top of page

三点の力学(後編) 1

 

添え木を当てぐるぐると布を巻かれた長い脚を上掛けの上に放り出したセオドレドは、寝台の上に身を起こし西に開け放された窓から、傾き始めた陽光に響き渡る、ミナス・ティリスの近衛部隊が出立を告げる角笛の音に耳を傾けていた。

“じき来るな”

 

ローハンの継嗣が予測した通り、程なくして居室の外に足音が聞こえ、天鵞絨の手触りを思わせる耳に心地よい声が来訪を告げた。

副官が開けた扉の外にその姿を認めて微笑んだセオドレドは、寝台の上で大きく両手を広げて言った。

「待ちかねたぞ、我が朋友殿」

 

幾分緊張した面持ちで、白の塔の総大将は友の呼び掛けに固い笑顔で応えると、真っ直ぐローハンの世継ぎの元に歩み寄った。

 

前日、戦勝の気運に沸き返る宴席を中座したボロミアが、セオドレドの居室を訪れた時居室の片隅に控えていた小姓に代わり、今扉の脇に佇む副官は、昨日の小姓同様伏せ目がちに視線を床に落としているが、その全身からはローハンの継嗣とゴンドールの公子の様子を窺う気配がひしひしと伝わってくる。

 

昨夜、負傷したセオドレドの脚に目を留めて表情を曇らせたボロミアに

「出歩くのも不自由でな。

 退屈しておる故暫し留まり話し相手になってくれぬか」

そう今と同じく寝台の上に身を起こしたセオドレドは笑って言った。

「御意に沿いたいのはやまやまですが…」

思い設けぬ継嗣の申し出に困惑したボロミアが返答に窮した時、セオドレドは今の副官と同様伏せ目がちに部屋の隅で控えていた小姓におどけた口調でこう言った。

「聞いたか?我が愛する同胞は何ともつれない。

 懐柔するには賄が入用だ。

 厨房係に言って美味い菓子をいくらかもて」

年の頃は15程で、栗色の巻き毛が大層愛らしい小姓は「は」と一礼し、扉の外に姿を消した。

その途端継嗣は口元から笑みを消しボロミアを自らの枕元に手招いた。

訝しみながら枕元に歩み寄った執政家の嫡男を引き寄せたローハンの継嗣は、その耳元で声を顰めて言った。

「内々で話がある。

 今ここでは話せぬ故明日また改めて参れ。

 この事はそなたから執政殿に伝える外は一切他言無用だ」

「父上の外…と申されますと、ファラミアも、という事でしょか?」

「然様。

 弟卿を信用せぬ訳ではないが、少々込み入った話なのでな」

そこまでセオドレドが言った時扉を叩く音がし、小姓が戻った旨を告げた。

ボロミアを引き寄せていた手をセオドレドが離し

「入れ」

と言うと同時に片膝を付いていたボロミアは素早く立ち上がり、室内に入って来た小姓に目を遣った。

小姓はその手に菓子を並べた盆を持っている。

「丁度廻廊の先で給仕の者に行き合いました故、その者が持ちおりました盆をお持ちしました」

その言葉に微かに表情を強ばらせたボロミアに対し、セオドレドはいつに変わらぬ砕けた調子で小姓に言った。

「それはまた折良き間合であったが、無駄足を踏ませたな。

 その賄がなくともボロミアは角笛城に残るそうだ」

 

そして今、大きく両手を開いた友との抱擁を交わしたボロミアが身を離そうとしたその瞬時の間、黒髪の継嗣は友の背に廻していた手に力を込め、執政家の嫡男を抱き寄せた。

 

思いもかけぬセオドレドの行動に体勢を崩したボロミアがセオドレドに抱き込まれる形でその肩口に顔を埋めた刹那、聞こえるか聞こえぬか程のセオドレド声がボロミアの耳元で囁かれた。

