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宿業 1

 

3016 ミナス・ティリス

 

望まれる事、求める手に応える事

それがこの子を強くしてくれましょう

妻は微笑んでそう言った

 

 

 

デネソールは官邸の執務室から西に開いた窓辺に立ち、遠く視る眼を以て、西の園庭に咲く薄青い花弁が風にそよぐのを見詰めていた。

 

「父上」

次男の声に振り返ったデネソールは、険しい眼を父に向ける息子から執務机の上の羊皮紙に視線を移した。

 

「今回もまたご承認頂けませぬか?」

「諄い」

 

再び窓外に視線を戻した父の背に向けられたファラミアの白皙の眉間に刻まれた皺が深くなった。

 

 

ゴンドール正規軍への復帰は既にもう何度となく上申している。

しかしデネソールはファラミアの正規軍復帰に決して承認を与えず、元々良好とは言い難かった二人の関係はこの数年で更に悪化していた。

東からの影がより一層濃く深く都へと伸びつつある時にあっては、ゴンドール軍の総大将でもあるファラミアの兄・ボロミアも、弟の正規軍復帰を度々父に申し入れてはいたが、父の寵愛を一身に受ける嫡男のその申し入れにも、デネソールは決して首を縦には振らなかった。

 

 

ファラミアが口を開きかけた時、窓外に目を向けたままのデネソールの重い声が聞こえた。

「嘗てこの白き都に星の鷲と呼ばれた男が在った」

 星の鷲

ファラミアもその名は知っている。

何処からともなく現れ、何処へともなく去ったゴンドールの客将、伝説の大将・星の鷲ソロンギル。

長くゴンドールの客将を務めた高名な大将ではあるが、ソロンギルがゴンドールを去ったのはファラミアが生まれる前の事であり、今ここで唐突にその名が出る事にファラミアは当惑した。

デネソールは厳しく光る灰色の瞳を窓外からファラミアに回し、視線を逸らさぬまま窓辺を離れ、執務机へと踵を巡らせた。

「その男が予に申した事がある」

執務机を挟み、デネソールは彼の次男と対峙した。

 

 

デネソールの父・エクセリオン2世が世を去るより4年前、ゴンドール軍はペラルギアの港でウンバールの海賊を殲滅し、歴史に残る大勝を納めた。

その指揮を執ったのが当時客将としてゴンドール軍を率いていた星の鷲・ソロンギルであり、彼はその戦勝後何処へともなくゴンドールを去ったのだった。

 

明日はペラルギアへ出帆という日の夜半過ぎ、デネソールは居室の戸を叩く音に眉を顰めた。

 

数日前より、妻と2歳になったばかりの嫡男が共に流行病の床に就いていた。

時の執政エクセリオンは、顔には出さずとも妻と息子を気遣う嫡男の心情を慮り、デネソールにペラルギアの海戦に加わわらず都で宿直をする様命じた。

出兵準備に追われる父に代わって執務を終えたデネソールは、公邸に戻ったその足で妻と息子の居室を訪れ、側付の従者に容態を確かめた上、急があれば直ぐに知らせる様にと言い置き、漸く自らの居室に戻った。

 

デネソールの居室には調度らしい調度は殆どない。

目を引くのはぎっしりと書物の詰まった大きな書棚と、磨き込まれて黒光りする、がっしりとした樫材の机くらいのものである。

その机の上に、この部屋にそぐわぬ片足の折れた木彫りの騎士が立っていた。

それはボロミアの気に入りの玩具のひとつだった。

廷臣達から贈られた何程高価な玩具より、ボロミアは父が手ずから木片を削ったこの木彫りの騎士やその騎士と対になった馬、よく回る独楽などを好んだ。

小さな手が幾度も遊んで軸が磨り減った独楽や脚の折れた馬は、その度父の手に依り元の姿に戻った。

自らの傍らでキラキラと瞳を輝かせ、父の手の中で脚の折れた馬が蘇る様を見詰める息子と、その息子と夫を優しい眼差しで見守る妻の穏やかな笑顔を思うと、デネソールは海戦の指揮をソロンギルに委ね、嫡子である自分に宿直を命じた父への苦い蟠りがきれいに洗い流されていくのを感じた。

足の折れた騎士を手に取ったデネソールはその木彫りの騎士を机の上に戻し、几帳面に整理された机の抽斗を開け、粗織りの布や小刀、小さな木片や膠などを取り出した。

流行病が癒えたボロミアの、再び気に入りの騎士が両の足で立っているのを見た時に見せるであろう日の光が零れる様な笑顔を脳裏に思い描いたデネソールの口元に、妻と息子にしか見せる事のない優しい笑みが浮かんだ。

 

