がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
ミナス・ティリスの雪だるま
白き都の上空を冬の厚い雲がすっぽりと覆ったその日、ミナス・ティリスに帰って初めて迎える故郷の冬をファラミアは、都が誇る広大な書庫の一角で過ごしていた。
父である執政は前日よりオスギリアスに出向いており、その父と入れ替わる様に昨夜遅くに兄がオスギリアスから戻った事を、ファラミアは知っていた。
共に過ごす時を持てなかった日の夜、ボロミアは必ず弟の居室を訪れる。
眠る弟を起こさぬ様、いつも弟の額にそっとひとつ柔らかな口付けを贈る。
ファラミアは兄のくれるその唇の優しい温もりを知っている。
昨夜もファラミアは、兄が部屋の戸を閉めた後、遠ざかる足音に耳を澄ましながら寝台の上で目を開けた。
明日は父のいない館で朝から兄と二人きりで過ごせる
そう思うだけでファラミアはわくわくと高鳴る胸の鼓動を抑えられない。
“早く眠ろう。
目が覚めたら兄上と朝餉をご一緒出来る“
引っ張り上げた上掛けの中に潜り込んだファラミアは、瞳を閉じて幸せな眠りへと落ちていった。
翌朝目を覚ましたファラミアが、弾む足取りで食堂の扉を開けた時、そこに兄の姿はなく、卓の上には一人分の食事の用意しか整えられてはいなかった。
「兄上はまだお休みでいらっしゃるのだろうか?」
食堂付きの女官にそう尋ねると「まあ、ファラミア様」と、女官は驚いた目で執政の次男を見た。
「ボロミア様がお帰りになられたのをご存知でいらっしゃいますの?
昨夜はお帰りが遅うございましたし、今朝は随分早くからお出掛けになられましたのに」
「兄上は外出なさったのか」
目に見えてがっくりと肩を落としたファラミアを見て女官は声を立てずに笑う。
「はい、どこに行くとはおっしゃいませんでしたけれど、朝餉はいらぬとおっしゃって。
久方ぶりにオスギリアスから戻られて、今日はせっかくお父君様から一日お暇を頂いたというのに、弟君をほったらかしてお出掛けになってしまわれるなんて、困った兄君様ですわね」
女官の言葉にファラミアの頬が朱くなる。
そのつもりはなかったのに、気持ちが顔に出ていたのかと思うと恥ずかしかった。
朝餉の後ファラミアは、兄が戻ったら知らせてくれる様にと女官に言い置き、都の書庫へと足を運んだ。
ファラミアにとって兄が不在の折、都で最も心安らげる場所がこの書庫なのである。
前年まで被保護者として過ごした南の公国ドル・アムロスにも勿論書庫はあった。
だがその規模はミナス・ティリスの比ではない。
齢11にして書痴とも呼ばれるファラミアにとって、書物に囲まれて過ごす時は、兄の傍らに居られぬ時間の虚しさを埋める唯一の慰めとなっていた。
“これではドル・アムロスに居た頃と変わらない”
母が亡くなって三月程過ぎた頃、ファラミアは母の弟であるイムラヒル預かりの身となり、母の生国であるドル・アムロスへと居を移した。
ミナス・ティリスより南に位置するドル・アムロスは、南海に面した温暖な気候の土地であり、ファラミアの保護者となった叔父・イムラヒルもその地の気候に比す温かい人柄の人であった。
白鳥旗の翻るドル・アムロスの宮中で、ファラミアは温かく迎え入れられ大切に育てられた。
実の子同様に愛してくれる叔父夫婦に孫を溺愛する祖父母。
臣下や近衛の兵、女官達もファラミアを蔑ろにする事は決してなかった。
しかしそれでも尚ファラミアの胸の内には、北へと向かう尽きせぬ一つの想いがあった。
慈しんでくれるドル・アムロスの人々に、その想いを知られるのが憚られる時、ファラミアの足は書庫へと向いた。
その日もファラミアは朝から書庫に籠っていた。
時折書物を繰る手を止めて顔を上げると、北東と思しき方向に目を向け、小さく吐息を零しながら。
幾度目かの吐息の後、漸く書物の世界に没頭したファラミアは
「何を読んでおるのだ?」
という声で、弾かれた様に顔を上げた。
振り向いたファラミアの目の先には、求めて止まぬ翡翠色の瞳がファラミアを見て微笑んでいた。
「兄上!」
声を弾ませたファラミアは、頬を上気させ兄に向き直る。
「ご到着は明日のご予定だったのではありませんか?」
「その予定だったが、天候に恵まれ思いがけず早くに着いた」
言いながらボロミアは、弟の肩越しにひょいっと机の上を覗き込む。
「珍しいな、そなたがこの様な書物を読むのは」
兄の言葉にファラミアも机上の書物に目を移す。
普段ファラミアは子供らしからぬ書物ばかりを好んで読む。
しかしその時机の上に広げられていたのは、大きな挿絵の入った絵草子だった。
下から段階的に小さくなっていく白い玉を積み重ねた様な形状に、小石や小枝で人を模した飾り付けがなされた奇妙な挿絵をしげしげと眺めて小首を傾げるボロミアに
「“雪だるま”というのだそうです」
と、ファラミアが声を掛ける。
「ゴンドールのずっと北の方の国では、“雪”を丸めてこの様なものを作るのだと、この草子に書いてありました」
「雪を…丸める?」
それを聞いたボロミアが目を丸くする。
ゴンドールは南の国だ。
ドル・アムロスでは勿論、ミナス・ティリスでも滅多に雪は降らない。
ファラミアは生まれてからまだ一度も“雪”というものを見た事がなかった。
「兄上は“雪”をご覧になった事があるのですか?」
「雪か…。
今よりずっと幼かった頃に、2,3度だけだが見た事はある。
氷を削った欠片の様なものが空から降ってくるのだが…。
肌に触れるとすぐに融けてしまうのだ」
「融けてしまうのですか?
