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初陣(後編) 3

 

ローハンの継嗣が国に帰った夜、ファラミアの寝所に再び女官が上がった。

 

その夜寝所に姿を現した女官は以前にも夜伽に上がった者であったが、それが彼の緑の瞳の女官でなかった事に、ファラミアは僅かに胸を撫で下ろしていた。

 

初めて夜伽を寝所に迎えた夜の事はファラミアにとって闇に沈めた瑠璃の棘の様に忘れ難い痛みを残した。

魅惑的な女官ではあったが、再びその女官を迎えたならば、その瞳の中に見出してしまう夢幻に我を忘れてしまうのが怖かった。

“あの様な事は二度とあってはならぬ”

その夜以来ファラミアは幾度も自らにそう戒めてきた。

 

ただその実、ファラミアはその夜の記憶は途中から酷く曖昧であった。

流石に初めてで慣れぬ事に、如何に万事そつ無きファラミアといえど戸惑いもあり、ぎこちなく不慣れに事を始めたところまでは記憶も確かなのだが、自分の為している行為が如何許りのものかと、彼の女官の目を覗き込む度記憶が曖昧になり、今でも思い出すと、ぞくりと背筋を駆け上がる痺れと伴に蘇る、悍ましくも甘美な夢幻との区別がつかなくなるのだ。

事の終わりにあって、漸く記憶がはっきりしてきた経界で、その女官が何か自分に向かって囁いた言葉は未だ形を為さぬまま胸の底に蟠っている。

その言葉の意味を、自らに問うてはならぬ、と。

ファラミアにはそれは触れてはならぬ禁忌である様な気がしていた。

 

女官が寝台を降り、身支度を整えて寝所を出て行く段になり、漸く自らを捉えていた夢幻から覚めたファラミアが「そなたの名は?」と問うと、振り向いた女官が

「夜伽に名など」

といっそ潔い程の凛とした笑顔で

「二度とお目に掛かる事も御座いませぬ故、不要かと存じます」

そう言った彼女は、再び振り向く事なく寝所を去った。

 

その迷いのなさ、潔さが尚更夢幻に宿る人を想起させ、ファラミアの熱を煽った事は彼女の預かり知らぬところではあったが。

 

その夜から3日程の間、ファラミアは何くれとなく理由を付けてボロミアを避けた。

とてもまともに兄の顔を見られる心持ちではなかったからだ。

“あれは夢幻だ、あろうかたなき妄想だ”

いくらそう自らに言い聞かせてみても、兄に対する罪悪感と羞恥心から、どの様な顔をして兄に会ったらよいか分からなかった。

兄を慕う余りとしても、その夢幻の中で自らが為した行為は怖気が立つほど厭わしかった。

 

ずぶずぶと自責の泥沼に沈み込んでしまいそうだったファラミアを救ったのは、しかし、やはり兄・ボロミアであった。

 

ファラミアが兄を避けて居室に籠った4日目に、側付きの伺いも立てず、ひょっこりとボロミアが弟の居室を訪れた。

兄の姿を認めた瞬間、心臓が跳ね上がったのを必死で押さえた為、却って素っ気無くぶっきらぼうな態度になってしまった自分に内心舌打ちしたファラミアの顔を、兄は心底心配そうに覗き込んだ。

そしてその次に兄から発せられた言葉はファラミアの心を深く抉った。

「無理をするな、ファラミア」

思わず兄の顔を見上げ、その翠の瞳と目が合ってしまった瞬間、ボロミアは弟の頭を、その温かな胸に抱き込んだ。

一瞬で体内に火が付いた様に熱が上がるのを感じたファラミアに対し、兄はどこまでも優しく囁いた。

「何があったか知らぬが、無理はするな。

 辛い事があるならば、いつでも兄が受け止めよう。

 泣きたい時はこの兄の胸で泣けばよい。

 そなたはいつも無理をし過ぎる」

ボロミアは弟の髪をくしゃりと撫でて、その冬の空の色の瞳を覗き込むと

「そなたの兄は、それほど頼りにならぬか?」

と、吸い込まれてしまいそうな、澄んだ夏の若葉を映した色の瞳でファラミアを見詰めた。

 

ファラミアはその兄の目を見、深い森を渡る風の囁きの様な兄の声を耳にし、自分の中の熱が浄化され洗われていくのを感じていた。

“兄上のこの清冽なお心を曇らせてはならぬ”

二度と自らの闇に巣食う幻惑に翻弄などされぬ強い心で兄上のお傍にいよう、とファラミアは深くこの想いを胸に刻んだ。

 