それ故居室の戸を叩く音に、妻子の容態が急変したかと案じたデネソールは誰何もそこそこに居室の扉を開いた。

 

しかし開いた扉の外にいたのは妻子付の従者などではなく、デネソールにとっては思い設けぬ人物であった。

 星の鷲・ソロンギル

デネソールはその客将の顔を目にするや、あからさまに不快な表情を見せた。

しかし星の鷲自身はデネソールのその表情に頓着する様子も見せず

「夜分遅く申し訳ないが、邪魔をしてもよろしいか?」

と、言い終えぬうちにずかずかとデネソールの居室に足を踏み入れた。

「この様な夜分に何用か」

不快さも顕な声で問うデネソールにソロンギルは

「明朝ペラルギアに発ちます故、暇乞いに参りました」

と感情の籠もらぬ声で言った。

「予に暇乞いをする必要があろうとも思わぬが」

そう切って捨てるデネソールに向き合った星の鷲が

「然様、常であれば」

と返した。

暫しの間その男の顔に眼を注いだ後、デネソールは静かに口を開いた。

「都を去るか」

デネソールの言葉に、自嘲とも見える笑みを口元に上らせたソロンギルは言った。

「今去らねば、私はこの都で見出した比類なく美しい宝玉に囚われ、逃れられなくなりましょう」

ソロンギルは訝し気に自分を見る執政の嫡子にではなく、自分に言い聞かせる様に言葉を継いだ。

「緑柱石の澄んだ眼差しに心を奪われました。

 今はまだ幼き光ですが、このままその光を見詰め続ければ、何れ私はその光に溺れ、自らを見失いましょう」

デネソールの片眉がぴくりと跳ね上がった。

「そなた…何が言いたい」

“見失えば、どんな事をしてでも欲しくなる。

 そして、手に入れたなら、決して二度と手放す事など出来なくなる。

 例え何と引き換えにしてでも“

ソロンギルはその言葉を喉の奥に押し込んで言った。

「私は、それが恐ろしいのです」

「それ故…去ると?」

デネソールの問いには答えず、その客将は感情の読めぬ笑みを薄くその口元に浮かべた。

 

 

「予はその男に何らの良き感情も持った事はない。

  が」

ファラミアの表情が強張るのを見ながらデネソールは言った。

「其の判じたるは、正しき道であろう」

目を落としたファラミアはぎりっと奥歯を噛み締めた。

「軍を退いた事が…ですか」

「この都を去った事が、だ」

ファラミアの呟きをかき消す様にデネソールの重い声が響いた。

唇を噛んだファラミアは顔を上げ、父を見返す瞳に力を込めた。

「卑怯です」

「卑怯?」

「その御仁は自らを欺いて逃げたのです。

 それを卑怯と言わず何と申しましょう」

「ではそなたは」

ファラミアを捕らえるデネソールの眼の奥に点る光が厳しさを増した。

「己が欲望に溺れ、穢れなき宝を泥の沼に沈めるが正しき道と申すか?」

ファラミアの頬にかっと血が上った。

「泥の沼に沈むは欲に溺れた罪負う身唯一人!

 かけがえなき宝を諸共に罪の沼に沈めるなど、あろうはずもございません!」

「己を見失いたる者にそれを断じる事は出来ぬ」

デネソールは寧ろ静かな声でそう言った。

しかし常ならぬファラミアの耳には、父の声に潜む苦い哀しみを聞き取る事は出来なかった。

「例えそうであったとしても」

ファラミアは爪が食い込む程きつく掌を握り締め、父の深い灰色の瞳を見返した。

「そうと知って尚、己を止められぬを宿命と申しましょう」

「宿命、と申すか」

「宿命、です」

「よかろう」

机上の羊皮紙を掴んで立ち上がったデネソールは

「それを宿命と呼ぶならば、泥の沼には一人沈むがよい。

 だが」

と、デネソールは羊皮紙を引き裂き、ファラミアの足元にそれを放った。

「そなたの正規軍復帰は、決して認めぬ」

足元に落ちた羊皮紙を拾い上げたファラミアは決然とした眼を父に向けた。

「ご承認いただけるまで何度でも参ります」

「下がれ。

 用は済んだ」

無言で踵を返した息子の背に

「明日は早々にヘンネス・アンヌーンへ引き上げよ」

そう突き刺さる父の冷厳な声に答える事なく、ファラミアは執務室を後にした。

 

執務室から続く長い廻廊の途中、ファラミアはふと足を止め、手の中に握り締めたままの羊皮紙に目を遣った。

 

引き裂かれた羊皮紙を見詰めるうち、4年前の記憶がまざまざと蘇るのを、ファラミアは感じていた。

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