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三点の力学(後編) 15

 

“光の君”を迎えたローハンの兵舎は、ロヒアリム達が大いに盛り上がっていた。

 

黄金館の門前で角笛城からの一行を出迎えた老副官は馬上から目配せする世継ぎの意を察し、ゴンドールの公子に明朗な笑顔を向けて言ったのだった。

「後程ぜひ兵舎の方へ御足労下され。

 兵等が“光の君”にお目に掛かれますのを楽しみにしておりますのでな」

 

 

老副官にとって、初めてボロミアと対面した時の印象は鮮烈だった。

 

ローハンでは、長くゴンドールに住みロスサールナッハから妻を娶り、同国への憧憬が強かった先王センゲルの時代、ローハンの伝統が廃され王宮でゴンドールの言葉が用いられる等、多くゴンドールの文化が取り入れられるという事があった。

しかしローハンの民の全てがこれを快く受け入れた訳ではなく、寧ろこれに因り、ゴンドールに反感を持つ者も少なくはなかった。

特に下層の民の中にその気は強く、当時まだ少年であった老副官もその一人だった。

その為初めてボロミアをローハンに迎える事になった際には、少なからずローハンの兵達の間には緊張感が漂っていた。

果たして現れたボロミアは、整い過ぎた端正な面立ちが厳めしくさえあり、兵達の緊張はいやが上にも高まったのだが、そのボロミアがにこっと笑った途端、印象は一変した。

それは正しく雲間から日が射す様な笑顔であり、気構えていた兵達は一気にその笑顔に引き込まれた。

 

得難い資質だ、と老副官は思った。

 

兵が、特に一兵卒が戦場に於いて命を懸けて戦うのは、決して上官の命などに拠ってではない。

命を賭すに足るだけの所以がなくば、一兵卒が戦場で命を懸けたりはせぬものなのだ。

その所以とは、例えば愛する者の為、或いは自らの功名を勝ち得る為、そして、主君への忠心から、等である。

その中でも主君への忠心などは、一兵卒にとって最も取るに足りぬものである、と自らも一兵卒であった老副官はよく知っていた。

高貴な身に生まれ付いた主君たる者が、一兵卒に命を懸けるに足ると思わせる程の忠心を抱かれるのは生半な事ではない。

それは偏に高き身分に生まれ付いた側の努力によってのみ生成されるのである。

事も無げに兵との垣根を越えているかの様に見えるセオドレドであっても、それは例外ではない。

勿論それを苦とも思わぬセオドレドの持って生まれた資質はあるにせよ、例えそうであったとしても、ローハンの世継ぎであるセオドレドの、自ら一兵卒等の中に入っていく努力なくして兵等との垣根を踏み越える事は適わぬのである。

“努力”などと言えばセオドレドは「痒い事を言うな」と笑うであろうが、事実ローハンの世継ぎとして生まれたセオドレドが一兵卒等の中に立ち混じるというのは、口で言う程容易な事ではない。

然るにボロミアは、笑顔一つで易々とそれをやってのけたのだ。

 

