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宿業 3

 

官邸で執務室の前に立ったファラミアは、扉が開く前にひとつ大きく息を吸った。

 

 

ゴンドールの執政、白き都の大侯デネソールは、ファラミアにとっては幼い頃より父としては遠い存在であった。

それを寂しいとも悲しいとも思った記憶は、ファラミアには、ない。

父や、記憶も定かではない亡き母から得る事のなかった愛情を、寂しいとか悲しいとか感じるより前、常にファラミアの記憶の最初にあったのは、与えられる事のなかった愛情ではなく、より大きく強く、ボロミアが弟へと注いだ愛情の記憶であり、ファラミアが得る愛の全てはボロミアから与えられるものだった。

 

幼いファラミアにとってボロミアは世界の全てであり、世界の全てがボロミアだった。

 

それ故ファラミアはデネソールに父としての情愛を求めた事はなかった。

周囲の者がどう思おうと、ファラミアにとってデネソールは、父である以前に執政の大侯であり、ゴンドールを統べ治める為政者であった。

 

そのデネソールに帰投の挨拶をする事は、ファラミアの真の目的ではない。

ファラミアは審議会にボロミアと同席する為、議会出席の承認を大侯から得ねばならないのだ。

 

本来ゴンドールの正規軍にすら属さない遊軍のいち大将であるファラミアには、文官が招集する議会への出席権はない。

それでも尚出席権を得ようとすれば何等かの策を講じるより他に手はなく、実際ファラミアはそうしたのだ。

しかしそれは、講じたファラミア自身ですら危うい賭けを孕んだ詭弁と認めぬ訳にはいかぬ策であり、その策を弄さねばならぬ相手は慧眼で知られる大侯デネソールなのである。

 

ファラミアは身の内に緊張が張り詰めるのを感じざるを得なかった。

 

「お入り下さい」

そう言う侍従の声と共に開いた執務室の扉の奥、執務机の向こうに凝る黒き巨鳥を思わせる影に向かい、ファラミアは表情を引き締めた。

 

「只今辺ヘンネス・アンヌーンより帰投致しました」

ファラミアの声に羊皮紙から目を上げぬまま、執務机の向こうからデネソールは息子に向かって言った。

「今回の定例報告にはそなた自ら出向く程の特記事項は何もあるまい」

ファラミアは胃の辺りがきゅうっと縮まる様に感じたが、それでも事前に用意しておいた言い訳を口にすべく口を開きかけた。

だがファラミアがそれを口にするより先に

「他に用がなければそれを持って下がれ」

と、羊皮紙に羽根ペンを走らせながらデネソールはそう言った。

ここで引き下がる訳にはいかぬファラミアが、執務机に向かって歩を踏み出した刹那、デネソールの侍従が1枚の羊皮紙をファラミアに差し出した。

受け取った羊皮紙に目を落としたファラミアは、はっと顔を上げ、巻いた羊皮紙に封をするデネソールに視線を走らせた。

きゅっと唇を噛み締め、押し殺した声で「失礼致します」と大侯に一礼すると、ファラミアはくるりと素早く踵を返した。

 

侍従が開けた扉の前に歩を進めたファラミアを呼び止める声に、ゆっくりと振り返ったファラミアを、父の射る様な視線が捕えた。

「兄を守れ」

腹に響く厳しい声がファラミアの耳朶を打った。

ごくり、と息を飲んだファラミアは、辛うじて

「元よりその覚悟でございます」

そう絞り出す様な声で答え、険しい青ざめた表情で執務室を後にした。

 

執務室から続く長い廻廊の途中、ファラミアはふと足を止め、手の中に握り締めたままの羊皮紙に目を遣った。

 

 予算審議会への、ファラミアの出席承認書

 審議会と同時期に日程調整された定例報告

 ボロミアの審議会出席への回答書に記されていた“執政家第1公子”の肩書き

 

ファラミアは手の中の出席承認書をきつく握り締めた。

 

 

