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初恋 4

 

ニエノールにとって“ボロミア様”は、物心ついた頃には既に、いずれ夫となる人の名であった。

 

ゴンドールの重臣である父・ブランディアは、ニエノールが生まれた時小躍りして喜んだ。

夫のその姿を見る妻の目は冷え冷えとしていたが。

 

世継ぎとなる男子を産まねば叱責を受ける事も希ではない時代にあって、女子の誕生をこれ程喜ぶ夫であれば本来妻にとっても喜ばしいはずである。

が、彼の妻にとってはそうではなかった。

時代の常のとして顔も見ぬまま嫁いだ彼女は、婚儀の夜初めて見た、自分と同じ西方の血をひく夫の秀麗な容貌に安堵し、俄かに胸を高鳴らせた。

しかしその夫はその夜、新婚の花嫁に指一本触れぬまま朝を迎えた。

その後も夫が妻の寝所を訪れるのは、懐妊が期待される時期だけに限られ、それも至極淡々と義務的に事を為すのみであった。

にも関わらず、夫が仕える執政家の嫡男に奥方懐妊の朗報が届いたのと時を同じくして妻の解任が知れた時、夫は思い設けぬ程喜んだ。

夫の態度は寧ろ妻には不可解ですらあったが、またこれ程妻の懐妊を喜ぶという事なれば、産まれた子が男子でなかった時の落胆ぶりも如何許りであろうという不安も募らせた。

しかし驚いた事に、執政家の嫡男・デネソールに第一子となる公子・ボロミアが産まれたとの知らせを受けてからの夫は、自らの子は是非にも女子をと、祈る様にその誕生を待った。

それ故公子誕生からひと月程の後、ニエノールが産まれた時の喜びようは尋常ではなかったのだが、彼の妻は産まれた自らの娘の顔を見た夫が最初に発した一言に、背筋が冷たくなるのを感じた。

「ボロミア様に差し上げる贈り物を授かったぞ!」

夫はそう言って、生まれたばかりの娘を抱き上げたのだ。

その瞬間それまで妻が夫に募らせてきた不信感は頂点に達し、妻の心は夫から遥かに遠く隔たった。

元より、妻にさしたる関心を示していなかった夫はその日から妻の寝所を訪れる事もなく、日毎に西方の血の濃く顕れる娘を「ボロミア様にふさわしく」と、その養育に心を砕き妻を顧みる事もなかった。

そしてまた彼の妻もその日以来夫と娘を顧みる事を放棄した。

 

ニエノールが5才になる頃には両親の仲はすっかり冷え切っており、ニエノールが母の顔を見るのは年に数度の公の場に於いてのみであった。

それに反し、父はまだニエノールが物心もつかぬ頃から彼女の生活の全てに関わり、食事の作法から女子の嗜み、学問から芸事まで口を挟まぬ事は何一つなく、そしてその全てに、必ず「ボロミア様の為に」という言葉が冠せられた。

それ故ニエノールが10才になる頃には、ニエノールにとって顔すら見た事のない”ボロミア様”は全ての生活の中心となっていた。

 

 

ブランディアは自分の父親を嫌悪していた。

石の国・ゴンドール代々の名家であり、執政家に仕える重臣でもある父は、しかし決して高潔とは言い難い人物であった。

寧ろ商人から賄賂をせびり、市井の民を見下し、そのくせその見下した民との間に幾人もの庶子を儲け、毎夜の様に寝所に伽を上げた。

母は夫に対しては口を噤み何も言わなかったが、ブランディアにはしばしば夫の所業を詰っては嘆き、最後には必ず「あなたは父上の様になってはいけませんよ」と言った。

幼いブランディアにとって父母は苦痛の種でしかなかった。

それ故近習として時の執政・エクセリオンの嫡子・デネソールに仕えた時、ブランディアは嫡子のその高潔で厳格な人柄に魅了され心酔した。

ブランディアは父よりも母よりも、自らの主、デネソールを愛した。

 