ゴンドール執政家嫡男、白の塔の総大将、“光の君”のふたつ名を冠される高名な騎士。

多くの肩書を持つ見目麗しき大国の公子は、その一見して余りにも貴人然とした美しさ故、初見では血の通わぬ彫像の様な印象を与える事もままある。

それ故その印象を一変させる落差のある笑顔に人々は惹き付けられる。

一瞬にして印象は好転し、それが人の心を掴むのだ。

大国ゴンドールでも王家に次ぐ家名を誇る執政家の嫡男として生まれながら、西方の恩寵に与らぬ唯人であるボロミアにとってそれは大きな力になる。

だがそこに作為や計算が見えればボロミアは、彼を愛し支持する多くの民や兵の信を一瞬にして失うだろう。

しかしその様な事は決して起こり得ない、と老副官は断言出来る。

なぜならボロミアのその笑顔には真実、一片の作為も計算もないからである。

老副官自慢の世継ぎの君が隣国の公子を愛して止まぬ所以である。

セオドレドは決して自身の趣味嗜好だけに依ってボロミアを愛している訳ではない。

国をその背に負う責を定められた者の負う荷の重さは、負うた者にしか理解し得ない。

それ故その荷を負うて尚、掛け値なしに人の心を温める笑顔を失う事のないボロミアをこそセオドレドは愛しているのだ。

そしてまた世継ぎが公子を愛するのと同じく、公子もまた世継ぎの君を無二の存在として愛しているのだと、老副官は諒解している。

本来王を支える執政としての血筋で生まれ付いたボロミアは、誰よりもセオドレドの、王としての稀有な資質を見抜いている。

王たる者が厳に慎むべきは放蕩や酔狂ではない。

王たる者が厳に慎むべきは民に二心を持つ事だ。

権勢の座にあり、生涯その座にあり続けねばならぬ者ほど民に誠実でなければならず、誠実であり続けねばならない。

それが実はどれ程困難で険しい遠い道のりであるかは、その道を踏んだ者にしか分かり得ない。

だからこそボロミアは、何の苦も無く軽々とその道を駆け抜けているセオドレドに敬愛の情を惜しまないのである。

 

老副官は、ローハンの兵に囲まれ、人を惹き付けて止まぬ笑顔を惜しみなく振り撒く隣国の公子を眺め遣りながら確信する。

“我がローハン自慢の殿下と、この公子が在る限り、決してローハンとゴンドールの同盟が揺らぐ事はないであろう”と。

 

 

苦虫を噛み潰した様な表情で羊皮紙から顔を上げたセオデンは、涼し気な笑みを浮かべて目の前にすらりと立つ世継ぎの姿を見ると、更に眉間の皺を深くした。

 

その羊皮紙には半年程前の日付で、角笛城でのミナス・ティリス近衛部隊とローハン軍の合同演習を承認する旨が記されており、承認者としてゴンドールの執政・デネソール自筆の署名が入っていた。

書面では半年程前セオドレドが単騎ミナス・ティリスに赴いた際申し入れた演習要請に対し、あくまでセオドレド個人の要請である為多事多難の折先番は付けられぬ由、日程は後日調整の後追って沙汰の事と明記してあった。

その“後日”が偶々今回だったのだとセオドレドは平然と言い抜ける。

その様な都合の良い話を信じる者など何処にいるとの言うのだ、とセオデンは怒りを通り越し呆れ果ててもいたのだが、同盟国であり大国ゴンドールの執政直筆の正式文書がある以上、それを造言であると追求する訳にもいかず、精々「なぜ事前に報告しなかったのか」と息子に問う程度の事しか出来ない。

それにすらこの世継ぎは「忘れていた」と臆面もなく言って退けた。

「半年も前に酔狂で申した事なので、すっかり忘れておりました。

 されど大侯はあの様に万事もの堅い御方ですし、ボロミアも義理堅い漢です故、約定は約定と、律儀に覚えておったのでしょう」

そうぬけぬけと笑う息子の、亡き妻と同じ黒い髪と黒い瞳は“月明りに霞む朧な星の様”と評された、伏目がちで大人しやかであった妻とは似ても似つかない。

最早返す言葉もなく

“この息子は、一体誰に似たものか…”

とセオデンは、頭を抱え深い溜息を吐いたのだった。

 

 

遅い昼餉の後、漸く帰路に就く事となったミナス・ティリスの近衛部隊を、老副官とその孫である従士を伴って、エドラスから大西街道への分岐点まで見送りに出たセオドレドは、友と別れの言葉を交わした後、衛兵として角笛城に留まった10騎ばかりの近衛兵等と共に馬首を東に巡らせたボロミアの背に向かって「ボロミア!」と声を掛けた。

