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名にし負う、王と呼ばるる2 -流浪(前編)-

 

 

南の国の温かい海を見てみたい

灰色の厚い雪雲が垂れ込めた空の下

その日

私の胸の内にその望みが芽生え

その時

エルフの養い子エステル<望み>が死に

流浪する野伏のアラゴルンが生まれた

 

 

中つ国 第3紀 2955年 初冬

 

北方の荒地エリアドールの上空は、その日冬色の蒼い空に灰色がかった雲が重く垂れ込め、本格的な冬が近い事を告げていた。

 

その空の色を写し取ったかの様な瞳が葦の間から鋭い視線を向けているのは、川面で羽を休めている水鳥達の群れだった。

葦の茂みに身を潜め、狩猟用の小弓を水鳥達に向けたアラゴルンは腹を空かせていた。

携行した糧食が底をついた後3日間獲物を獲り逃がし、水と塩とパイプ草だけで過ごしていたからだ。

今日こそは何としても獲物を仕留めたかった。

狙いを定め弓を引き絞ったアラゴルンが、弦を持つ手を放した瞬間、水面を打つ水鳥達の羽音が一斉に響き渡り、灰青色の空に白い羽毛が舞い散った。

 

仕留めた水鳥を肩に担ぎ、ざばざばと川から上がったアラゴルンは無造作に獲物を岸辺に放り出すと、悴んだ指先に白い息を吐き掛けた。

湿気を含んだ厚い雲に覆われた初冬の空は、真昼の日差しからさえ僅かな温もりを奪う。上空を見上げたアラゴルンは眉根に皺を寄せ、表情を険しくした。

雪が降りだすまでにはもう少し薬草を採っておきたいところだった。

エミン・ウィアルの隠里に戻る前にエレド・ルインの麓の辺りまで足を延ばしておいた方が良いかもしれない。

アラゴルンは投げ出した水鳥を拾い上げ、再び肩に担いで歩き出した。

 

水際から然程遠くない乾いた岩場に野営の準備を終えたアラゴルンが、漸く焚火の前に腰を落ち着けた時、午後の日は既に西の空に傾き始めていた。

焚火の前で仕留めた水鳥の羽を毟り始めたアラゴルンはふと手を止め、日焼けして節くれだった傷だらけの手にじっと視線を注いだ。

そこには“エステル”と呼ばれていた頃の面影は微塵もない荒れた掌があった。

“あの日”から既にもう4年以上の歳月が過ぎていた。

 

 

“エステル”が華々しい戦果を携え、双子のエルフ、エルラダン・エルロヒアと共に彼らの父であり彼の養い親でもある裂け谷の領主エルロンドの許に戻ったのは、彼が20歳になって間もない春の初めの頃だった。

 

裂け谷に戻ったその日の夜、エルロンドは彼の養い子であるエステルを居室に呼んでこう切り出した。

「そなたの真の名は“エステル”ではない」

 

寝耳に水のその言葉に戸惑い、どう答えるべきか図りかねる養い子が、返答に窮するその胸の内を斟酌する様子もないエルロンドは

「今はなき北方王国アルノールの王統を継ぐ王家の末、アラソルンがそなたの真の父であり、そなたの真の名はアラゴルンという」

と続け、アラゴルンの前に北方王家の宝器である“バラヒアの指輪”と名剣“ナルシル”の刃の破片を押し出した。

「そなたはいずれこの宝器を以て偉大なる功業を成し遂げるとの予見の下に生を受けた身である。

 故にこれより先、そなたはその身に相応しき者となるべく長く過酷な試練を受けねばならない」

そう厳かな声でエルロンドは“アラゴルン”に宣告したのだった。

 

話の展開に付いて行けず呆然としていた“アラゴルン”は、半ば押し付けられる様にして受け取った宝器を持って居室に戻り、机の上に放り出したその宝器を暫くぼんやり眺めていたが、やがてどさりと寝台の上に腰を下ろすと、我に返って頭を抱えた。

 

昨日までは父親の名さえ知らなかった。

エルフでもないのにエルフの里でエルフの養い子として育てられていた。

 

物心ついた頃アラゴルンは、既にエルフの里の“黒い羊”であった。

 

父を亡くし母と共にエルフの里に養い子として引き取られたのは、アラゴルンがまだ2歳の頃であったのだが、幼いながらもアラゴルンは、自分がエルフの里の中で特異な存在である事を、確かに感じ取っていた。