でもそれでは丸めて“雪だるま”を作る事が出来ません」
「然様…」とボロミアも首を捻る。
「ずっと北の方の国では、降った雪が融けぬ程寒いのかもしれぬな」
ファラミアはその寒さを想像してみて思わず眉を顰める。
「それ程に寒い国では、人は凍えてしまいましょう。
“雪だるま”を作るというのは大層難儀な事なのですね」
「そうだな」
言いながらボロミアは、着ていたマントをふわりとファラミアに着せ掛ける。
「だがそなたもこの様に火の気のない処にこれ以上居ては、北の国の人の様に凍えてしまうぞ」
マントのその温もりは、そのまま兄の温もりを伝えている様で、ファラミアの頬には自然と笑みが広がる。
「さあ、そろそろ宮中に戻ろう。
戻りがあまり遅くなると叔父上にご心配をお掛けしてしまうからな」
机の上に広げた書物から顔を上げたファラミアは
“まったく…”
と、口元に苦笑を上らせる。
“成長しないな、私は。
殊兄上の事となると“
机上に広げた絵草子に目を落としたファラミアは、“雪だるま”の挿絵をじっと見詰めてそう思う。
“早く兄上が帰っていらっしゃればよいのに”
「何を読んでおるのだ?」
背後から掛かった声にファラミアが弾かれた様に振り向くと、そこには求めて止まぬ人の翡翠色の瞳があった。
「兄上!」
そう声を弾ませた弟の肩越しに“雪だるま”の挿絵を認めたボロミアは、手にしていたマントをふわりとファラミアに着せ掛けて笑う。
「少々私に付き合え」
兄の後に付いて庭の隅に立つ巨木の前まで来たファラミアは、その木の根元を指し「“雪だるま”だ」と言う兄の、指差す先に向けた目をしばたたいた。
確かにそこには球形を積み重ねた…様に見えなくもない形状のものがあった。
それには確かに人を模した…様に見えなくもない小枝が突き刺してもあった。
だが掌に乗る程の大きさしかないそれは、到底絵草子の挿絵とは似ても似つかぬ歪な氷の塊…としかファラミアには見えなかった。
嬉しそうに弟を見る兄に何と言ってよいか分からず
「兄上…」
と口籠るファラミアに
「今朝は殊の外冷え込んでおったからな。
この様な日であれば“雪だるま”も融けぬであろうと思ったのだ」
そうボロミアは得意気に胸を張る。
その時ファラミアは、兄の赤く染まった頬に目を留め、はっと気付く。
目を移せば兄の指先は更に赤味が濃い。
思わず「兄上」と伸ばした指先で触れた兄の手の冷たさに、ファラミアは目を瞠った。
「お手が…冷とうございます」
「朝から氷室に籠っておったからな。
少々冷えた」
照れた様にそう言う兄の、はにかんだ笑顔がファラミアの胸をきゅうっと締め付けた。
胸一杯に広がる想いに堪らなくなったファラミアは、兄の背に手を回し、ひんやりと冷たい胸に頬を押し付けると、ぎゅっとボロミアを抱き締めた。
ボロミアは何も言わず弟の背を抱き返し、白っぽい弟の金の髪をくしゃくしゃと搔き回す。
「次に兄上が“雪だるま”を作られる時には、私もご一緒します」
ファラミアは顔を上げ、天青石にも似た透き通る瞳でボロミアを見て言う。
「ファラミアは…いつの時にも兄上と共に在りたいのです」
「ファラミア」
とその時、ファラミアはひやりと頬に触れる冷気を感じ、反射的に空を見上げた。
ファラミアのその青い瞳には、ふわふわと天から舞い落ちる小さな白い羽毛の欠片が映っていた。
しかしその羽毛の欠片は、受け止め様とさし伸ばしたファラミアの掌に触れるや、儚く消えて小さな水滴を作った。
「雪だ、ファラミア!」
「雪…これが…」
掌に触れては消える雪の片を見詰めながらファラミアは呟いた。
白く淡い…触れれば消えてしまう…
儚い夢の様な…
その雪の片を掴まえる様に、ファラミアは掌を閉じるが、開いた手の上には幽けき雪の骸が残るだけだった。
“それ故北の人は‘雪だるま’を作るのだろうか?
玉響の間に消える夢に、確かに触れたのだと、確かにその手に掴まえたのだと…証を残す為“
「兄上」
雪を掴まえ様とする弟の姿に優しい視線を向けていた兄に、ファラミアは思い掛けない程真摯な声で言う。
「いつの日にかファラミアは、兄上と共に北の地に行ってみとうございます」
「ファラミア?」
「いつか私が、兄上を雪の降る国へお連れします。
私は…。
兄上とご一緒に、人の背丈程もある“雪だるま”を作ってみたいのです」
瑠璃を思わせる蒼い瞳に、はっとする程一途な光を湛えた弟の眼差しを受け止めたボロミアは、暫し後、花が綻ぶ様な艶やかな笑顔を見せた。
「そうだな、うん、そうしよう。
いつかファラミアと共に北の地へ参ろう」
「兄上っ!」
ぱっと輝いた弟の瞳を覗き込んだボロミアは
「その折はこの身をそなたに預ける故、迷わぬ様、しっかり案内致すのだぞ」
と笑った。
「勿論です、お任せ下さい!」
桜色に上気した頬でそう頷くファラミアの後ろでは、淡雪を頭に乗せた“ミナス・ティリスの雪だるま”が、雲間から射す日の光を受け、透明な氷の粒を、きらきらと煌かせていた。