ブランディアの父はその所業が災いし、隠居には早過ぎる歳での退官を余儀なくされ、ブランディアは若くして父の跡を継ぎ執政家の重臣となった。

 

その頃未だ妻を娶らぬ身であった嫡男に対し、西方の血を継ぐ娘を持つ廷臣達は挙って娘を嫡男の妻とすべく画策したが、当の嫡男は彼等の娘を一顧だにせず、周到にお膳立てしたにも関わらず娘に一瞥もくれぬ嫡男に、廷臣達は恨みを募らせていた。

更にその翌年には、執政家に次ぐ名家とはいえ、西方の血に受け継ぐはずの超常の力を一切持たぬドル・アムロスの公女を妻に迎えた嫡男に、廷臣達の恨みは募る一方であった。

丁度その頃「星の鷲」と呼ばれる客将がゴンドールに在り、どこの者とて生国も知れぬ身ではあったが、時の執政エクセリオンの信任篤く、将兵や民の衆望も得ていた為、廷臣達の中にこの者を擁立しデネソールを廃嫡にしようという動きが起きた。

当時独り身であった「星の鷲」を次期執政に立て、デネソールに替え彼等の娘を娶らせる狙いもあったのだが、「星の鷲」が廷臣等のその画策をのらりくらりとかわしている2年の間に執政家にはデネソールの次を担う公子が誕生し、更にその2年後には当の「星の鷲」自身が何処ともなくゴンドールを去った為、廷臣達の企ては虚しく頓挫した。

 

しかし、ゴンドールの要職に就く者達の中には厳格にして冷徹、人の心を読む眼を持つ執政家の嫡男を疎ましく思う者は少なくはなく、殊に長く要職の座を温め、その利権から得る富に潤う重臣達の多くにとってデネソールは目の上のこぶであった。

その反面ブランディアを筆頭に、デネソールの清廉な高潔さ、その無愛想な面に隠された仁徳篤い人柄をよく知る者は、数こそ少ないものの、皆嫡男とその一家に強い愛情を持つ信奉者達であり、彼等は我が身を捨てても敬愛する嫡男とその一家を支え抜く覚悟を持ってデネソールに仕えていた。

だが彼等の多くは低い官職に就く権勢の座から遠い若年の者達であり、嫡男を陥れるべく画策する廷臣達の多くは長く要職に就き、隠然たる権勢を保持する老獪な重臣達であった。

重臣の末席に身を置くブランディアなどは歴代最年少で重臣の職に就いたという妬みも買っていた為、ブランディア自身城中での立場の危うさは嫡男と大差なかった。

しかし、デネソールへの忠義心の篤さに加え、ブランディアより更に若く職位の低い嫡男派の同胞を庇護する立場にあるブランディアは、重臣の座から退くわけにはいかず、権勢の座に結諾々と胡座をかく重臣達の中にあって、歯噛みする思いで日々を過ごした。

 

その後も、生まれたデネソールの公子に西方の血に受け継ぐべき超常の力が顕われないと見るや、重臣達は嫡男とその妻の責を問い、公子と共にフィンドゥイラスをドル・アムロスに返し、西方の血を濃く継ぐ御子を得るべく新たな妻をとの声を上げた。

だがその一年後、彼等の声を打ち消す様に西方の血を色濃く継ぐ次男ファラミアが生まれ、またもや重臣達の声は潰えた。

この様に、内紛の芽は常に寸での所で摘まれはしたが、未だ還り賜わぬ王なき玉座を守る執政家を追い落とし、その玉座を狙おうとする者達との確執を火種として抱えたまま、デネソールは翌年父・エクセリオンの死去に伴い執政の座を継いだ。

 

東からの影を見据えながら内憂に対処するデネソールは常に厳しい施策を迫られ、王なき玉座を守るが故の大侯職であるデネソールは、時を惜しんでその施策に身を削った。

 

デネソールのその様を日々側近くにあって目の当たりにするブランディアにとっては、大侯とその一家を守り支える事のみが彼が生きる意味の全てになった。

 

