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名にし負う、王と呼ばるる2 -流浪(中編)-

 

4日ぶりのまともな食事で腹を満たしたアラゴルンは、荷物の中から愛用のパイプを取り出すと、残り少なくなったパイプ草を詰めてパチパチと爆ぜる焚火の中から細い粗朶を一本引き出した。

粗朶の火をパイプ草に移し、深く煙を吸い込んだアラゴルンは、毛布の上にごろりと仰向けに寝転がり、冬の夜空に大きくパイプ草の煙を吐き出した。

その煙の先には、初めてひとり野営した荒野の夜と同じ、冬の星座が空一杯に瞬いていた。

 

 

何処へという当てもないまま裂け谷を出たアラゴルンが、ルダウアから北連丘を経て、エリアドールの中ほどに位置するエミン・ウィアルの隠里に足を踏み入れたのは、アラゴルンが21の齢を迎えた春の事だった。

 

エミン・ウィアルの隠里に住む野伏達は、同じ流浪の民とはいえ、ルダウアや北連丘に住まう、嘗ての高位高官を父祖に持つ者達とは違い、下層の民等の末裔である。

彼等の暮らしは裂け谷の手厚い庇護を受けるルダウアや、ルダウアほどではないまでも、衣食住に不自由する事のない北連丘とは比べものにならない程、貧しかった。

それにも関わらずエミン・ウィアルの隠里に足を踏み入れたその瞬間から、アラゴルンは目にしたその里の暮らしに嘗て感じた事のない安らぎを覚えた。

それは裂け谷では勿論、父方の親族が暮らすルダウアでも、母方の親族が暮らす北連丘でも、終ぞ感じた事のない安らぎだった。

 

ルダウアや北連丘での暮らしはアラゴルンにとって、詰まるところ“望まれる自分”の仮面を付け替えるだけの、裂け谷と何ら変わらないものだった。

北連丘に身を寄せてひと月程が経つ頃には

“結局自分はこの様な生き方しか出来ないのか”

そうアラゴルンは厭世的な心持になっていた。

そこに現れたのがエミン・ウィアルから来た野伏の男だった。

北連丘では見掛けぬ顔であるアラゴルンに目を留めたその男は、胡散臭げな視線をアラゴルンに向けたのだった。

 

 

裂け谷のエルフ達が亡国の民であるドゥネダインを庇護する理由のひとつに、エミン・ウィアルで暮らす野伏達の存在がある。

エミン・ウィアルの野伏達はエリアドール全域に散らばって、秘密裏の内に敵の哨戒警固に当たっている。

エルフはその野伏達に目を付けたのだ。

“闇から這い出す敵の動きに目を向ける”

その点に於いてエルフ達はドゥネダイン以上に警戒心を持っている。

だが如何にエルフの敏い目を以てしても、中つ国全土に散らばる敵を全て見通せる訳ではない。

そうであるからにはエルフ自身もまた、自らが住まう領域に残る敵の情報を実地に踏査する必要が生じるのである。

とは言え、自ら地を這うが如くに敵の臭跡を追うなどは、“高貴なる存在”である彼らに努々思い至ろうはずもない。

それ故エルフ達には、手駒として猟犬となるエミン・ウィアルの野伏が必要だったのだ。

 

裂け谷のエルフ達は、決して“見返りを求めぬ高潔な志”で、亡国のドゥネダインに救いの手を差し伸べていた訳ではない。

特に彼等エルフが「卑小な」と呼ぶ、西方の恩寵を受けぬ“並みの人間”と混血した野伏など、彼等にとってはあくまで“猟犬”にしか過ぎないのである。

その猟犬に裂け谷への出入りを許すなど、エルフ達にとっては有り得ぬ事なのだ。

その所以に因り野伏達がエリアドール全域で収集した敵側の情報は、一旦北連丘で集約された後、ルダウアを経て裂け谷に上程するようエルフ達に依って定められている。

その定めに因ってエミン・ウィアルの野伏達は、裂け谷は言うに及ばず、ルダウアにも足を踏み入れた事はなかったのだ。

 

