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初恋 10

 

憔悴しきった青白い顔で食堂の扉を開けた時、ニエノールは朝餉の卓に着いていた父が自分に向ける、嘗て見た事のない温かな眼差しに気付き思わず足を止めた。

これまで一度として父からその様な眼差しを向けられた事のなかったニエノールは、その眼差しの温かさに困惑し狼狽した。

朝見の礼を取るのも忘れ、困惑した表情で戸口に突っ立っている娘に温かい眼差しを注いだまま、ブランディアは椅子から立ち上がると娘に歩み寄り、その手を取って言った。

「そなたが今回の宝飾品を供出する先鞭を付けたと聞いた。

 そのお陰で今回の出兵には多大な供出金が賄われ、大侯様に負って頂くご負担がずっと軽く済んだのだ」

そう言われたニエノールは父の顔をまともに見る事が出来ず、父の視線を避ける様に目を伏せた。

「ボロミア様のお役に立つのであれば、あれしきの宝飾品など少しも惜しくなどございませんもの」

囁く様な微かな声でそう言ったニエノールを、ブランディアは強くその腕に抱き締めた。

「私はそなたを誇りに思うぞ、我が愛する娘ニエノール」

ニエノールはその大きな瞳を更に大きく見開き、父に返すべき言葉を失った。

「公子様の事は気に病むでない。

例え大侯様がお許しになろうと、重臣の承認なくしては正式なご婚約とは言えぬ。

 実を尽くしてデネソール様に直言致さば、必ずや大侯様はお分かり下さる。

 公子様にとって真に必要な妻となるべきが何れの娘なのかは。

 案ずるな、そなたの誠は必ずやボロミア様のお心に届こう程に」

「お父様…」

ニエノールの見開いた瞳から大粒の涙がはらはらと零れ落ちた。

生まれて初めて取り縋った父の胸の中で、初めて流す温かい涙が、いつまでもニエノールの頬を零れ落ちていった。

 

 

ペラルギアへの派兵は3個大隊に及ぶ大部隊となった為、その準備だけでも城中は慌ただしかったのだが、有事の急に際しては即座に増兵が適う様、併せてオスギリアスの増兵部隊も臨戦態勢を整えていた為、出兵準備に関わる者達は、午過ぎになっても一息つく間もない雑務に忙殺されていた。

ブランディアもまた朝餉の後早々に官邸に戻ったのだが、その父を公邸の門口まで見送ったニエノールは父の姿が見えなくなると、急ぎ公邸の中に取って返し、マブルングの姿を探して、家中を聞き回った。

 

“最早あの娘に手出しする必要はない”

一刻も早くマブルングを見つけ、その事を伝えねばならなかった。

 

しかし聞き回った家中の者達の中にその日マブルングを見た者は誰もおらず、見つからぬ家扶の行方にニエノールは不安を募らせていった。

 

 

夕刻になり、ボロミアとグウィンドールがミナス・ティリスの大門を潜るペラルギアへの派兵部隊の中にべレグを見送った頃、城中に残る兵達はここ数日来の多忙から漸く解放され、ぐったりと弛緩していた。

そんな彼等の中には、日常業務の一つである市中での事故を報告する警備兵からの報告書に目を留める者はいなかった。

 

机上の雑多な書類に埋もれたその報告書には

『第1階層にて下働きの女官と覚しき娘の遺体を発見せり』

そう記されていた。

 

 

前日、出兵準備の為中止されたこの日の朝議では、既に決定事項であるオスギリアスからの伝令があり次第増兵部隊を派兵する事を確認する以外格重要な案件もなく、数日ぶりに滞りなく討議を終えた。

滅多に朝議で発言する事のないデネソールは、この日も終始黙してその鋭い視線を討議の場に注いでいた。

 

重臣達が辞去した官邸の会議室で、デネソールはじっとその視線を宙に据えたまま、遠く高く、西方の血になる思索の翼を広げていた。

 

デネソールは通常執政家の者が持つ親衛隊を持たない。

厳密に言えばデネソールにも親衛隊はいる。

但しその親衛隊の職務は、大侯の側近くにあって大侯の身を守る、通例の親衛隊とは違う。

自ら親衛隊を求める事はなかったが、かと言って市井から大侯の親衛隊に志願する者を拒む事もしなかったデネソールが、彼等傭兵や自由騎士に与えたのは、城中に上がり大侯の身辺警護を担う職責ではなかった。

剛勇で知られるデネソールは己の身辺を警護する為の親衛隊を必要としなかったのだ。

大侯・デネソールが必要としたのは身辺の警護ではなく情報だった。

濃く西方の血を継いだデネソールの、遠く広く見る目と、疾く聡く聞く耳を以てしても、国中の情報の全てを手中に出来る訳ではない。

ヘンネス・アンヌーンの偵察隊から上がる情報は元より、デネソールはより広く、より多くの情報を求めた。

それ故デネソールの親衛隊は傭兵や自由騎士であった頃と変わらず国中を放浪した。

但し彼等が傭兵や自由騎士であった頃と違い、親衛隊としての権能に依り、市井の民には禁じられた場所への出入りを許され、寝泊りする際の宿代を免責された。

 

それを知った時城中の重臣達は

「金でどうとでもなる傭兵如きを然様にご信頼なさるなど」

と大侯に詰め寄った。

彼等自身高額な報酬を以て、大侯より数段数多くの傭兵を私兵として雇い入れており、その彼等が私兵を雇うと同様、大侯が大侯自身の個人資産で賄っている親衛隊の処遇に対し口出しする筋合いなどないにも関わらず、である。

しかし大侯はそれについて問う事はなく、微かに口の端を上げて言った。

「予は信の置けぬ者に金を払っておるつもりはないが、貴公等はそうではないと申すか」

と。

 

その親衛隊からの情報にヘンネス・アンヌーンの報告書、デネソール自身の遠く見る目を以てしても、今回の敵の動きはその真意を測りかねた。

 

「…様、大侯様」

侍従の声に大侯は、大きく広げていた思索の翼を畳み、現にあるその身に戻った。

「伝令が到着するまでに戻る」

そう言って立ち上がった大侯に、侍従が

「伝令とおっしゃいますと…」

と慌てて問うのに皆まで言わせず

「オスギリアスからだ」

と答え、デネソールは侍従を残して会議室を後にした。

 

官邸から外に出たデネソールは、その官邸の北側に聳えるエクセリオンの高き塔を見上げた。

その塔の最上階に“あれ”がある。

 

“あれ”ならば、敵の真意を知る術を映し出す事が出来るかもしれぬ。

 

しかし“あれ”を使う事には大きな危険を伴う事を、デネソールはよく承知していた。

 

デネソールは迷いを断ち切る様に、官邸の西側に設えられた緑滴る園庭に歩を踏み出した。

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