それでもエルロンドが自分を養い子として裂け谷に住まわせている点については、母ギルラインが、夜更けに人目を忍んで向かう先がどこかと見当がつく齢になった頃には

“成程、だから養い子、という訳か”

と、自分なりに理解した。

そうと思えばエルラダン・エルロヒアの、母に対する冷淡な態度にも合点がいった。

死すべき運命にないエルフである彼等には、西方に去ったとはいえ父エルロンドの妻であり、彼らの母であるケレブリアンが、いずれ至福の地ヴァリノールで相会う存在として、厳に今も彼らの中に存しているからだ。

 

但しアラゴルンが知る限り、本質的な意味で人間に冷淡でないエルフなど存在しない。

それは時折裂け谷を訪ねて来る北連丘に住まう母方の親族はもとより、より裂け谷に近いルダウアに住まう王家に近しい西方人の末裔達が裂け谷を訪れる際にも、彼等を見るエルフの目の奥にはっきりと見て取る事が出来た。

アラゴルンはその冷ややかな嘲りの色を、既に幾度となく目にしている。

寧ろアラゴルンにとっては、エルラダン・エルロヒアが同じその目を自分に向けぬ事の方が不可解でさえあった。

だが出自が明らかになってみれば、それも恐らくは父であるエルロンドから、実は“エステル”がエレンディルの血を継ぐ最後の後継“アラゴルン”なのだ、と聞かされていての事だろうと得心出来た。

尤も出自が明らかになったとろこで、それで気持ちが高揚する、だとか、晴れ晴れとする、だとかいうものではない、とアラゴルンは思う。

昨日まではエルフの養い子のエステルで、明日からは滅亡した王家の世継ぎアラゴルンだと言われても、即座に「はい、そうですか」と納得など出来るものではない。

その上具体的に何をせよと言うでもなく、ただ王家の末裔だからという理由だけで、大いなる功業を成し遂げる為に長く厳しい試練を受けよと言われても、成し遂げるべき功業が何で、受けるべき試練がどういうものであるのかについては語られていないのである。

ただ闇雲に自ら苦労を買って出よと言われても、20年近く何不自由なくエルフの里で暮らしてきたアラゴルンには、何が苦労を買って出る事になるのかすら見当もつかないのだ。

 

目を上げたアラゴルンは机の上に置いた二つの宝器をしげしげと眺め

“この宝器を以て王家の末裔が成し遂げる功業か…”

そう胸の内でひとりごちた。

“北方王国を再興せよ、とでも言うのだろうか?

 確かにそれは大層難儀な大仕事だろうが…“

と、それを想像してアラゴルンは盛大な溜息を吐いた。

“当の末裔が王になりたいなどと少しも思っていないのだから、尚更だ”

 

翌日アラゴルンは日が昇るのを待ちかねる様に母の居室を訪ね、前置きもそこそこに事の真偽を問い質した。

それは真実だと言ったギルラインは怯えた目をして

「お願いよ、そんな顔をしないで頂戴。

 出自を知った上でその様に不機嫌な顔をしていてはエルロンド様のご不興を買ってしまうわ。

 エルロンド様のご機嫌を損ねてこの裂け谷を追い出されでもしたら、私達は生きてはいかれないのよ」

と、息子の腕に取り縋った。

“私達、ではなく私、だろう”とアラゴルンは思うのだが、きょときょとと目を泳がせ小さく身を震わせている母の姿が哀れで、口に出しては唯「分かりました」と答えるだけに留めおくより他にはなかった。

 

その夕刻、自室に籠ってぐずぐずと思い悩む事に厭気が差したアラゴルンは、裂け谷の中にある林のひとつへと足を運んだ。

心の内とは裏腹に、さも心が弾んで気持ちが高揚している風を装ったのは、エルフならざるアラゴルンが、エルフの里で生きる為に身に着けた“知恵”である。

たとえ西方の血を継ぐ身ではあっても、人の子である事に変わりないアラゴルンがエルフの里で暮らすという事は、即ち自分より遥かに年長の、圧倒な支配権を持つ立場にある大人ばかりの中で、子供が一人暮らす様なものなのである。

