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初恋 19

 

数人の奴婢や下婢等と共に薬草採りに発つという日の朝、ニエノールはヨーレスから1株の花の苗を手渡された。

訝し気に花の苗を受け取ったニエノールに、ヨーレスは言った。

「大侯様の亡き奥方様がお好きだった花の苗なんだよ。

 少し廻り道になるけど、奥方様の御陵に寄って植えておくれ」

「ヨーレス様?」

「あんたが帰ってくるまでは私が面倒見るけど、あんたが帰って来たら責任を持って世話しておくれよ」

「ヨーレス様…」

ヨーレスの言葉に、ニエノールの目にはみるみる涙が溜まっていった。

「私…何と申し上げたら…」

「何だね、泣いたりして」

ニエノールの頬に零れ落ちた涙を、ヨーレスの指が拭った。

「私に何も言う事なんてないんだよ。

 私は苗を預かっただけなんだから」

「預かった…?」

ヨーレスが目を向けた先を追ったニエノールがはっと目を瞠った。

 

 執政館の北翼。

 僅かに開いた窓。

 

苗を持つニエノールの手を、ヨーレスが温かい両手で包んだ。

「ちゃんと渡したからね。

 いいかい、あんたはこの苗を育てる為に、必ず帰って来なけりゃいけないよ」

ニエノールは零れそうになる涙を堪え、確りと頷いた。

 

それから4年の間、ニエノールは薬草採りに出る毎、見つけた薬草の群生地やその道程での危険箇所、宿営地の適性等を細かく書留めていった。

それまで薬草採りの労役は奴婢や下婢の中でも最下層の者達が担っていた為、その様な書付を残す者はおらず、そもそも書付を残すという発想自体が不可能な事であったのだ。

だがこのニエノール書付が基になり、貴重な薬草が群生する岩壁に登坂路が作られ、いくつかの露営地も整備される事となった。

これに依り、厳しい労役である事に変わりはないものの、薬草採りで命を落とす者は激減し、薬材庫に薬草が不足する事はなくなった。

 

そして

花の頃になると、フィンドゥイラスの陵墓の周りには、ロスイアの薄青の花弁が緑の葉に添う様に、幾重にも風に揺れる光景が見られる様になった。

 

ニエノールが下婢となって5年も経つ頃には、ヨーレスとニエノールの間には揺るぎない絆が結ばれる様になり、余人のない所などでは互いに“私の娘”“私の母様”と呼ぶ程までになっていた。

 

そんなある日ヨーレスは「これは親子二人だけの秘密だよ」と前置きをした上でニエノールに告げた。

「口止めされてたんだけどね、可愛い娘にこれ以上隠し事は出来ないよ」

「母様?」

「あんたの後見を私に頼んだのはボロミア様なんだよ」

声を失って目を見開くニエノールの手を取ってヨーレスは言った。

「私はボロミア様に感謝しなくちゃね。

 ボロミア様のお陰で、こんな良い娘が出来たんだからねぇ」

「母様…」

ヨーレスの手を握り返すニエノールの目に涙が滲んだ。

 

翌日許しを得たニエノールは、執政館の北翼からよく見える場所にロスイアの苗を植え始めた。

ニエノールが薬草採りに出ている間は、何時からかニエノールを姉や妹の如く慕う様になっていた園丁達が後を引き継いで世話をした。

2年後には花の頃ともなれば、小さくとも気持ちの良い植込みがロスイアの優しい薄青で見事に染め上げられるのが見られる様になった。

 

 

「ニエノール殿?」

走馬灯の様に脳裏を駆ける記憶に思いを馳せていたニエノールは、ファラミアの声で我に返った。

「どの様な訳でヨーレス様が後見下さったにせよ、今となってはその訳を問うは詮無い事と存じます」

ふわりと微笑んでニエノールは言った。

「ファラミア様、お許しを頂けますれば、朝のお勤めが始まる前に植栽の世話をさせて頂きとう存じますが」

「あ、ああ…、これは迂闊な事を…」

ニエノールの持つ何か得難い雰囲気に気圧され、ファラミアは珍しく動揺した様子で通路脇に体を寄せた。

そのファラミアの前を通って水桶の置いてある立木の前まで歩を進めたニエノールは、立木の前で足を止めると、僅かに開いた北翼の窓を見上げた。

 

 一点の曇りもなく真っ直ぐのその窓を見上げる澄んだ大地の色の瞳。

 その窓の内から幾度も、その花弁に寄せて、彼の人が偲ぶ想いで眺めるであろう、ロスイアと名付けられた花を世話する婦人<ひと>。

 

ファラミアはその婦人<ひと>に声を掛けずにはいられなかった。

「貴女はなぜこの花の世話を?」

ファラミアのその問いに、ニエノールはまるで当然の事だという様に

「この花はボロミア様の愛された御方が、ボロミア様に残されたものだからですわ」

そう答えた。

その答えに、ファラミアは暫し言葉を失った。

「…しかし…貴女はボロミア…兄上を…」

「ファラミア様、今の私はそれを口にする事を許される身ではございません。

 けれど…」

ニエノールはきゅっと口を結び、意を決した様に毅然と顔を上げた。

「報われる事など望んでいません。

 ただ愛し続ける事だけが私の贖罪なのです」

 

 報われる事を望まず唯只管愛し続ける。

 彼の人の幸福だけを願い続ける。

 それはファラミアが失った誓い。

 二度とは戻れぬ道だった。

 

ファラミアは我知らずニエノールに歩み寄ると、その荒れた手を取り言った。

「貴女のその気高きお志を尊く存じます」

「ファラミア様」

「どうかお健やかであらせられませ。

 貴女がお健やかであられる事もまた、我が兄の慰めとなりましょう」

ニエノールはこれまでファラミアが目にした事のある、何程高貴な姫にも勝る美しい笑顔で微笑んだ。

「過分なお言葉、これより先深く胸に刻んで参ります」

 

ニエノールに一礼し、執政館の表門へと踵を返したファラミアが歩を踏み出そうとしたその時、呼び止める声を背に受けファラミアは振り返った。

そこには水桶を手に不思議そうにファラミアを見るニエノールの姿があった。

「お水は…ファラミア様が?」

ニエノールが持つ水桶に目を遣ったファラミアは

「いや、私は…」

と言いかけ、はっと顔を上げ、視線を頭上に走らせた。

 

 執政館の北翼。

 僅かに開いた窓。

 ボロミアの居る場所。

 

ファラミアの胸に言い知れぬ不安が暗く立ち込めていった。

 

 

報われる事など望んでいません

ただ愛し続ける事だけが

私の贖罪なのです

その婦人<ひと>は言った

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