そんな中デネソールの妻・フィンドゥイラスが死去すると、重臣達はまだ幼い執政の次男を傀儡として懐柔し、その次男を担いでボロミアを廃嫡しようとの動きを見せ始めた。

次男・ファラミアをドル・アムロス預かりの身とする事でその動きは封じられたが、ブランディアは西方の血に固執し、その力に因って自らの権勢を保持する事のみに汲々とする重臣達に対し、激しい憤りを禁じ得なかった。

彼は尊崇し敬愛するデネソールが愛して止まぬその嫡男の美しく清しい姿と澄んだ真っ直ぐな心根に触れる度「この御方を廃嫡などさせてはならぬ」という思いを強くした。

 

ニエノールがボロミアに初めて会ったのは、執政家の嫡男に代々伝わる大角笛継承式の後、メレスロンドで催された晩餐の会であった。

その頃ニエノールは既に城中でも丈高く健康的な肢体も魅惑的な美少女としてつとに名が知れていた。

黒に近い濃い栗色の髪とその髪と同じ色の瞳もゴンドールの人らしく、白の都有数の名家の子女であり、西方の血を強く感じさせる華やかな美貌はいやがうえでも城中の貴公子達の目を引いた。

しかしニエノールにあってはいかな貴公子とて眼中にはなかった。

彼女にとって男子として認識するのは物心付いた頃より顔すら知らぬボロミア唯一人であった。

そしてメレスロンドの主賓席にボロミアが現れるまで、ニエノールにとってボロミアがどの様な人物であり、どの様な容貌であるかは全く認識の外にあった。

それを認識する以前に「いずれ夫になる方」としてボロミアの名は彼女の中にあった。

 

だがメレスロンドに於いてその“ボロミア様“が彼女の前に立ち、光が零れるが如き笑顔と温かな声音を持って彼女に声を掛けた瞬間、ニエノールの世界は一変した。

それまでは唯父に言われるまま義務として学んできた礼儀作法も詩歌も婦女の手仕事も、その日以降全て彼女にとって意味のあるものとなった。

ボロミア初陣後程なく15を迎えたニエノールは名家の子女の習いとして婚姻に備え初夜の嗜みを女官長から講じられた。

その夜、いずれあのボロミア様の腕に抱かれる夜を迎えるのだと思うと、ニエノールは目が冴えてなかなか寝付かれなかった。

しかしメレスロンドで初めてボロミアに声をかけられた後、ニエノールがボロミアの知己を得る機会に恵まれぬままボロミアは初陣から三戦目で浅からぬ傷を負い白き都に戻った。

 

ブランディアは再三彼の敬愛する主に、娘を嫡子の許嫁にと申し入れていた。

西方の血を濃く継ぐ娘が嫡子の妻となり世継ぎを産めば、西方の血に固執する重臣達の切っ先を制する事が出来る。

それがブランディアの考えであったが、それだけではなかった。

娘が嫡子の妻となれば、ブランディア自身が執政家の縁戚となり、要職の座に胡座をかく重臣達と対等の地位を得る。

その地位を以てブランディアが廷臣の人事権を手中に収める事が出来れば、大侯派で城中を掌握出来ると考えたのだ。

大侯にその考えを口にした事はなかったが、大侯はブランディアに対し

「そなたの忠義は疑わぬが、ボロミアの妻となる者はボロミア自身が選ぶ」

とそう言うばかりで、頑として許嫁の申し出に首を縦には振らなかった。

そうこうするうちボロミアは初陣を迎え、その三戦目で浅からぬ傷を負い白き都に戻った。

 

初陣から戦続きのボロミアは暫し都に留まる機会を得た。

 

“この機に”とブランディアは思った。

 

“この機に”とニエノールは思った。

 

父に、ボロミアへの傷病見舞いの許しを得る為、重臣が住まう公邸へと向かう廻り回廊で、ニエノールは遠く見える園庭にその光景を目にした。

 

そして同じ光景を、父・ブランディアも公邸の露台から、娘と同じ色の燃える瞳で見据えていた。

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