石の国・ゴンドールを支える国政は三つの官、即ち行政を司る文官、国防を司る武官、そして法を司る法官から成っていた。

中でも法官は、文官・武官の上位に置かれ、法の下では文官も武官も平等とされた。

執政とは本来その法官の長を指し、執政の下で重臣首座と白の塔の総大将がそれぞれ文官と武官の長を務め、そしてその3官の長に王を戴くのが本来ゴンドールの国政のあるべき姿であった。

その様な国政の性質上、文官と武官は互いに独立した機関として相互不干渉を建前としており、互いの議会への出席権を有してはいなかった。

双方の議会への出席権を有するのは両官の上位に位置する法官の長たる執政のみである。

それ故ボロミアの副官であるグウィンドールでさえ、審議会への同席は許されないのであった。

そのボロミアからして、白の塔の総大将とはいえ武官である事に変わりなく、本来文官が招集する議会への出席権はない。

それはつまり、重臣達が議場に引きずり出して嬲りものにしようとしているのが、白の塔の総大将であるボロミアではない、という事を示している。

彼等が嬲りものにしようとしているのは、次の執政を継ぐべき存在である執政家の嫡男であるボロミアなのだ。

 

ヘンネス・アンヌーンの岩屋で、ミナス・ティリスから部下が持ち帰った文書の写しに目を通した時、ファラミアはそれに気付いた。

審議会出欠の回答書は公文書として発行されていた。

ゴンドールの公式文書では責任の所在を明確にする為、署名には必ず権能を示す肩書きを附す。

通常ボロミアが公式文書に肩書きとして記すのは“総大将”の呼称で知られる“ゴンドール軍総司令”である。

ボロミアにとって執政家の公子である事は肩書きなどでは有り得ない。

 

執政という名称それ自体は確かに職権を示す言葉に違いはないが、ゴンドールの国人が執政職を担うフーリンの家の者を、フーリン家という家名ではなく、敢えて執政家と呼ぶのは王家が王権を世襲するのと同様、執政職もまたフーリン家の世襲である故である。

そしてそれは、王が生まれる前から王である様に、執政もまた執政となるべく定められた責務を負って生まれ来る存在である事を示す。

 

ゴンドールの国民に執政家の公子である事を職権に附する肩書きだと思う者など唯の一人もおらぬであろうと、ファラミアは思う。

事実ファラミア自身その回答書を目にするまでその様な考えが脳裏を掠めた事すらなかった。

それがボロミアを審議会に引きずり出す為に重臣達が弄した詭弁である事は明らかである。

しかし詭弁ではあっても一度持ち出されてしまえば、切り捨てる事が容易ではない詭弁なのである。

どの様な理由であろうとボロミアが議会への出席を拒否すれば重臣達はこう言うであろう。

“それではボロミア様は、御自身が執政となられるまでは文官は捨て置くと仰せられますか”と。

議会に巣食う古狸どもは、ボロミアを審議会に引きずり出す為だけに、ゴンドールの国人の誰もが思いもよらぬあざとい策を画したのだ。

ファラミアは重臣達の意図をその文書の中に読み取った時、歯噛みする思いで回答書を握り締めた。

しかしそこでファラミアは重臣達の意図を逆手に取るひとつの考えに思い至った。

重臣達が執政家の公子である事を肩書きとして利用するのであれば、執政家の公子は何もボロミア一人ではない。

そして文書の署名に附されてた肩書きは“執政家第1公子”なのだ。

なればファラミアとて執政を継ぐ第2継承権を有する公子である。

その継承権を主張すれば議会への出席は可能と言える。

議会に引きずり出されるボロミアを守る最も有効な手立てはボロミアと共に議会の場に同席する事だ。

例え長きに渡り舌先三寸で国の政を操ってきた重臣達が相手であろうと、舌鋒で人後に落ちるファラミアではない。

議会の場に同席さえ出来れば、ボロミアに対する重臣達の弁難を未然に捻り潰す事など造作もない。

寧ろより厄介な関門は、大侯に審議会出席の承認を得る事の方である。

それはファラミアにとって議会の古狸どもを相手取るより、遥かに頭の痛い問題であった。

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