「暫し動くな」

言葉を受けた友の躰が身動ぎを止めた事を確かめたセオドレドは素早く戸口に立つ副官に視線を走らせると、その行動とは裏腹に陽気な声で言った。

「何をぼうっと突っ立っておる、無粋な奴だな。

 久方ぶりに友とおうたのだ。

 少しは気を利かせぬか」

セオドレドの言葉に副官は感情の見えぬ声で

「これは気が利きませず失礼しました」

そう一礼し部屋を辞した。

「セオドレド殿?」

ボロミアの声にセオドレドは、副官が辞去した扉に目を向けたまま唇に指を当て声を顰めた。

「大方“あれ”が扉の外で聞き耳を立てておろう」

腕の中にあるボロミアの躰が僅かに引き締まるのを感じながらセオドレドは言った。

「今宵は居室の鎧戸を閉めずにおけよ」

無言で頷いたボロミアはややあって躊躇いがちに口を開く

「ところで」

「ん?」

と、ボロミアの瞳を覗き込んだセオドレドにボロミアは戸惑いを含んだ声で言う。

「そろそろ離して頂けませぬか」

 

 

宵の口から雲の出始めた空は、月が天中に掛かろうかという頃にはその月をすっかり覆い隠し、漆黒の闇にヘルム渓谷を閉じ込めていた。

しかしその中でよくよく目を凝らしてみれば、星影すら見えぬ闇の中に仄白い影が角笛城の外壁を澱みなく動く様が見て取れるのだが、幸か不幸か塗り込められた様な闇夜の中で、城塞の外壁に目を凝らす者は、その夜いなかった。

 

角笛城でボロミアに手配された部屋は天守楼のひとつ下の間にあり、セオドレドの居室からは半周程回り込んだ場所に位置する。

友の言葉に従い明かりを灯しておらぬその部屋は、夜の闇に溶け込んでいるが、するすると猿の様に壁を伝い渡る影は部屋の位置を完全に把握しており、準備に抜かりはない。

鎧戸の開けられたままの窓からするりと目指す部屋の内に滑り込んだ白い影は、文目も分かぬ闇の中ですら感じ取れる、唖然とした気配に向かってその場の状況に全くそぐわぬ陽気な声を発した。