その様な環境にあって、母は深夜に抜け出す以外与えられた居室から滅多に出る事もなく、常にびくびくと息を潜める様に暮らしていた。

母のその姿を見て育ったアラゴルンは、幼いながらも母とは違う道でエルフの里に生きる術を見出していたのである。

 

物心がつくより先に、幼いアラゴルンはエルフ達の表情を窺う事を覚えた。

その表情からエルフ達が何を自分に望んでいるのかを読み取る事を覚え、“望まれる自分”を演じる事を覚えた。

幸い西方の血のなせる業か、アラゴルンにとって彼らが望む“エステル”を、そつなく器用に演じる事は然して難しい事ではなかった。

それはエルフ達の“望み”に沿う様、ただその“望み”に流されるだけの生き方だったが、当のアラゴルンはそれに反発するでもなく、エルフ達の間を巧みに立ち回り、首尾よく自分の居場所を確保した。

その様な生き方を身に着けたアラゴルンは確かにひねこびた子供には違いなかったが、特段“何がしたい”だとか“何が欲しい”だとかいう、自分自身の“望み”というものを持たなかったアラゴルンには、そもそも“夢や希望”というものが存在しなかった。

それ故反発のしようとてないのである。

物心ついた頃には既に、何を望んだところでそれがエルフ達の意にそぐわぬ望みであれば、叶えられる望みのない事を、アラゴルンは、知っていた。

結局のところ出自も分からぬ一介の人の子である自分は、エルフ達の望む通りに生きるしかないのだ、という諦観が、自我より先に、深く、強く、アラゴルンには根付いている。

 

居室を一歩出れば、裂け谷のどこにでも“エルフの目”、はあるのだ。

 

その様な状況の下でエルフの里に生きるアラゴルンにとっては“エルフに望まれる自分”の仮面は、既に皮膚の一部の様なものになっている。

気持ちが高揚して思わず口を衝いて出てきた様に口ずさんだベレンとルーシエンの歌物語が、人間とエルフの麗しい結びつきを讃える為ではなく、娘可愛さにベレンを陥れようとしたエルフの王、シンゴルを皮肉る気持ちから出たものだとしても、である。

 

その心の内を面に表す事無く、ネルドレスの森でのベレンとルーシエンの出会いの一節を口ずさんでいたアラゴルンは、白樺の木立の前を通り掛かった瞬間ぎくりとして足を止めた。

ふいに木立の間にエルフの乙女が現れたからだ。

 

それは乙女の美しさに魅せられた、とか、威厳のある姿に心打たれた、とか言う様なものではない。

唯単純に驚いたのだ。

何故ならそれまでのアラゴルンは、エルフの乙女というものを見た事がなかったからだ。

そもそもエルフの乙女に限らず、アラゴルンはそれまで“若い娘”というものを見た事がない。

裂け谷では勿論、双子のエルフ等と共に巡った遠征先でも、アラゴルンの目から“若い娘”の姿は巧妙に隠されていた。

それ故アラゴルンにとって“エルフの乙女”など書物や歌物語の中だけのものであり、実際に目にしたのはその時が生まれて初めてだったのである。

当然比較対象というものを持たないアラゴルンには、その乙女がどれ程美しいのか咄嗟に判断など出来ようはずもない。

況してやアラゴルンは西方人の年齢から言えば、まだほんの少年にしか過ぎないのだ。

謂わば森で突然熊と出会った様なものである。

 

しかしそこが身に沁みついた習性の恐ろしさである。

我に返ったアラゴルンは相手がエルフである以上何かこの乙女の機嫌を損ねぬ様な事を口にせねば、と、これまでに知り得た恋物語の知識を総動員し、自分にはよく分からぬながら、兎にも角にも乙女の美しさを褒め讃える歯の浮く様な台詞を並べたてた。

斯くてその乙女が、自分はエルロンドの娘だと言うのを聞き、なれば自分の仕儀にはまずまず不首尾はなかったものとほっと胸を撫で下ろして居室に引き上げたアラゴルンは、その日の深夜目を覚まし、眼前に迫った昼間の乙女の顔を見て仰天した。

赤い唇に淫靡な笑みを浮かべた“夕星”という名のその“高貴なエルフの姫君”は、あまりにも思い掛けない事態に何が起こっているのかを咄嗟に理解出来ず唖然としているアラゴルンに圧し掛かると、超絶技巧の床技を用い、思春期の少年の悲しさで、自らの意志とは無関係に姫の意のままになってしまうアラゴルンの躰を、一晩中寝もやらで骨の髄まで徹底的に使役した。

