top of page

初恋 8

 

呆然と床に座り込んだニエノールの胸に、初めてその鍵を使って下層階に出た日の苦い思い出が蘇った。

父から渡されたその鍵を粗略に扱ってはならない事は承知していたが、ニエノールは何日が逡巡した後、結局分別より好奇心の方が勝った。

 

その日ニエノールは側付きの女官を伴って人気の無い夜半過ぎ、こっそりと抜け道に通じる納戸に向かった。

しかし納戸の扉の前に立った時人の気配を感じたニエノールと女官は思わず物陰に身を隠した。

目深に外套のフードを被ったその人物を見た瞬間、夜目の利くニエノールは思い設けぬその姿に声を上げそうになり慌ててその声を飲み込んだ。

この数年は年の内にも数える程しか顔を合わせる事がなくなったとはいえ、それは紛れもなく母その人であった。

その母慣れた様子で辺りを窺うと、素早く納戸の中に消えて行った。

ニエノールは考える余地もなく、吸い寄せられる様に母のその後を追った。

 

母が向かったのは下層階にある安宿のひとつであった。

 

母はその安宿の戸口に粗野な身なりの若い男を認めると、その男に駆け寄って熱く抱擁し、人目も憚らず激しい口付けを交わした。

宿から漏れる灯りの中、上気した頬に潤んだ瞳でその若い男を見上げ、宿の中に消える母の姿を目にしたニエノールは、衝撃のあまり血の気の失せた白い顔でその場に棒立ちになった。

 

ニエノールはどの様にして公邸の納戸に戻ったのか覚えていなかった。

自分の手を曳く女官の声が、遠く響く谺の様に耳に届き、心配そうに自分の顔を覗き込む女官の顔が瞳に映るのを辛うじて認識した時、漸くニエノールは自分の見た悪夢から、現実に引き戻された。

ふらふらと納戸から中庭に通じる廊下に出たニエノールは、力尽きたかの様にその場に膝を着いた。

その時初めてニエノールは、その手に感じる痛みに気付き、握り締めていた手の平を、ゆっくりと開いた。

彼女のその手の平の上に、あまりにも強く握り締めていた為、彼女の手の平を傷付け血を滲ませる事になった小さな鍵が現れた。

その鍵を見詰めるニエノールの、紙の様に白かった頬には、見る間に朱く血が上った。

ニエノールはその鍵そのものが汚らわしい物の様な感覚に襲われた。

それを手にしている事自体が耐え難かった。

彼女は叩きつける様にそれを中庭に打ち捨てた。

“許さない、許さない!許さないわ!!

 お父様という夫を持ちながらあの様な下賤の者と…!“

ニエノールは鍵を投げ捨てた血の滲んだ掌をきつく握り締めた。

“私はお母様の様にはならない。

 何があろうと、生涯懸けて、決してボロミア様を裏切ったりしない!“

 

その時になって漸く、それまでただ納戸の中で震えていた側付きの女官が納戸から出て来ると、ニエノールの傍らに、おろおろと歩み寄った。

ニエノールに声を掛けようとした女官は、この気位の高い高位の姫の、これまで唯の一度たりとして人前で見せた事のない涙が、その上気した頬を、ほろほろと零れ落ちる様を目の当たりにして息を飲むと、後は唯なす術もなく、唯呆然とその涙を見詰める他なかった。

そしてその女官が、中庭の物陰から泣き崩れる姫君を冷ややかに見詰める視線に、気付く由もなかった。

 

 

“忘れていたなんて…、忘れていたなんて…!”

「姫!」

両手で顔を覆ったニエノールの肩をマブルングが強く掴んで揺さぶった。

常であれば、マグルングのその様な行為を許すニエノールではなかったが、その時のニエノールからは、置かれた状況を認識する判断力は失われていた。

「鍵は…捨てた…中庭に…」

「捨てた…」

マグルングはニエノールを揺さぶっていた手を止め、呆然と、目の前の虚ろな目をした美貌の姫を見詰めた。

「数ヶ月も前の事だ。

 もはや見つけ出せまい…」

「何て事を…」

マブルングは頭を抱えて俯いたが、すぐに顔を上げると、再び目の前のニエノールの肩を強く掴み、噛み付くように言った。

「私が鍵を探す!その鍵の特徴を言うんだ!」

ニエノールはマブルングのその声を、何か熱に浮かされた夢の中で聞く様に聞き、夢の中で話すように鍵の特徴をマブルングに告げた。

マブルングはニエノールの言葉を聞き終えると、つと立ち上がり、主の娘である高位の姫に冷たい一瞥を投げ、その部屋を後にした。

 

ニエノールは扉の閉まる音を背に聞いた瞬間、崩れる様に小物の散らばった床にその身を伏し、声を上げて泣いたのだった。

 

 

午後の軍議ではヘンネス・アンヌーンからの報告を受け、第2陣の出兵が検討されていた。

しかし、偵察隊のミナス・モルグルに敵兵が集結しつつあるという報告に幕僚達は困惑していた。

自軍にとっても敵軍にとっても、合戦となれば要となるのは間違いなくオスギリアスである。

それ故自軍にとってオスギリアスは、何としてでも守り抜かねばならぬ防衛の要所である。

そのオスギリアスと、上古日の出の塔と呼ばれたミナス・モルグルの間には直線で結ばれた通路がある。

確かにその通路を持つミナス・モルグルを拠点とすればオスギリアスを攻めるに容易い事は周知の事実だ。

だが、それはオスギリアスを守備するゴンドール軍にとっても同じ事を意味した。

攻めるも守るも、どちらにしてもミナス・モルグルは陣を構えるに不向きな事は敵も承知のはずだった。

その上、ミナス・モルグルはヘンネス・アンヌーンに近すぎた。

敵がヘンネス・アンヌーンに常駐するゴンドールの遊軍に全く気付いていないなどとは考え難い。

なればミナス・モルグルに陣を構えたところで、その情報がミナス・ティリスに筒抜けになる事は火を見るより明らかである。

「気に入らぬ。

 敵の動きは目立ちすぎる」

幕僚の一人が憮然とした表情でそう言うと、その言葉を受け、ヘンネス・アンヌーンの野伏が口を開いた。

「我々もそう思い、ペラルギアに探りを入れておりました」

「ペラルギア?」

「このことろペラルギアの海賊どもが鳴りを潜めております。

 静か過ぎるのが気になります」

「して?」

「密かに海賊どもが集結しつつあるとの情報を得ました」

「ミナス・モルグルは囮か?」

「そうとも言い切れませぬが…、ローハンの東谷での動きも気になります」

「都の兵力を分散する狙いがあると?」

「しかし兵力を分散させてどうしようと言うのだ?

 我等の兵力が分散するという事は敵の兵力も分散するという事だ。

 我等が守り堅きこの白の都に少数部隊で攻め込むほど敵も愚かではあるまい」

「成程、我等が白き都は防衛堅固な城塞ではありますが、我等の知らぬ攻め口から、三方同時の奇襲攻撃という策も考えられます」

「それは策とは言えぬ。

いちかばちかの賭けの様なものだ」

「失敗すれば全軍殲滅の可能性もあろうな」

幕僚達は困惑した互の顔を見合わせた。

「どうにも敵の動きが読めぬ」

 

討議は白熱したが、いずれにせよペラルギアからの敵に備え、大隊規模の派兵は避けられぬものとの結論が下された。

bottom of page