「待たせたな、ボロミア」

暫しの後、

「セオドレド殿…足は…なぜ…?」

そうボロミアの声が低く闇を震わせたが、対するセオドレドはボロミアの困惑など全く頓着のない声で答える。

「足?ああ、あれは“ふり”だ、“ふり”。

 副官面した“あれ”にうろうろ周りを嗅ぎ回られては面倒なのでな」

「確かにセオドレド殿の副官が以前と変わっておられた事は気になりましたが…」

言い止すボロミアに

「その話は後だ」

そう制したセオドレドが

「このままではそなたの顔が見られん。

 今鎧戸を閉める故灯を頼む」

と、窓辺に歩み寄ると慎重に辺りを見回し、開け放してあった鎧戸をぴたりと閉めた。

同時に室内に明かりが灯り、手燭を持ったボロミアの姿が明かりの中に浮かび上がる。

「昼間の様子から誰ぞ人を寄越されるものとは思っておりましたが、まさかセオドレド殿御自身が参られるとは…」

言いながらボロミアが手燭を置いた机に足を運びつつセオドレドは言う。

「この様な夜更けにそなたの居室に人をやるなどという愚かな真似を、この私がしようはずもなかろう」

セオドレドのその言が意図するところを今ひとつ分かっておらぬ様子のボロミアに構わず、机の前に置かれた椅子に腰を下ろしたセオドレドは

「監視者を手懐けるのに少々手間取った故遅くなったがな」

そう言いつつ顎をしゃくって隣の椅子に腰掛ける様ボロミアに促した。

「監視者とは…」

椅子に腰を下ろしながらボロミアがそう言い終えるのを待たず

「小姓だ」

と、セオドレドは言下にそう吐き捨てた。

思い返せば開城の際ボロミアを出迎えたセオドレドの副官には、継嗣付きであるはずの昨日の小姓が付き従っていた。

「事もあろうに、この私を房事で篭絡しようとしおったのだぞ」

腕を組み、不快も顕なセオドレドに

「房事…ですか…?」

と、ボロミアの声には戸惑いが隠せない。

ボロミアのその様子を喉の奥で笑ったセオドレドは、ずいっとボロミアの前に身を乗り出し

「然様、房事だ。

 だが生憎寝技は私の最も得意とするところでな」

と鼻先が触れ合う程の距離でボロミアにそう囁いた。

意味を察したボロミアの頬に朱が刷かれるのを見定めたセオドレドは

「それ故返り討ちにしてくれたわ」

とにんまりと口元を緩める。

「返り討ち…。

 し…しかしそれは…、まだ少年ではありませぬか…」

耳まで朱く染めて俯いたままもごもごと言うボロミアの顎を指先でくっと持ち上げたセオドレドは、手燭の灯を映して揺れるボロミアの緑柱石の瞳を真っ直ぐ見詰めて言う。

「その様な顔をするな。

 閨房に忍んで策を弄そうなどという手合いに情けなど無用だ」

「セオドレド殿」

邪気のない顔でにっこりと笑ったセオドレドはボロミアから身を引くと、椅子の上でふんぞり返って言い募った。

「第一小姓とはいえ既に15だ。

 少年とも言えまい。

 房事を弄する間諜に仕立てられただけあって実によく仕込まれておったぞ」

返答に窮し、目を宙に泳がせるボロミアの表情はセオドレドの加虐心を擽る。

ついボロミアを苛めたくなってしまうセオドレドは更に語を継ぐ。

「多少手荒に扱っても大事無さそうなのでな、こちらとしても正体をなくす程に寝込ませる必要があった故、精根尽き果てて足腰立たなくなるまでに好い思いをさせてやったのだ。

今頃は夢の中で快楽の続きを貪っておろうほどに、文句を言われる筋のものでもあるまい」

戦場で戦略を練るのと違い、寝間での房事には全く無縁で過ごしてきたボロミアは、セオドレドの言葉に首まで真っ赤に染め上げると口に手を当てて俯いてしまう。

セオドレドなどの目には薄明かりの中で見るボロミアのその様な姿は、まるで新婚初夜の初心な花嫁の様で何とも艶っぽく映るのだが、それにしては襟元まできっちりと留められた部屋着姿というのは頂けない。

「夜着に着替えておればよいと申したであろうに」

そう、つい本音が漏れたのを聞き咎めたボロミアが気を取り直した様に顔を上げる。

「そういう訳には参りませぬ。

 状況が把握出来ておりませぬ以上、何が起きても対処出来る様備えをしておかねば。

 セオドレド殿の方こそ、その様な格好で窓外へ出られるなど、不用意でしょうに」

そう非難がましい視線をボロミアに向けられたセオドレドは、夜着だけの自分の姿を改めて見直した後、わざとらしい程嫋かな笑顔を顔に貼り付け、含みのある声で言った。

「つい先刻まで色事に励んでおったのでな。

 着替える暇がなかったのだ」

立ち直ったはずのボロミアはその言葉に再び真っ赤に茹で上がる。

セオドレドにしてみれば自分の言葉に一々赤くなったり狼狽したりで、おたおたするボロミアの姿を見るのが楽しくて仕方ないのだが、今回はそう楽しんでばかりもいられない。

こうして夜半過ぎにボロミアの居室に忍んで来たのは、残念ながら隣国の公子を夜這う為ではないのである。

但し

“そちらは何れまた”

そう胸の内で呟きつつ

「それはそれとして」

と、セオドレドは笑いを含まぬ声でそう切り出した。

bottom of page