東の空が白み始める頃になり漸く姫から解放されたアラゴルンは、著しく疲労困憊し、激しく寝乱れた敷布の上に突っ伏して伸びていた。

夕星姫ことアルウェン・ウンドーミエルの方はまだ幾分食い足りない様子を残してはいたものの、流石にもうこれ以上は無理だと判断した様で、朦朧としているアラゴルンを残し、入って来た時と同様開いた窓からさっさと朝靄の中へと消えて行った。

寝台の上に臥したまま、肉感的なその後姿が窓の外に消えるのを確かめたアラゴルンは、そのまま泥の様な眠りに落ちていったのだった。

 

その後の数日間アラゴルンは、どれ程しっかり居室の施錠をしても、夜になってまたあの姫が入ってきたらと思うと恐ろしさでおちおち眠る事も出来ず、ろくに食事も喉を通らぬ状態で過ごした。

それが故に僅か数日間でげっそりと窶れたアラゴルンは、息子のそのこけた頬を見咎めたギルラインにその訳を訊ねられた時、蓄積された疲労と睡眠不足で、常日頃の小賢しいまでの判断力を欠いていた。

その為冷静な状態であれば決して母に告げるはずもないアルウェンとの出来事を、つい迂闊にも口に出してしまったのである。

それを耳にした途端ギルラインの顔からは血の気が引き「何て事を…」と周章狼狽した。

「その様な事がエルロンド様の御耳にでも入ったら、私達はこの裂け谷から追い出されてしまうわ」

ギルラインはそう言って恨めし気に息子の顔を見上げたが、その宛も息子がエルフの姫を手籠めにでもしたかの様な物言いに、思わずアラゴルンは顔を顰めた。

アラゴルンにしてみれば夜這われて貪り食われたのは自分の方なのである。

「母上、私は…」

そう言いかける息子を遮り

「いい事、あなたのこの不始末は、決してエルロンド様の御耳に入れては駄目よ」

形相を変えてアラゴルンを睨み据えたギルラインは、爪が食い込むほどきつく息子の腕を掴んでそう言った。

母のその姿にどっと疲労感を覚えたアラゴルンは言葉を返す気力もなく、溜息と共に母の居室を後にした。

それからのアラゴルンは極力アルウェンと顔を合わせぬ様細心の注意を払い、エルロンドの目を避ける様にして日々を過ごした。

 

その様に日々を送る事にうんざりしていたアラゴルンが、思いもかけず養い親の居室に呼びつけられたのは、その年が終わるという日の前日だった。

身を強張らせてエルロンドの部屋の戸を叩いたアラゴルンは、そこで聞かされた想像だにしなかった話の内容に驚愕し、告げられたエルロンドの言葉に唯呆然と目を見開いた。

 

エルロンドの語るところに依れば夕星姫に懸想しているのはアラゴルンの方であり、アルウェンを夜這って褥を共にする様迫ったのはアラゴルンなのである。

陰鬱とした表情で

「こうなった以上、そなたは誰であれ妻を娶る事は許されぬ。

 また如何なる娘であろうと婚姻の誓いを交わす事も罷り成らぬ。

 そなたが我が娘アルウェン・ウンドーミエルを妻にと望むのであれば、偉大なる功業を成し遂げる他道はないものと心せよ」

そうエルロンドが宣するのを遠くに聞きながら

“謀られた”

アラゴルンがそう気付いた時には、時既に遅かった。

唇を噛んでエルロンドの居室を辞したアラゴルンは、結局その年の終わりとなる翌日の朝、エルロンドに暇を請い、育った裂け谷に別れを告げ、何処へという当てもないまま北方の荒野に足を踏み出したのだった。

 

 

頬に吹き付ける風の冷たさに、アラゴルンは見るともなくぼんやりと目を向けていた掌から目を上げた。

既にエレド・ルインの頂に落ちかけた冬の日の淡い陽光に目を細めたアラゴルンは、過ぎ去った苦い日々の幻影に囚われていた時間の長さを思って苦笑を洩らした。

 

ふっとひとつ大きく息を吐くと、アラゴルンは再び慣れた手付きで水鳥の羽を毟り始めたのだった。

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