振り返ったボロミアは西から射す日に光るものを認め、空中でそれを受け止めた。

ボロミアが手にしたそれは、1本の葡萄酒の壜だった。

はっとして顔を上げたボロミアに

「ヘンネスの弟に届けてやれ!」

と、セオドレドの笑いを含んだ声が届いた。

馬首を回して一礼するボロミアに目を細めたセオドレドは

“確かに”ローハンの赤“は桁違いの銘酒だが、知られておらぬだけで酒度の高さも桁違いでな”

と口の端に、にんまりとした笑みを浮かべる。

“口当たりの良さに酒量を過ごせばひとたまりもない。

 飲みつけぬ者には中々厄介な酒なのだ。

 腹の黒い弟卿の事ゆえ、日頃兄を酔わせて好い目を見ようと企んでおろうが、大層な酒飲み相手では、灸を据えてやるにも大盤振る舞いだな“

西日を背負って影となったセオドレドの、僅かに苦笑を含んだその表情は、ボロミアが窺い知る由もない事であった。

 

 

ミナス・ティリスの官邸では、昼過ぎに到着した伝令により、今夜半には角笛城から帰城の途にある近衛部隊がミナス・ティリスに到着予定であるとの知らせが、執務室の大侯に届けられていた。

嫡男帰投の知らせを齎した伝令が執務室を辞した後、ふと窓から差し込む日差しに気付いたデネソールは、読みかけていた資料の束から顔を上げた。

窓外を見遣ったデネソールの目には、一昨日の雷雨で洗われて空気が入れ替わったかの様な澄んだ空の色が、灰色の瞳一杯に広がった。

資料の束を机の上に置いて立ち上がったデネソールは、窓辺に歩み寄り空を見上げて思った。

“随分と久しぶりに空を見る”

 

課題山積する内政問題に加え、日増しに濃くなる東からの影への警戒、更には予てより疑念を持っていたオルサンクの魔法使いに不審な動きがみられるとあって、この一年程デネソールは、官邸の執務室や白の塔の隠された小部屋に籠りきる事が多く、窓外に目を向ける事とて稀だったのだ。

特にここ最近は、同盟国の王・セオデンが“西方より遣わされた使者たる者”故と、魔法使いに肩入れし、あろうことか灰色のガンダルフなどと親交を深めているというのである。

それはデネソールの懸念の一つでもあったのだが、どうやら息子の方は“西方より遣わされた使者”などには更々敬意を払っておらぬ様で、今回もアイゼンガルドの不穏な動きを知らせて寄越した。

嫡男の友と呼ぶには品行方正とは言いかねる跳ね駒だが、王たる器に足る信は置けよう、とデネソールは思った。

色事師であるのが難点だが、世継ぎのその資質が嫡男に向く点については、次男が兄を護るに吝かではないだろう。

ローハンにあの跳ね駒が在る限り、西の守りはまずまず堅い。

それはデネソールの肩の荷を幾ばくかは軽くした。

 

眺め遣る窓外に見える日は、ゆっくり山の端へと降りてゆく。

文官達が主催する臨時議会が招集されるのは明日の午後だ。

 

第6階層へと続く通路を抜けた処でデネソールは、ヘンネス・アンヌーンから戻った次男とばったりと出くわした。

疲れ切った硬い表情で帰城の挨拶を口にする次男にデネソールは、強いて冷たく「うむ」とだけ答えた。

西方の力を行使するまでもなく、ファラミアの表情には“出来れば父とは会いたくなかった”という気持ちがありありと浮かんでいる。

これ程あからさまに気持ちが面に出てしまう様では、懐刀として兄を護る盾となるにはまだまだ力不足だ。

それ故デネソールは、ファラミアと別れて数歩程の処で呼び止められ「父上はなぜこちらに?」と声を掛けられた時、「そなたに申す必要はない」と厳しく次男を切り捨てた。

 

寮病院の前まで足を運んだデネソールは、微かに漂う芳香に足を止めると、香りの先を辿って首を巡らせた。

 

寮病院の裏手にある中庭で、濃い栗色の髪を無造作に束ね、質素な粗織の作業衣を着た薬師の後姿を認めたデネソールが中庭に足を踏み入れようとしたその瞬間、薬師はくるりと振り向いた。

