
がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
血脈 3
ミナス・ティリスに戻ったファラミアは居室で誓剣を手にし、その白銀の鞘を深い思いで見詰めていた。
“叔母上…”
今は確かめる術もない叔母の心の在りどころが、その鞘を通して流れ込んで来る様で、ファラミアは誓剣を両手で包み込むと、その心を亡き叔母に馳せた。
その日教練所での修練を終え自室に向かう途中、イムラヒルは扉を蹴り飛ばす勢いで居室から飛び出して来たイヴリニエルとすれ違った。
慌ててイヴリニエルの後を追って飛び出して来た女官長に「どうした?」と聞いても、只おろおろと要領を得ないので、イムラヒルは「私が探してこよう」と言い置いて、15の齢を過ぎても相変わらずな姉・イヴリニエルを探す為踵を返した。
居室から飛び出して来た時の様子から推して、あのままフィンドゥイラス姉上の所へは行くまいと踏んだイムラヒルは、イヴリニエルお気に入りの場所に足を向けた。
宮中の裏手にある小さな果樹園はイヴリニエルのお気に入りの場所だった。
果樹園の中で一番大きな林檎の木に登ってベルファラスの海を眺めていると、爽やかな甘い香りに包まれて、先程の不快な気分が少しだけ和らいだ。
その時、樹の下から双子の弟・イムラヒルが自分を呼ぶ声が聞こえた。
「あんたも登ってきたら」
イヴリニエルは弟に向かって大声で怒鳴った。
暫くするとイムラヒルがするすると木を登って来て、イヴリニエルが座っている枝の少し下の枝にひょいと腰掛けた。
イヴリニエルが林檎をひとつもいで弟に投げると、その実を受け取ったイムラヒルはイヴリニエルを見上げて言った。
「女官長が困っていたぞ」
イヴリニエルはそれには答えず、食べ終えた林檎の芯を遠くに放った。
「これで何度目だ?」
「さあ、何度目かしら」
弟がため息を吐いたのが分かった。
「ねえ、イムラヒル」
「んー?」
「あんたもう寝所に夜伽は上げたの?」
イムラヒルは齧りかけの林檎を吐き出して盛大に咽せた。
「突然何言い出すんだ」
「だって私があの下らない講義を受けてるって事はあんたも同じでしょ?」
「それはまあ…」
と言葉を濁す弟を尻目に、イヴリニエルはひらりと座っていた枝から飛び降りた。
そのまま井戸で手を洗っているとイムラヒルもやって来たので、イヴリニエルは弟の為に井戸の水を汲んでやった。
「言っとくけど、これはあんたが男だからやってあげてるんじゃないわよ。
あんたが弟だからやってあげてるんだからね」
「分かってるよ」
イムラヒルは苦笑して言った。
そのまますたすた歩いて行こうとするイヴリニエルを「ちょっと待てよ」と呼び止めて、イムラヒルが林檎の樹の下に脱いでおいた靴を履いていると、イヴリニエルが戻って来て林檎の木に凭れ掛けた。
所在無げに足元をぶらぶらさせながら
「あんた、あんな講義受けてて楽しい?」
と問うイヴリニエルに
「楽しいも楽しくないもないだろ?大公家の嫡男なんだから。
家系の血を残す為の一種の義務みたいなもんさ、大公家に生まれた」
そう答えて、靴を履き終わったイムラヒルは肩を竦めた。
「家系の血、エルフの血、西方の血」
イヴリニエルは小さくため息を吐いた。
「そんなものに何の意味があるのよ」
宮中に帰る道を並んで歩きながら、イヴリニエルは弟に不満をぶつけていた。
「あんたはいいわよ、その気になれば、超常の力だって、戦場でも政でも役に立つ事はあるだろうから。
でも私にそんなもんがあってどうだっていうの?
