がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
初恋 5
瞼のない目は白き都にその目を向けたまま思った。
あの儚い白い光を守護する二つの光のうちの一つ、より強く白い光を守る蒼き光は遠く南の地に去っている。
自軍の兵となるものは、五軍の戦いで訓練されたその大半を失い、残るのものは未だ兵としては役に立たぬ屑ばかりだ。
しかし今必要なのは捨て駒となる雑兵でよい。
ならば頭数さえ揃っていれば屑でも構わぬ。
今が好機だ。
瞼のない目はその虹彩を細めた。
“女官とは言っても下働きの娘の名前など覚えていなくて当然なのだ”
そうは思ってもその娘は、ニエノールが自分を「そこの者」と呼ぶ度、「はい」と答える声が尖った。
城中に上がって3年になるがこの高官の派手やかな姫は、今だに自分の名前どころか顔も覚えていないだろう。
泥の跳ねた靴から汚れを落とす時や床に腕飾りを落とした時、偶々近くにいた場合だけ「そこの者」と呼ばれる事実ひとつ取ってみてもそれは明らかだ。
この姫にとっては靴の汚れを落とし、床に落ちた腕飾りを拾う為だけにいる自分は人でさえないのだろう。
だからこの娘はニエノールが嫌いだった。
そのニエノールが執政家の長子・ボロミアの許嫁になるのでは、という噂を耳にした時にはそれ故この娘は酷く気分が悪かった。
下働きの身で執政家の公子様なぞ、お顔も拝んだ事などないが、“ボロミア様”が大層お美しく、その上気さくな御方だと評判なのは知っていた。
時には下層階にまでお忍びで来られると聞いた事もある。
その様な公子様とあの姫が婚約など、ボロミアを知らぬ娘ではあったが、それでも何とはなし気に食わなかった。
しかし噂は所詮噂でしかなかった。
評判の公子様はあろう事か、重臣の姫ではなく身寄りのない女官見習いの娘を恋の相手に選んだというのだ。
下働きの娘は小さな鍵を宙に放り投げた。
“いい気味”
落ちてきた鍵を掴み取った娘の口元には意地の悪い笑みが浮かんでいた。
ボロミアとニーニエルの噂はあっという間に城中に広まった。
幼い頃から二人を知る下層の民達には拍手喝采を以て、そして高位にある者にとっては嫌悪と反感を以て。
デネソールの元には嫡男の「御乱行」を訴える高官が相次いだが、デネソールは高官達の訴えを全て退けた。
その上でデネソールは、彼の嫡男に城中のその喧騒が届かぬ様巧妙に手回しした。
斯くて嫡男のその恋は城中の喧騒から遠く緑の園庭の中で深く静かに育まれていった。
その月の半ば過ぎ、腕から包帯の取れたボロミアがいつもの様に園庭を訪れると、その足音に振り向いたニーニエルの、いつもにも増して明るく輝く笑顔が翠の瞳の公子を出迎えた。
迷いなくボロミアに駆け寄る少女に手を差し伸べた公子は、ぐらりと体勢を崩したその華奢な体を柔らかく抱き留めた。
「どうした?ニーニエル」
顔を上げた少女は見えぬ青い瞳にキラキラと日の光を映して声を弾ませた。
「芽が」
「めが?」
「花の芽が出ました、ボロミア様!」
「ニーニエル!」
手を取り合って前栽に膝をついた二人の前には小さな緑の新芽が萌出ていた。
「フィンドゥイラス様のお花は生きていました、ボロミア様。
またこうして芽を出しましたもの」
そっとその双葉に触れたボロミアは、緑の葉をじっと見詰めた後静かな声で言った。
「ニーニエル」
ボロミアは自らが見詰める若い葉と同じ色の瞳をニーニエルに向けると、見えない公子の姿を映した少女の水の色の瞳を覗き込んでその手を取った。
「確かにこの花の苗をドル・アムロスからお持ちになったのは母上だが、この白の都で再びこの花を生き返らせたのはそなただ。
それ故この花に、そなたが新しく名を付けて欲しい」
「ボロミア様…」
綺麗に丸く見開かれたニーニエルの瞳に、真っ直ぐ彼女を見詰めるボロミアの姿が映っていた。
