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未明(後編) 6

 

茜から菫に色を変えつつあるオスギリアスの西の空に、ゴンドール軍の勝鬨の声が響き渡っていた。

 

オスギリアス北西から密かに地下道を掘削していたオークを挟撃したゴンドールの小隊は無傷でオークどもを殲滅した。

オークの小隊がゴンドール軍の背後を襲うはずの坑道から、ゴンドールの援軍が現れたと見るや、東夷の軍は度を失った。

数に勝るゴンドール軍にとって秩序を失った東夷はもはや敵ではなく、ゴンドール軍は一兵も失う事なくモルドール軍に勝利した。

その勝利にゴンドール兵の意気は高く、古き都に集った兵士らの間には戦勝の喜びが満ちていた。

その歓喜の中、戦場の片隅で、執政の長子たるボロミアは上官である中隊長、グウィンドールを困らせていた。

「若は初陣から4戦。

 伝令にはまだ早過ぎます」

「力不足なのは分かっている。

 それ故追走には剛の者を恃む」

「若」

「ファラミアが帰って来ているのだ」

「ファラミア様が?」

「昨夜ミナス・ティリスに到着した」

「それは…気付かず…」

「時下故、父上も私も皆に伏せた。

 だが、戦況が決した今、一刻も早く弟に顔を見せてやりたい」

グウィンドールは困りきった表情で言葉を返せずにいた。

「私の我儘なのは分かっている。

 しかし、4年以上都を離れ、城下に知る者とてない身の弟だ。

 唯一人城中にあっては如何に心細いか…。

   それに…」

ボロミアの周りには傷の手当てを受けている兵や、仮眠を取っている兵が壁に寄り掛かっていた。

兵らの意気が高くとも、朝からろくな糧食も口にせず戦っていた兵達の顔に披露の色は隠せなかった。

「いや…、とにかく、早く戻って弟を安心させてやりたいのだ」

グウィンドールはひとつ盛大にため息をついて

「追走にはトゥーリンとべレグをお付け下さい」

そう言った。

「グウィンドール!」

ボロミアは輝く笑顔で、6歳年長の上官であるグウィンドールに思い切り抱きついた。

「若っ!」

「恩に着るぞ!」

そう言うが早いか、すでに兵舎に向かって駆け出したボロミアの後ろ姿を眺めながら、グウィンドールは“やれやれ”という表情で苦笑を漏らした。

 

伝令旗を掲げミナス・ティリスの大門を潜ったボロミアは、追走のトゥーリンとべレグにそのまま家に帰る様告げた。

「追走大儀であった。

 明日から2日間の暇を取らす故ゆっくり休め」

継嗣より2歳年長の二人は、幼馴染らしい息の合った様子で顔を見合わせると「御意」と一言年下の上官に笑顔を見せ、それぞれの家に馬首を巡らせた。

 

