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未明(前) 3

 

義兄のいる執務室に向かって歩きながら、イムラヒルはどの様に話を切り出すべきか迷っていた。

女官達によるとこの様な事は初めてではないという。

“ボロミア様がファラミア様を庇って怪我をした時も“

“ボロミア様がファラミア様の代わりに、口にした果物に仕込まれていた毒に中って寝込んだ時も…”

と、女官達は口々に言い立てた。

 

脳裏に、声を殺してすすり泣くファラミアの声が蘇り、イムラヒルは暗い心持で立ち止まり、小さくため息を吐いた。

 

領国で待つ子供好きの妻は反対はせぬであろう。

孫にはいたく甘い、大公である父も理解はしてくれよう。

 

“しかし…”

とイムラヒルは思った。

 

婚姻ですら、国勢によっては他国の娘を人質に取ったとの誹りを免れぬ時代である。

大公職を代行している身のイムラヒルは、もう一度小さくため息を吐いた。

 

執務室に入ると、義兄は一瞬書き物をする手を止め顔を上げたが、すぐにまた薄い羊皮紙に目を落とした。

「今晩は夕餉も召し上がらなかったのにまだ仕事ですか?義兄上」

「これを仕上げねばボロミアの様子を見に行けぬのでな」

顔を上げずに、この国の執政はそう言った。

 

女官達の中で一番年嵩の者が言っていた。

昼間は執務で全く時間の取れないデネソールが、執務が終わった後は一晩中ボロミアに付き添うのだと。

「いつお休みになっていらっしゃるのか…」

彼女は心配を滲ませた声でそう言っていた。

 

ボロミアに注がれるこの深い愛情のほんの一片でもファラミアに注いでくれれば…と思ったイムラヒルに

「して?」

と、義兄の声が掛かった。

「え?」

「何か話があって来たのであろう?」

大侯は執務机を片付けながらそう言った。

常から整然と整えられ、片付けにいくらも時間などかかるまいと思われる机上を見遣りながら、イムラヒルは慎重に言葉を選んだ。

「今からボロミアの所へ?」

「そのつもりだ」

きっちりと丸めた羊皮紙の、端まで揃えた大候が、正面からイムラヒルを見据えて答えた。

ごくり、とイムラヒルの喉が動いた。

「こ…これだけの執務に加え、姉上亡き後は、まだ幼い公子お二人の面倒を見るのでは、義兄上のお体が持ちますまい…」

ふ、と大候の口の端が持ち上がった。

「特にファラミアは、まだ年端もゆかぬゆえ、な」

ぞくり、と固まったイムラヒルは大候を凝視した。

姉の生きていた頃にはほとんどみる事のなかった、薄い笑いを貼り付けた大候の、底の知れない冷たい目が、そこにあった。

「いっそ、そなたがあれを貰い受けるとでも言ってくれればありがたいくらいだ」

「その様な事…!」

自分を見つめる冷たい目から逃れる様に、目を背けたイムラヒルは半ば独り言のように擦れる声を絞り出した。

「いや…しかし…そう、ファラミアが初陣の年を迎えるまでなら…我が領国、ドル・アムロスでお預かりしても…」

「では所領地に帰る際、あれを連れてゆくがよい」

驚いて顔を上げたイムラヒルに、大候は傲然と言い放った。

「話は終わった」

「今宵はもう部屋に戻ってゆっくり休むがよい。

 子を連れて帰るドル・アムロスは遠い」

呆然と立ち尽くすイムラヒルの背に

「ボロミアの居室にゆく」

そう侍従に言い置いて部屋を出たデネソールの、長廊を遠ざかる靴音が高く響いた。

 

“ゴンドールの執政閣下は血も通わぬ”

 

これまで幾度となく耳にした、大候を評する言葉がイムラヒルの頭の中で、重い谺の様に繰り返し繰り返し蘇った。

 

翌日ドル・アムロスに帰るイムラヒルの傍らには、硬い表情のファラミアが立っていた。

見送るミナス・ティリスの主の傍には、まだ青い顔のボロミアが、ファラミアの向かいに、それでもしゃんと背筋を伸ばして立っていた。

「道中恙なく」

一分の隙もない型通りの作法で都の主は言った。

公子も型通りの返礼を返すと、早々に馬上の人となった。

 

それまでまるで目に見えぬ一本の糸で繋ぎ合わされた様に、互いの瞳をひたと見つめ合わせていた兄弟は、「馬に」と、肩に置かれた手に、ファラミアが公子の侍従を見上げた瞬間、プツリと断ち切られた。

慌ててファラミアが兄を振り返った瞬間

 

“待っていろ。

 会いに行く。

 必ず兄が会いに行くから“

 

そう言うボロミアの声が、イムラヒルの頭の中ではっきりと聞こえた。

はっとしてイムラヒルはボロミアを見たが、ボロミアが言うはずはなかった。

出立の儀のこの場で、作法に反し声など掛けるはずはなかった。

事実ボロミアは口を開いてはいなかった。

ただじっとファラミアを見つめていただけだった。

しかしイムラヒルは見た。

ボロミアを見つめ返すファラミアが、こくり、と頷くのを。

 

その姿を目にした時、確かにその領国にファラミアを連れ帰るのが、この幼い甥の為だと思っていたイムラヒルの胸が、なぜかきりきりと痛んだ。

 

そして、侍従に抱かれて座る馬上から兄を見下ろすファラミアと、背筋を伸ばして弟を見上げるボロミアの視線は、見えざる糸で、再び、しっかりと結び合わされていた。

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