「そなたが名を付けたこの花を、私はこれからもそなたと共に守り育ててゆきたい」
青い瞳を見開いたまま言葉を失っている少女を、ボロミアは自由が利く様になった両の腕で優しくその胸に抱き締めた。
「ニーニエル、どうかこれから先の時を私と共に生きて欲しい」
ボロミアのその言葉がニーニエルの中で形になった時、漸く呪縛が解けた様に、ニーニエルの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
ボロミアの胸に顔を埋めたニーニエルの消え入りそうな声が囁いた。
「私が…、ボロミア様をお慕いしても…、許されるのでしょうか…」
それを耳にした途端、ボロミアの表情がぱあっと日が差す様に明るく輝いた。
「もちろんだ」
ニーニエルを抱き締める腕に力を込めたボロミアは一度その身をニーニエルから離すと、少女の頬を伝う涙をその長い美しい指で拭い、少女の白い額にそっと優しく口付けた。
「そなたを愛している、ニーニエル」
萌え出新芽の前で跪き、手を取り合う公子と彼の愛する少女の姿は、煌めく陽光に照らし出され、神聖な誓の儀式の絵の様であった。
その日の午後、公子は大候に伺いを立て、官邸の執務室に父・デネソールをを訪ねた。
ボロミアが扉を開けた時、父は珍しく執務机に向かっておらず、西の窓辺に立ち窓外を眺め遣っていた。
「父上」
嫡男の声に振り返った父の面には厳しい表情が浮かんでいた。
嫡男もまたきゅっと口を結んで緊張した面持ちで父を見上げた。
「本日は父上にお願いがあって参りました」
大候は窓外に視線を戻して言った。
「申してみよ」
「父上、どうか妻を得るお許しを頂きたく存じます」
大候は再び彼の嫡男に視線を戻すと、その翠の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「そなたはそなたの望む娘を娶ればよい。
予に異存はない」
大候のその言葉に驚いたのは寧ろ嫡男の方であった。
「父上…」
「予に異存はないが、重臣達は諾とは言うまいぞ」
ボロミアは表情を引き締め、しっかりと頷いた。
「承知しております」
「なれば重臣達に諾と言わせるはそなたの任だ。
それすら出来ぬとあらばその先は望めぬぞ」
「確と心得ております、父上」
父は息子の、凛と顔を上げた真っ直ぐな瞳に微かに口元を緩めた。
「ではまずは婚約だけに留め置くが良かろう」
「父上!」
ボロミアの頬にぱっと朱が差し、その瞳が明るく輝いた。
「法に則り双方15になれば、廷臣の承認を得ずとも、予の許しに於いて婚約を宣する事は出来よう程に。
それから先はそなたの心ひとつだがな」
ボロミアは父に駆け寄り、その大きな手を握り締めた。
「5日後にはニーニエルも15です。
父上にお許しを頂いた上は、必ずや私自身の力で重臣達を説き伏せてみせます」
「古狸どもは手強いぞ」
ボロミアはにっこりと微笑えんだ。
「父上が母上を娶られた時の話を散々乳母から聞き及んでおりますれば、どうという事は御座いません」
息子のこの言葉に、流石のデネソールが僅かに苦笑を漏らした。
「こやつ、言いおる」
父の手を握る悪びれぬ息子の手に、父は自らのもう一方の手を重ねると
「5日後その娘を白の塔に連れて参れ。
略式にはなろうが、婚約の儀を取り仕切ろう」
そう言って息子の手を軽く叩いた。
嫡男はその美しい面に、零れんばかりに輝く笑顔を浮かべて父の顔を見上げた。
西の窓からは遥か2000フィート先、日の光に揺れる萌出緑の若葉が微かに煌めいて見えた。
茜の光彩が西の空を彩る頃、ニーニエルは園庭の中に立ち、その入口に聞こえ来るはずの足音に耳を欹てていた。
夕刻を告げる鐘の音が消えてゆくのを聞きながら、ニーニエルの面に不安気な表情が浮かんだその時、園庭に駆け込んで来るボロミアの足音が響いた。
ニーニエルが足音のした方に体の向きを変えた瞬間、その華奢な体がふわりと抱き上げられた。
