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初恋 12

 

朝焼けの光で朱く染まった東の空に浮かび上がる、ミナス・ティリスの白き塔。

その最上階に隠された小部屋で、石の国の執政は覆いを掛けられた“それ”をじっと見詰めていた。

時に未来をも見通すという、西方の血を濃く継ぐ石の国の執政・デネソールの目は、今回の敵の動きの中に、朧気な未来の翳を捉えていた。

そしえその翳の中に垣間見える“白き乙女”。

彼の乙女に如何なる邪心も害意もない事は、その心を読むまでもなく、昨日手に取ったその白く優しい手の温もりだけで十二分に知れた。

それにも拘らず、不吉な翳は一昨日より昨日、昨日より今日と、その濃さを増している。

 

昨日の乙女の白く華奢な指は、過ぎし日に戦場より戻った妻の部屋で見た、寝台の上で妻の胸の上に組まれた指の白さを思い起こさせた。

 

あの時躊躇わず“これ”を使っておれば

 

デネソールの胸に穿たれた、癒えぬ悔恨の傷が深く疼いた。

 

 

手燭を頼りに暗い通路を辿るマブルングは、身に染みついた刻の感覚で、そろそろブランディアが起き出す時刻である事を感じていた。

後に従う東夷の男二人と南方人一人を振り返ったマブルングは

「手筈は分かっているな」

と問い、三人の男は無言で頷いた。

 

隠し扉の前まで来た時マブルングが取り出したその扉の鍵は、手燭の炎に鈍い光を照り返した。

「この鍵の代価だけで満足しておれば良かったものを」

 

“あの娘は欲張り過ぎ…、しゃべり過ぎた”

鍵穴に鍵を差し込んだマブルングは、唇に皮肉な笑みを浮かべた。

 

 

“マブルングの事をお話ししなければ”

ニエノールは何度もそう考えた。

しかし、朝餉の卓を挟んだ父に目を向ける度、ニエノールはその勇気が挫けた。

結果、食事を終えたブランディアが見遣った娘の皿からは、出された料理は一向に減ってはいなかった。

僅かに瞳を曇らせたブランディアは立ち上がって娘の傍らに歩み寄ると、優しくその肩に手を置いた。

「戦時下とはいえ、兵等は送り出した故一段落ついた。

 今日は朝議の後大侯様にお時間を頂き、公子様の件を具申申し上げるつもりだ。

 その様に気に病んでいては体に障ろう。

 父を信じ、そなたはそなたのすべき事を成せばよい」

「お父様…」

ニエノールは父の言葉にその目を見る事が出来ず、視線を冷たい石の床に落とした。

 

 

納戸に潜んで外の様子を伺っていたマブルングは足音に耳を欹てると、薄く扉を開いて、にやりと口元を歪めた。

 

 

官邸に父を見送った後、もしやマブルングがいはしまいかと何度も確かめた納戸に、今一度足を向けたニエノールは、その扉の前で凍り付いた様に立ち竦んだ。

 

扉の前には薄笑いを浮かべたマブルングが両手を組んで立っていた。

 