執政の取次を得てボロミアが執務室に入った時、父は平素と全く変わらぬ様子で執務机に向かっていた。

「4戦目で伝令か」

「私が無理を申しました」

「まあ良い。

 して、戦況は?」

侍従に書付を渡したデネソールは漸く顔を上げ、ボロミアに向き直った。

自分の脇を一礼して通り過ぎる侍従に軽く礼を返し、ボロミアは戦況を報告した。

「挟撃部隊は無傷にてオークを殲滅。

 オスギリアス本隊には負傷者数十名にて重傷者なし。

 投降した東夷数十名を捕縛。

 東夷数十名の敗走を確認、投棄。

 以上、本夕刻時に於けるオスギリアス防衛戦概要」

「承知した」

「父上…」

やや迷った表情で口篭ったボロミアの言葉を遮るように立ち上がったデネソールは、ボロミアに歩み寄り、一枚の紙片を手渡した。

受け取った紙片に目を落としたボロミアの顔がぱっと明るく輝いた。

「父上!」

「駐屯部隊の交代要員に持たせる様準備させている。

 麦酒と葡萄酒は2個中隊分しか持たせられぬが、その分干し肉とチーズは執政家の食料庫を空にした」

デネソールは長子にしか見せぬ悪戯めいた顔でにやりと笑った。

「しかしこれでまた当分、執政家の食事の卓には肉とチーズは上るまいな」

「なんの、父上!私の好物は豆のスープです!」

その瞬間、夜の闇に日の光が射したかの様なボロミアの笑顔が溢れた。

デネソールは眩し気にその笑顔に目を細めた。

「なるほど。

 先日忠臣面した重臣の一人が、市中では執政とその継嗣の好物は豆のスープだなどと、不敬な噂が広まっていると申してきおったが、どうやら噂の出処は知らぬとみえる」

その継嗣は父の言葉にくすりと笑った。

「どうやらその様ですね。

 私は火種を煽っただけです故」

親子は顔を見合わせると、声を立てて笑った。

「伝令ご苦労であったな。

 今宵はもう下がるが良い。

 明日は一日ゆっくり休め」

「はい、ありがとうございます、父上」

ボロミアは一礼し、父の執務室を辞した。

 

廊下に出ると燭台を手に侍従が控えていた。

「ファラミア様のお部屋は南翼の南端にご用意されまして御座います。

 が、まずは軍装を解き沐浴されます様、ご準備を整えおかれますれば」

ボロミアは侍従のその言葉にぐっと声を詰まらせると、父の執務室に向き直り、閉じられた扉のその向こうに向かって、深々と一礼した。

 

ボロミアがファラミアの居室を訪れた時にはすでに日付が変わっていた。

足音を立てぬ様慎重に寝台に近づいたボロミアがファラミアの顔を覗き込むと、弟は静かな寝息を立てていた。

しばしその寝顔を確かめた後、立ち去ろうとしたボロミアは服の端を掴まれて立ち止まった。

ボロミアの服の端を掴んだまま、ごしごしと目を擦ってファラミアが寝台の上に起き上がった。

「兄上…?」

「すまぬ、起こしたか?」

暗闇の中で目を凝らしていたファラミアは、兄の姿を認めると不安気な声で聞いた。

「お戻りになられたのですか?」

「ああ、戻った。

 帰城の時にいてれやれず、すまなかった」

ファラミアは激しく頭を振った。

「兄上は戦にいらしていたのですから…」

「ああ、だがもう大丈夫だ」

「勝ったのですね」

「ああ、勝った」

「ではもう戦場に戻らなくても良いのですね」

「ああ、戻らぬ。

 今日は一日ゆっくりしても良いと、父上のお許しをいただいた」

「では!」

ファラミアは勢い込んで尋ねた。

「今日は一日兄上とご一緒出来るのですね」

ファラミアの声が弾んでいた。

「ああ、今日は一日ファラミアと一緒に過ごそう」

ボロミアのその言葉に、ファラミアはキラキラと瞳を輝かせて兄の顔を見詰めた。

ボロミアはそんな弟の瞳を見詰め返し

「分かったらもう休め。

 夜が明けるまでにまだ間がある。

 起きたら一緒に朝餉を摂ろう」

そう言って弟の柔らかい髪を優しく撫でた。

「はい、兄上」

ファラミアは素直に頷いて横になったが、ボロミアが立ち去ろうとすると、その背にファラミアの声が追ってきた。

「兄上…」

ファラミアの枕元に戻り、その顔を覗き込んだボロミアが

「どうした?」

と聞くと、ファラミアは頬を染めて小さく頭を振った。

「ちょっと…お呼びしてみたくて…」

掛布を目の高さまで引き上げて自分を見詰めている弟が、ボロミアには堪らなく可愛く愛おしかった。

「大丈夫だ。

 兄はそなたの傍にいる。

 これからはずっとそなたの傍にいるからな」

そして、ボロミアが弟の額に柔らかく口付けると、やっと安心した表情で、ファラミアは眠りに就いた。

ボロミアは弟のその安らかな寝顔を確かめると、今度こそ静かにそっと弟の部屋を後にした。

 

その夜ファラミアは夢を見た。

それは目覚めた時には消える夢。

幾度の夜、ファラミアを訪のうては消える夢。

繰り返し、繰り返し、記憶の底に沈む甘い夢だった。

 

 

見下ろす自分の目の中に、甘い蜜色の髪と深い翡翠色の瞳が映り込んでいる。

自分のものとは思えない大人の声で、私はその美しい人の名を呼ぶ。

私を見つめる翡翠の瞳がゆっくりと閉じられる…。

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