人の心が読めようが、遠く先を見通せようが、鋭い目があろうが敏い耳があろうが、それが何の役に立つの?」
イムラヒルには返す言葉がなかった。
「所詮その西方の血の力を持つ世継ぎが欲しいどこぞの殿の子を成す為の道具よ」
「イヴリニエル…」
「冗談じゃないわ、牛や馬じゃあるまいし」
暫く二人共黙って歩いた後、イヴリニエルはポツリと呟く様に言った。
「お姉様がこんな講義をお聞きになってらっしゃらないといいんだけど…」
イムラヒルはその日初めてこの勝気な姉の青い瞳に“憂い”と呼ばれる影が差すのを見た。
しかしイヴリニエルのその憂いが取り払われるのには大した時間は要さなかった。
渋々戻った居室での講義で、女官長が「お姉様でしたら大人しく聞いて下さったでしょうに」と零したからである。
女官長の言葉を耳にするや、ぱっと顔を輝かせたイヴリニエルは
「お姉様はこの講義をお聞きになった事がないの?」
と声を弾ませて女官長にそう聞いた。
女官長はイヴリニエルのその反応に面食らいつつも
「ええ…あの…フィンドゥイラス様は、お父上様が何処にも嫁には出さぬ故必要ないとおっしゃって…」
と、どぎまぎと答えた。
それを聞くやこのじゃじゃ馬姫は、先程までの不機嫌な表情を一変させ、その後の講義はしごく大人しく拝聴していた為、女官長は密かにほっと胸を撫で下ろしていた。
勿論、当の本人は講義の内容などその耳を素通りさせていたが。
「お姉様!」
いつもどおり伺いも立てず姉の居室の扉を開けたイヴリニエルは、窓辺でうたた寝している姉の姿を目にするとその場に釘付けになった。
緑射すベルファラス湾の遠浅の海を遥かに見晴かす大窓に、おっとりと肩をもたせ掛けて眠る姉の暖かな金の髪は、秋の日射しを移し取ったかの如くきらきらと煌めき、その白磁の肌には、眠る姉の背後に見えるべファラスの海と同じ色の瞳を、今は覆っている瞼を縁取る長い金の睫毛が優しい影を作っていた。
そしてその優しい影と対を成す様なバラ色が、その白い頬を彩ってる。
長く細い白い指と華奢な項、ほっそりとしなやかな肢体が日に透けて、何程の画仙と言えど、この美を画布には写し取れまい思わざるを得ない麗しい光景にイヴリニエルは心を奪われた。
イヴリニエルには、それは何ものにも侵さざる神聖な光景に見えた。
そっと足音を忍ばせて姉に近づくと、イヴリニエルは魅入られた様に姉の白い額にそっと静かに口付けた。
そしてその足元に跪くと、生涯を誓った姫に忠誠を捧げる騎士の如く、姉の白く細い手を恭しく両手に包み込んだ。
斯くて、東からの影遠いドル・アムロスの日々は穏やかに過ぎて行った。
そして二十歳までは生きられまいと言われたフィンドゥイラスは二十歳の齢を過ぎ、それから6年が経った。
星の数程あった求婚者は、頑として首を縦に振らぬ大公に年々その数を減じ、今ではフィンドゥイラスを求めてドル・アムロスを訪れる者は皆無だった。
21になっていたイヴリニエルはその状況を大いに喜び、そして自らは人知れず剣の鍛錬に励んでいた。
しかし一家の中で最も色濃く超常の力を受け継いだこの姫には、その剣の技では、愛する者を守る事能わぬ未来が朧に垣間見える事が度々あった。
そしてそれがこの姫に、尚更頑なに剣を降らせる事となっていた。
ある日いつもの様に姉の居室を訪れたイヴリニエルは、あまりにも長く剣の鍛錬をした為に、マメが潰れ血の滲んた手を姉に見咎められ、その翠の瞳を曇らせてしまった事があった。
言い訳がましく
「私はもっともっと強くなりたの。
だって、私の目に映る未来には愛する者を守る為、剣を握り盾持つ乙女の姿が少しも見えてこないのですもの。
きっとそれはまだ私にその力が無いからなのだわ。
もっと強くなれば、きっと私、愛する者を剣以て守る騎士の様になれるわ。
そうすれば私の目にはきっと、男達に負けない盾持つ乙女の姿が見えてくると思うの」
そう言いう妹の手を優しく包み込んで、フィンドゥイラウスはこう言った。
「イヴリニエル…。
私には貴女の様に先を見通す力は無いけれど、それだからこそ見える未来があるの。
あなたの見ているもう少し先に、もしかしたら盾持つ乙女はいるかもしれないわ。
もう少し先、いいえ、ほんの少し先に。
見えないからこそ、私にはその未来が信じられるの。
貴女がその目に見える未来を不安に思うなら、私の…この姉の言葉に望みを見出してはくれないかしら?
望みをお持ちなさい、イヴリニエル。
でも無理をしてはだめ。
人にはそれぞれ定められた宿命があるわ。
だから私達の代ではもしかしたらだめでも、次の代、それでもだめならその次の代で望みが果たされるかもしれないでしょ?
定命の人の子である私達はそうして望みを繋いでゆく事が出来るのよ。
だから無理をして自分を傷つけてはいけないわ、イヴリニエル。
貴女が傷付くのを悲しむ者がある事を忘れないで」
「お姉様…」
姉に包み込まれた両手はじんわりと温かく、イヴリニエルには、その温もりに両の手の傷が癒されていく様に感じられていた。
その年、遥か遠くミンドルルイン山の東の果てに聳え立つ、ドンゴールの守護の塔を持つミナス・ティリスから、執政の大侯エクセリオン二世の嫡子・デネソールが訪れるとの知らせがドル・アムロスに齎された。
確たる目的の告げられぬ訪問であったが、40を過ぎて未だ妻を娶らぬこの嫡子の訪問に、アドラヒルは少なからざる胸騒ぎを覚えていた。
とは言え、王家に次ぐ名家であり、執政家の嫡男であるデネソール訪問の知らせにドル・アムロスの宮中は沸き立った。
加えて、剛勇と智謀で聞こえたこの公子の評判にいやが上にも宮中の期待は高まった。
かくしてドル・アムロスに現れたのは、果たして噂に違わぬ丈高い美丈夫であった。