眉根が寄せられ、甘い吐息が唇から零れる頃になると決まって意識が遠のいた。

そしてアラゴルンが精根尽き果てて目覚めるのは、真昼の光が射す自室の寝台の上であり、床の上であり、時に野営する毛布の上でありさえするのが常だった。

 

望んでも得られぬ失意を繰り返した。

それでも尚その時アラゴルンは、質量を持たぬ肉体を重ねたボロミアの、ほんの微かににか感じれぬ温もりを切望した。

装備の僅かな隙間に覗く滑らかな白い肌の隅々まで舌を這わせ、口付け、愛撫した。

耳朶を甘く噛みながら声にならぬ声で繰り返し囁いた。

「愛している、愛している、愛している、ボロミア」と。

昂ぶる熱を伝える術はなく、受け入れられる事を望むべくもない。

そうと分かっていても、ボロミアの微かに上気する頬、切な気に寄せられる眉、僅かに仰け反る白い喉、吐き出される甘い息、そのささやかな姿態にアラゴルンの理性は情動の熱に融けた。

あと少し、せめてもう少し。

混濁する意識の中で、狂おしく甘い一瞬の夢を、アラゴルンは、求めた。

 

「…さん、お客さん」

アラゴルンがそう揺り起こされたのは娼館の寝台の上だった。

手足が鉛の様に重く、体を動かすのも億劫だったアラゴルンは目だけを声の方向に動かした。

「追加料金を払ってもらわなきゃ困るよ。

 丸1日眠りこけてて起きやしないんだから」

大きく胸の開いた派手なコルセットを身に着けているその娼婦は、前夜金の髪と緑の瞳だけを見て選んだ女だった。

丸1日眠りこけていたというのは本当だろう。

部屋は既に薄暗くなっており、女の顔はよく見えなかった。

唯、薄暗がりの中では髪の色は赤みが強く、目の色も褐色に近く見えた。

“それでも金は金、緑は緑だ”

アラゴルンは重い腕を持ち上げ、女を引き寄せた。

「金は、払う」

コルセットの紐を解き、胸に散ったそばかすを見ながらアラゴルンは思った。

“そして…白は白…だ”

一瞬だけ得た甘い夢の続きを貪る様に、アラゴルンはそのまま2日間娼館に籠った。

 

それから半年程の間、幾度かの夜を、アラゴルンはその夢に自らの熱を託して過ごした。

夢に乗り愛する者を求めたいとの欲望は募ったが、アラゴルンは極力その情動を抑え込む様務めた。

“溺れてしまえば

 自らを見失う“

 決して忘れてはならぬ戒め

 それは

“ボロミアを護る為に”

引き裂かれる心を抱え、アラゴルンは北の荒地を流離った。

しかし1度得てしまった甘美な夢は目を背け続ける事を許してはくれなかった。

ある夜アラゴルンは遂に希求の熱に負けた。

夢に乗ったアラゴルンが実体を離れて立ったのは、既に見慣れたミナス・ティリスの一室だった。

しかし見慣れたはずのその部屋には、それまでアラゴルンが目にした事のない、ひとつの青く揺らめく淡い光の影が在った。

ボロミアが眠る寝台の端からぼんやりと人の形を取って立ち上がったその影は、アラゴルンを見定める様にじっとその場から動かなかった。

目を眇めてその人影を見詰めていたアラゴルンが影に向かい、す、と一歩踏み出すと、その人影は同時に、す、と一歩足を引いた。

そして宛もボロミアを護ろうとでもするかの様に、アラゴルンの前で大きく両手を広げたのだった。

その瞬間、アラゴルンの胸を激しい怒りが貫いた。

“影の如きが何だというのだ。

 ボロミアの前から退かぬか“

アラゴルンが人影に向かって差し伸ばした手は、影に触れた途端、氷の刃で斬り付けられたかの様な衝撃を受けた。

 

はっと目覚めたアラゴルンは、寝台の上で全身をびっしょりと冷たい汗に覆われていた。

のろのろと寝台の上に身を起こしたアラゴルンは背筋に冷たい汗が流れるのを感じ

“あれは…”

と、衝撃を受けた手をじっと見詰めた。

“ボロミアを想う者が居る”

そしてアラゴルンは痺れの残る手をぎゅっと握り締めた。

“想いが凝って生霊となる程に…

 ボロミアを想う者が居る“

それが誰なのか、アラゴルンには察しがついていた。

馬の司の世継ではない。

あの世継の愛し方ではない。

同じ想いを知っている。

同じ愛し方を知っている。

アラゴルンは握り締めた拳から目を上げた。

“口には出せぬ想い。

 長い時を胸に秘めて過ごす想い。

 果たせぬ熱情、許されぬ望み。

 凝って生霊となる程の。

 その想いを抱える者を、私は…知っている。

 薄い瑠璃色の瞳、白味がかった金の髪。

 目の奥で揺らめく情動の炎を…知っている“

どの様にして“彼”がその術を知ったのか、どの様にしてその術を得たのか、それは問題ではなかった。

“彼”は事実“そこ”に在り、そしてアラゴルンを退けたのだ。

ボロミアから。

譲る訳にはいかない。

渡す訳にはいかなかった。

“彼”の想いが人の則を超えるからではない。

“彼”が抱く想いが、アラゴルンと同じだからだ。

 

 ならば誰がこの想いに勝るものか

 例えあの小賢しい“影”が阻もうと

 夜の闇を越えて会いに行く

 我が身を賭して

 愛しい君に

 

 

 

 

-了-

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