そう心を決めたファラミアは、数日ぶりに清しい気持ちで兄を見上げ、にっこりと微笑んだ。

「もう大丈夫です、兄上。

 ごお心配お掛けしましたが、私の気鬱はすでに去りました」

「真か?また無理をしてその様な事を申しているのではあるまいな?」

「このファラミア、兄上に嘘など申し上げませぬ。

 それは兄上が一番よくご存知なのでは?」

「したり、これは兄が一本取られたな」

邪気のない兄の笑顔にファラミアの胸がちくりと傷んだ。

それは生まれて初めて兄を謀った弟としての心の痛みであり、同時に、弟の仮面に真を潜ませねばならぬ心の痛みであった。

 

 

衣擦れの音でファラミアは現実に引き戻された。

夜伽の女官が、黙り込んで物思いに耽ってしまったファラミアの前で困った様に所在無げに佇んでいた。

「ああ…すまぬ…」

ファラミアは羽織っていたローブを脱ごうとした手を止めて、ふと気になり女官に尋ねた。

「そなた、確か2度目であったな」

「はい…」

この様な役目は女官の中でも限られた者にしか充てられず、数は限られるだろう。

「そなたは…」

言いかけて流石に言い澱んだファラミアだったが、確かめたい気持ちの方が勝ち、敢えて何気無さを装い女官に聞いた。

「兄上の御寝所にも上がったりするのだろうか?」

女官は目を瞠ってぶんぶんと首を振ると

「そんな事は致しません」

と強く否定した。

「それに、お役をお受けする時、内官長様にボロミア様の御寝所の事は考えなくてよいと言われました」

「兄上の御寝所の事は考えなくてよいと?内官長に?」

「はい…あの…ボロミア様に夜伽は必要ないからと…」

「そうか、分かった」

それはある程度予測していた答えではあった。

予測していた答えではあったが…。

 

その夜ファラミアはいつも以上に事務的に事を終え、早々に女官を返すと一人女官の言葉を反芻した。

 

予測していたとは言え、兄が寝所に夜伽を迎えないというのは執政家に生まれた身にとっては解せぬ事であった。

ファラミアにしたところで、自ら夜伽を求めた事あるわけではないが、名のある家に生まれた男子にとって、夜伽の存在が公の正史に残らぬだけの暗黙の了解事項である事を承知しているからこそ、好むと好まざるとに関わらず、執政の家に生まれた者の責務として夜伽を迎えているのだ。

王いましました頃には、その御落胤としていくらでも西方の血を引く庶子があった。

戦国の世に家を継ぐ血を残す為にはそれは当然の事であり、長子ともなれば妻を娶った時の為にも夜伽を寝所に上げるのは一種の責務である。

もちろん。

ファラミアの心情としては、ボロミアが毎夜寝所に夜伽を上げてせっせと事に励むなど考えたくもない事であり、それ以上に想像もつかない。

確かに世に女性を愛せないという者があることも、男色の嗜好を持つ者があるという事も、特に兵役に就く者の中にその様な嗜好を持つ者が多い事をファラミアは知っている。

正史から外れた歴史書の中にはその様な記述はいくらでも見られる。

公に口にされないだけで、それは特段珍しい事ではない。

しかし名のある家に生まれた者であれば家系の血筋を残すというのは本人の嗜好の問題ではない。

ファラミアから見るとローハンの継嗣などはその様な嗜好が見て取れるが、それでもいずれは妻を娶るであろう。

それではボロミアにその様な嗜好があるのだろうか?

しかしセオドレドに対する態度ひとつとってみても、兄にその様な嗜好があるとはとても思えない。

にも関わらず、自分より5才年長で執政家の長子である兄が未だ夜伽を寝所に上げる事もないなどあり得るのだろうか?

俄には信じ難い事ではあるが、もし本当にその様な事があるならば、兄のあの白い肌には未だ誰も触れた事がないのだろうか?

と、そこに思い至った時、ファラミアの胸の内に、抑え難い劣情と共にオスギリアスの小暗い水路で目にした、仰け反る兄の白い喉と、ファラミアの名を呼ぶ掠れた声が、思い設けぬ生々しさで蘇った。

“何を…考えているのだ…私は”

何とかその兄の姿を瞼の裏から消し、その声を耳朶から遠ざけようと、何度も強くかぶりを振り耳を塞いだが、消えぬ幻に煩悶するうち、ファラミアは、一睡も出来ぬまま朝を迎えた。

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