その様な状況にあるエミン・ウィアルの野伏にとって、目の前にいる少年を「北方王家の御世継ぎであらせられる」と言われた処で現実味は薄い。

胡散臭気にアラゴルンを見るのもむべなるかな、なのである。

だがアラゴルンにとっては事情が違った。

自分を疑わし気に見る野伏のその目が、何とも新鮮で興味深いものに映ったのだ。

好奇心に駆られたアラゴルンは北連丘の親族達を丸め込み、その男がエミン・ウィアルに帰る際、彼に同道してエミン・ウィアルの隠里を訪ねる旨の了承を、巧妙に親族達から取り付けた。

 

「よろしく頼む」そう差し出されたアラゴルンの手に、その男は小さくそっと舌打ちした。

その男にとってみれば、それは現実味の薄い“祖国の世継ぎ”を郷里に連れ帰る、という気の重い役を負わされるだけの“厄介事”だったのだ。

その様にして始まったエミン・ウィアルへの道行だったが、にも拘らず行を共にするうち、野伏のその男は、この凡そ王家の末裔らしくない“世継ぎの君”をすっかり気に入った。

9日後、エミン・ウィアルに着く頃には、アラゴルンとその野伏の男はすっかり打ち解けた仲になっていた。

その後野伏の男に伴われて入ったエミン・ウィアルの隠里でも、里人達は思いがけぬ程気安くアラゴルンを迎え入れた。

里に入ってひと月も経つと、アラゴルンは生まれながらにエミン・ウィアルで暮らす野伏の様に里に馴染み、猟に出る男達に同行を許されるまでになった。

 

野伏等の暮らしは、敵の情報を収集し北連丘に届けて得る俸給だけでは成り立たない。

それ故野伏達はエリアドール全域の哨戒警固や情報収集の他、日々の生計を立てる為の生業を必要とした。

多くの野伏は北方を渡り歩く役に支障のない猟師を生業としており、その日彼等は近在の村を荒らすという大猪を狩りに出る事になっていた。

裂け谷で暮らしていた頃のアラゴルンは、狩りというものをした事がなかった。

裂け谷の地形に加え、エルフ達の慣習からも、裂け谷では獣を狩る事を必要としなかったのである。

だがこの初めての狩りで、アラゴルンは裂け谷で暮らした20年近い歳月で学んだより遥かに多くのものを学ぶ事となった

 

最初に学んだのは、エルフの里で身に着けた華麗な剣技など、生きる為の剣としては何の役にも立たぬ、という事であった。

大猪を狩る野伏達の後ろで何も出来ず、アラゴルンはただ彼等の後姿をうろうろと眺めているしか出来なかったのだ。

その後野伏達が仕留めた大猪を解体にかかると、アラゴルンは耐え切れず地に膝をつき激しく嘔吐した。

 

エルフの里に屠殺場はない。

エルフにも料理人はいるが、彼等が肘まで血に染めて獣の肉を捌く事はない。

裂け谷で調理される食材は、全てルダウアや北連丘を通し、調理するだけの状態に加工されて届けられるのだ。

自分が生きる為に別の命が絶たれる様を、その日アラゴルンは初めて目にしたのだった。

それを知らずして生きてきた自らの不甲斐なさに唇を噛んだアラゴルンは、その日を境に裂け谷で身に着けた剣の技を捨てた。

殺生の上に成り立つのが己の生であるのならば、供される別の命を最大限に生かすのが供された側の責務である。

なればその為に必要な技をこそ身に付けてしかるべきである、とアラゴルンは思い定めたのだ。

生きる為の剣を学び、山刀の扱いを学び、狩猟用の弓を使う事を覚えた。

猟師ではなく薬草採りなどを生業とする野伏達にも同行し、薬草や野草などの知識も得た。

 

男達がその様に荒地に出ている間、エミン・ウィアルの隠里に残る女達は、機を織り服を仕立てた。

荒地の哨戒警固から戻った男達は、近在の村を回ってそれらを行商もした。

その様に暮らせば野伏と村人の間に交流も生まれる。

野伏達を得体の知れぬさすらい人、と怪しむ村人もないではないが、その様な村人とは裏腹に、野伏に好意を持つ者もまたないではなかった。

中には野伏の若者と恋に落ちる娘も現れた。

村の娘が野伏の妻となり、エミン・ウィアルの隠里に嫁に来る事も、その頃には最早少なくはなかったのである。

 

「西方の血は卑小な並みの人間の血と混じり合い、ヌメノール人達は小さく弱くなった」

エルフ達は嘆かわし気にそう言う。

 