しかし底光りのする冷たい目でニエノールを見据えるその男は、既にニエノールの知る、マブルングという名の家扶では、なかった。

「お前…」

たじろいだニエノールに向かって一歩踏み出した男に気圧され、ニエノールは一歩後自さった。

「どうした?続きを言ってみろよ」

そう言った男の声は、ニエノールに退く足を止めさせた。

「今まで何をしていたの」

きっ、と男を見上げたニエノールは努めて強い口調でそう言った。

「準備に少しばかり手間取ってな」

「あの娘の事なら…」

「娘の事なんぞもうどうでもいいんだよ」

男は薄ら笑いを浮かべたまま言った。

「どのみちもう手遅れだ、姫さんよ。

 あんたの恋焦がれる公子様は本日ご婚約だ」

その言葉にニエノールの顔からさっと血の気が引いた。

「あんた達が蔑んで見下してる下賤の者ってのはな、あんたら高貴な方々の噂話ってのが大好きなんだよ」

「何を…」

顔色を失くし言い淀むニエノールに、その男は勝ち誇った様な目を向けた。

「お前らお高くとまった連中なんぞより、下々のもんの方が、余程価値のある真実ってのを掴んでるってこったよ」

ニエノールはきつく掌を握り締め、昂然と顔を上げた。

「それが真実だとしても、最早その様な真実、私には関係のない事です」

勝ち誇っていたほずの男の眉根が訝し気に寄せられた。

「例えボロミア様が誰とご婚約なさろうと、私は私のすべき事をするだけです」

ニエノールの言葉に男の口元から薄笑いが消えた。

「私のすべき事はお慕いする気持ちがボロミア様のお心に届くまで、ただ誠を尽くす事だけです」

「成程」

と男は感情のない冷え冷えとした声で呟いた。

「分かったらさっさと…」

「残念だが姫さんよ。

 あんたがそれ程までにお慕いするってえ公子様には、我等が主人もご執心でな」

「主人?」

「我等が主は唯一人。

 影深き東の地より常に我等を見ておられる」

「まさか…」

「我等が主は」

男は傲然と言い放った。

「白き公子の命をご所望だ!」

 

ニエノールは大きく見開かれた瞳で、そこに立つ影の如き男を愕然と見詰めた。

 

 

重臣達に今日の婚約を気取られてその儀を阻まれぬ様、平服で白の塔に現れたボロミアをデネソールの侍従は迎えて言った。

「大侯様はすぐにおいでになられるとの仰せにてございます。

お召し物をご用意致しておりますので、まずは控えの間にてお召替え下さいませ」

略式とはいえ婚約の儀であり、その儀に際しては白き衣を身に帯び、婚約を交わす二人が並び立ち、白の木の前で末の誓を立てるのが習わしである。

 

「重臣達には気付かれておらぬだろうか?」

そう尋ねるボロミアに、父の侍従は

「その点はご心配に及びません。

 大侯様は先程、白の塔に上る故、戻るまで朝議を控えている様にと、官邸に使いをお出しになられました」

と答えた。

「では父上は上に?」

「はい、明け方から」

侍従の言葉に、ボロミアは微かな不安を含んだ瞳を、父が居るであろう最上階へと向けた。

 

 

デネソールはゆっくり椅子から立ち上がると、真っ直ぐ“それ”に近づいた。

今回の敵の出撃と、白き乙女に纏わり付く不吉な影との間にどの様な繋がりがあるのか、それ読めねば、その災いの影を断つ事は出来ぬ。

妻亡き後誰よりも愛した嫡男に、自らの胸に刻み込まれた同じ痛みを負わせる事を、デネソールは、自らによしとする事は出来なかった。

 

妻の居室の扉を開けた時寝台の上に見た、妻・フィンドゥイラスの作り物めいた程の白い頬。

二度と再び開かれる事のない、暖かな南の海の色の瞳。

 

妻の細く白い手に護られていたのは予の方であったのだ

失わせてはならぬ、ボロミアには

愛で護る白き手を

 

デネソールは“その石”を覆う、厚い布に手を掛けた。

 

 

母の形見の花嫁衣裳に身を包んだニーニエルは、女官達に見送られ、女官長に伴われてエクセリオンの白き塔へと向かって官舎を後にした。

その白き塔を仰ぎ見る噴水広場の中に立つ、白の木の前で足を止めた女官長は、ニーニエルの衣裳を整え、美しく結った銀の髪を優しく撫でて言った。

「こうしてここで見ると、お前は本当に白の木の精の様だわ」

その言葉に頬を染めたニーニエルに女官長は微笑み掛けた。

「いつかお前がボロミア様と手を携えて、この木の前にで連理の誓を立てる時、この枯れた木にも花が咲くかも知れないわ」

「女官長様…」

女官長はニーニエルの白い額に温かい口付けを贈って言った。

「さあ、私はボロミア様にお取次ぎをお願いしてくるから、お前は少しここでお待ちなさい。

 誓いの言葉は覚えたわね?」

「はい、女官長様」

ニーニエルは答え、白の塔の中に消える女官長の足音に耳を澄ませた。

 

5日ぶりでボロミアに会える。

ニーニエルは高鳴る胸に、そっと細い指を重ねた。

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