西方の血もあるのだろうが、足音も立てずに歩み寄るデネソールの気配を、いつもこの薬師は、実によく察する。

ぴたりと足を止める執政に「デネソール様」と笑い掛ける顔は日焼けして化粧っ気もないが、ボロミアと同じ齢のその顔からは、未だ生来の美しさは失われてはいない。

「お久しゅうございます」

そう挨拶する姿には、嘗て名家の姫であった名残の、身に備わった優雅さがある。

「ヨーレス様でしたら…」

と薬師が言い差すのを遮り

「ヨーレスではない。

 そなたに用があって参った」

そうデネソールは言った。

「私に、ですか?」

小首を傾げるニエノールという名のその薬師に、今夜半にも角笛城よりボロミア帰投との伝令のあった旨をデネソールは告げた。

「まあ、ボロミア様が」

と瞳を輝かせたニエノールに

「だが角笛城からは長途の騎行。

 一昨日には雷雨にも見舞われておろう」

そういうデネソールの言葉を皆まで言わせず引き取り

「お疲れを癒されます様、薬草湯が御入用ですわね」

とニエノールは微笑んだ。

 

夕餉の後までに湯殿の用意を整えられようかと問うデネソールの言葉に

「ボロミア様のご帰投は今夜半…」

と言いかけてその言葉の意を察したニエノールは、にっこりと笑った。

「承知致しました。

 夕餉の終わられる頃までには御用意させていただきますわ」

 

「では頼む」

そう言い置き、黒い長衣の裾を翻して踵を返したデネソールの背に

「デネソール様」

と、ニエノールの声が掛かる。

振り返ったデネソールにニエノールは、さも今思い出したかの様に言った。

「先程ヘンネスからお帰りになったファラミア様をお見掛けしましたわ」

「然様か」

そう僅かに眉根を寄せたデネソールに、笑いを噛み殺した悪戯気な表情でくるりと瞳を輝かせニエノールは言った。

「大層お疲れの御様子でしたわね」

 

いきいきと輝くその大地の色の瞳を知っている、とデネソールは思った。

大地の色ではなく、それは南の国の温かな海の色であったが。

 

思い出すのは薔薇の東屋だ。

執政家はミナス・ティリスの第7階層に小さな園庭を一つ持っている。

薔薇に囲まれた白い石造りの東屋を持つその園庭は、執政家とその僅かな縁者以外王家の者さえ立ち入る事を許されない。

前執政エクセリオン亡き後、デネソールが執政職を継いだその日、その園庭で夫の手を取って灰色の目を見上げ、悪戯気に微笑んだ妻の、いきいきと明るく輝く緑の瞳。

もう一度あの光景を見られるかもしれない、とデネソールは思った。

今度は見下ろす緑玉色の瞳と大地の色の瞳で。

 

デネソールは顔を上げ、山の端を茜色に染める西の空を見上げた。

嫡男が帰って来る。

明日にはこの都に二人の息子が揃うだろう。

 

 

ミナス・ティリスから20マイル程西にある灰色の森で小休止を取っていた近衛部隊は、山の端に沈みかかる日が投げる残光の中、白き都へ戻る最後の騎行の為、馬に荷を積み直し、出発の準備を整えていた。

ボロミアは葡萄酒の壜が割れていない事を確かめて背嚢に戻し、その背嚢を背負い直す。

“御大将自ら背負っていかずとも”と兵等は笑ったが

「ヘンネスまで出向いて弟に自ら届けてやる事は出来ぬが、せめて都までなりと、手ずから運んでやりたい」

とボロミアは、エドラスからその背嚢を背負い続けて来た。

 

愛馬に跨ったボロミアは東に向けた目を細め、まだ姿の見えぬ白き都へ思いを馳せた。

“父上にお伝えせねばならぬ事が山ほどある”

兵達を振り返りボロミアは言った。

 

「さあ帰ろう、我等が家、ミナス・ティリスへ!」

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