だがエミン・ウィアルの隠里では、既に西方人もただ人もなく数世代を共に過ごしている。

エミン・ウィアルの隠里では西方人もただ人も、子供達は皆同じ様に輪回しに興じて駆け回り、女房達は井戸端で世間話に花を咲かせながら洗濯棒を振るう。

その傍らでは男達がパイプ草を吹かし乍ら遊戯盤を挟み、互いの駒の動きに一喜一憂しているのである。

それらの光景は、いつでもそれを眺めるアラゴルンの胸を温めた。

 

エミン・ウィアルに入って半年になろうかという頃になると、アラゴルンは仕留めた獲物を捌く事に慣れ、同胞と共に野営の火を囲んで吹かすパイプ草の味を覚え、人恋しい夜には娼婦の肌の柔らかさを知った。

アラゴルンが初めて買った娼婦は安宿の年増女だったが、その娼婦の肌は、“高貴なるエルフの姫”より、遥かにアラゴルンに優しかった。

 

その年の秋風が冷たくなったある日の夜、荒野の哨戒警固に出た同胞と野営の火を挟んでパイプ草を吹かしていたアラゴルンは、焚火の火を見詰めたままぽつりとこう呟いた。

「里の皆は北方王国の復興を望んでいるのだろうか…」

ちらりとアラゴルンを見遣った同胞の男は

「さあ、どうだろうな」

そう独り言の様に言い

「国が復興しようとしまいと、俺達の暮らしは変わらんさ」

と、パイプ草の煙を吐き出した。

顔を上げたアラゴルンに向かってその男は

「復興した国の王様になるのがお前なら、俺等の暮らしを変えたりはせんさ、そうだろ?」

そうにやりと笑った。

 

アラゴルンはぐっと胸が詰まるのを感じ乍ら、こくりと大きく頷いた。

 

エミン・ウィアルの野伏達にとってヌメノールの栄光など、何世代も以前の昔話でしかない。

況してや彼らは王侯貴族の栄華とは無縁の、名も無き庶民の末裔なのだ。

既に何代にも渡って在野の野伏として生きてきた彼等には、昔話の栄光より日々の暮らしが優先する。

彼等は“忘れ難き在りし日の栄華”を夢見る亡国の貴人ではない。

大地に根ざして生きる庶民とは、置かれた環境の中に生きる術を見出し、その環境に慣れて生きてゆくものなのである。

 

それを知ったアラゴルンにとって、為すべき功業が北方王国の復興であるならば、それはあくまでもルダウアや北連丘、そして何よりエルフ達の望みでしかない様に思われた。

それ故アラゴルンは、その頃には最早北方王国の復興が、自らの為すべき“大いなる功業”とは思えなくなっていた。

 

“大いなる功業”なるものの真の意味に考えを巡らせ始めたアラゴルンは、その年の秋が終わる頃

『嘗てアルノール陥落の折、エリアドール西端に位置するリンドンに逃れた北方王国の民が一部そのままリンドンに残って船乗りになった』

という話を聞いた。

 

アルノール陥落に際し、南方王国ゴンドールから、結果的に間に合わなかったとはいえ、当時太子であったエアルヌアが援軍を率いて上陸したというリンドンの灰色港は、北方に於いて唯一エリアドールと南方ゴンドールを結ぶ海路を保持していた。

エリアドールとゴンドールの間を繋ぐ唯一のその連絡船に、亡国の民等の末裔が船乗りとして乗船している、というのである。

アラゴルンは彼等に会ってみたい、と思った。

会って話してみたい、と。

 

斯くてその年も終わりに近い初冬の頃、リンドンに向かう為、アラゴルンは初めてひとり、エリアドールの荒地へと歩を踏み出したのである。

 

 

寝転がっていた毛布の上でむくりと起き上がったアラゴルンは、小さくなった焚火の中に、1本太い薪を放り込んだ。

パイプから灰になったパイプ草を掻き出し、新しいパイプ草を取り出そうと毛布の脇に置いた荷物を引き寄せたアラゴルンは、荷袋の中に突っ込んだ手を一瞬止め、その後荷の中から小さな革袋をひとつ引き出した。

暫し革袋を見詰めた後、アラゴルンが袋の中から掌の上に取り出したのは、互いの尾を咬み絡まり合う蛇を模った鍵だった。

月の光に照らされたその鍵は、アラゴルンの掌で、鈍い鉄色の輝きを放っていた。

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