「父上のお許しを頂いた!」
「ボロミア様!」
ニーニエルの顔から不安げな表情が消え、頬に薔薇色の輝きが差した。
抱え上げていたニーニエルを降ろしたボロミアは少女の肩に手を置き、キラキラと光る少女の瑠璃の瞳を覗き込んだ。
「5日後、そなたが15になったら父上が婚約の義を取り仕切って下さる。
今回は略式となるが、重臣達の承認を得れば正式に許嫁だ。
重臣達は必ずや私が説き伏せてみせる」
ボロミアの頬が上気し、翡翠の瞳が輝いた。
一心に公子の言葉に耳を傾けていたニーニエルの青い瞳が潤み、胸の前で重ねられた白い手が強く握り締められた。
ニーニエルが口を開こうとした瞬間、少女の震える唇に、そっと優しく公子の唇が触れた。
目を丸くした少女から唇を離した公子は頬を染め、はにかみながら言った。
「明日からまた教練が始まる故、5日後まで会えぬ。
それ故…その…」
ニーニエルの固く握り締められていた手から力が抜け、花の綻ぶ様な笑顔が零れた。
そうっとボロミアの胸に顔を埋めたニーニエルは
「次にお目に掛かるまでに花の名前を考えます」
はにかんだ声でそう言った。
「ニーニエル」
頭上から呼び掛けられた自らの名に、ニーニエルは顔を上げた。
「一度枯れて生き返った花ですから、二度と枯れる事なく、これからもずっとボロミア様とご一緒に育てていける様な名前を考えます」
自分を見上げるニーニエルの輝く笑顔をその翡翠色の瞳に映したボロミアは、力一杯少女を抱き締めた。
「今回は時がなく無理だが、正式な婚約の儀にはドル・アムロスで預かりの身となっている弟を呼ぼう。
ぜひともそなたに会わせたい、私の大切な弟なのだ」
抱き締めていた腕の力を緩めたボロミアに、ニーニエルがにっこりと微笑んだ。
「私もお会いしとうございます、ボロミア様。
弟君にお目に掛かるのが楽しみです」
「ニーニエル…」
翠の瞳の公子は、少女の薔薇色に輝く滑らかな頬を形の良い美しい手で優しく包み込んだ。
少女の瞼が緩やかに閉じられ、長い睫毛がその白い肌に麗しい影を象った。
ボロミアは愛おしむ様にその瞼に柔らかく口付け、少女の頬を包み込んでいた掌を優しく少女の細い顎に滑らせた。
そして。
少女の淡い桜色の唇に、公子の唇が慈しむ様にそっと柔らかく重ねられた。
その瞬間。
わあっ、と歓声が上がり、園庭の生垣の陰から近衛の兵や女官等が現れると、一斉に公子と少女の周りを取り囲んだ。
驚いて目を瞠る公子にトゥーリンが駆け寄り、目を潤ませて公子の肩を力強く掴んだ。
「トゥーリン」
「やりましたな、若!」
「べレグ」
トゥーリンの隣にやって来たべレグも何時になく熱の籠った口調で言った。
「若が大侯様に婚約のお許しを頂いたとお聞きして…」
べレグの言葉の後半は兵達が口々に叫ぶ祝いの声でかき消された。
「申し訳ありません、皆若にお祝いを申し上げると言って聞かず」
グウィンドールが兵達の後ろから苦笑しながら顔を覗かせた。
「グウィンドールか」
「グウィンドールのせいでは御座いませんぞ。
口を滑らせたのは儂で御座いますからなぁ」
グウィンドールの後ろからは、トゥランバールが豪快に笑いながら現れた。
「大将もか…」
兵達を見回して声を詰まらせたボロミアを、口々に祝いの言葉を叫びながら、兵達が担ぎ上げた。
ニーニエルの周りには女官達が集まり、皆代る々その小柄な少女を抱き締めた。
最後にニーニエルを抱き締めた女官長は「良かったわねぇ、ニーニエル、本当に良かった」と、涙を浮かべて言った。
「女官長様…」
亡き母を娘の様に可愛がっていた女官長の腕の中で、祝福の声に包まれたニーニエルの頬にも、温かな涙が伝った。
園庭のその様子を、青ざめた表情で公邸の外回廊から微動だにせず見詰めていたニエノールは、きつく唇を噛み締め、爪の跡が付く程固く両手を握り締めると、ドレスの裾を翻してくるりと踵を返した。