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三点の力学(後編) 6

 

「…メル殿、エオメル殿」

“良い声がする。

 私の名を呼ぶ声。

 何処かで聞いた声。

 どこかで…“

上掛けの中でぱちりと目を覚ましたエオメルは、覗き込む翆玉色の瞳と目が合った途端

「うわあああああああ…!」

と叫んで跳ね起きた。

「ボ…ボ…ボ…ボロミア殿っ!?

 ど…ど…どうしてボロミア殿がここにっ!?」

エオメルのその狼狽ぶりに幾分困惑気味の表情で

「ああ…いや、エオメル殿がなかなか起きて来られぬ故お訪ねしたのだが…」

と、翆玉色の瞳の人は言い

「訪いに返答を得られぬのが気に掛かり、失礼ながら無断でお邪魔致した。

 しかしそのご様子であれば大事ありませぬな。

 安堵致しました」

そう、にこりと笑った。

その柔らかな笑顔にぼうっと見惚れたエオメルの脳裏に、昨夜の記憶が徐々に蘇り始めた。

 

 

ボロミアが執政の許に去った後、城付の侍従に依って供された白パンと葡萄酒に手を付ける気にもなれず、エオメルはじりじりとした思いでボロミアが戻るのを待っていた。

エオメル自身は確かに3日のうちにミナス・ティリスの大門を潜りはした。

だがミナス・ティリスの近衛部隊が継嗣の要請に応えてくれるか否かはその事とは別問題であり、その点に於いてエオメルに出来る事は何もないのである。

そしてゴンドールが動いてくれねば、エオメルが白き都までの行程を3日で踏破した意義は失われるのだ。

ただじっと待つ事に耐えられなくなったエオメルが椅子から立ち上がった時、扉の外から待ち侘びた人の声が響いた。

「宜しいか?エオメル殿」

「はいっ!」

返事と共に戸口に駆け寄ったエオメルが扉を開いたその先に、眩しい笑顔を湛えた白の塔の総大将が立っていた。

「明後日払暁を以って角笛城へ出立致します」

ボロミアのその言葉を耳にした途端エオメルは膝から力が抜けるを感じ、ぐらりと体が傾いだ。

「エオメル殿!」

咄嗟に差し伸ばされたボロミアの腕に縋ったエオメルは、その時初めて己の背丈がボロミアを追い越している事に気が付いた。

僅かに視線を下げた先で捉えた翡翠の瞳に吸い込まれそうになったエオメルが、慌てて体勢を立て直そうと指先に力を込めると、今度は長衣の衣越しに引き締まった筋肉の存在を感じ、覚えのない熱が背筋を駆け上る。

「だ…大丈夫です!少々よろけただけで…」

そう言いつつも、エオメルは掴んだボロミアの腕から手が離せない。

エオメルのその様子にボロミアは

「やはり強行軍で疲れておられるのでしょう。

 この都に2,3日逗留され、疲れを癒されるが宜しかろう」

と気遣うが、エオメルは

「いいえ!」

と激しく頭を振り、空いている方の手で、がっとボロミアの肩を掴んで言った。

「私もボロミア殿と参ります!」

その勢いに圧され僅かにたじろいだボロミアの表情に、エオメルは一瞬怯みそうになるが、口を衝いて出てしまった言葉とはいえ、口に出してしまった以上今更後には退く訳にはいかない。

「わ…私は、東谷で我が身を案じて待つ朋輩等に、一刻も早く無事な姿を見せてやりたいのです」

エオメルのその言葉を聞くボロミアの顔にはみるみる眩しい笑みが広がっていく。

「エオメル殿」

肩を掴むエオメルの手に自らの手を重ね、ボロミアは言った。

「お気持ちは充分お察しいたします。

 然れば共に参りましょう」

エオメルはその笑顔の眩しさと、重ねた手から伝わる温もりに、胸の鼓動が跳ね上がり頭に血が上るのを感じていた。

 

「そうとなればまずは湯に浸かり、今宵はゆっくり休まれよ」

そう言うボロミアの言に従い湯に浸かったエオメルは、さっぱりとした心持で清潔な夜具に潜り込んだ…はずだった。

 

だが実際には湯の熱さとは異なる熱が体内に蟠る様な寝苦しさを感じ、寝付かれぬまま夜具の中で何度も寝返りを打っていた。

 

疲れを癒すという香草で香りづけされた湯は、その効能とは別のところでエオメルの鼻孔を刺激した。

香草の香りで満ちた湯殿に足を踏み入れた瞬間エオメルは、“あっ”と足を止めたのだ。

初めて出会った頃よりボロミアは、いつも仄かに良い香りを身に纏っていた。

それはこの香りであったかと気付いたエオメルは、夜具の中に入ってからも、その残り香に胸が高鳴るのを禁じ得なかったのだ。

 

「我が都の療病院には、大層薬草に詳しい、良い薬師が在るのです」

 

そう微かに照れを含んだ声で言って微笑んだ、ひどく甘やかなボロミアの表情がその残り香と共に瞼の裏に蘇り、胸の高鳴りは更に増す。

その度熾の火の様な体内の熱が煽られ、不必要に体が火照った。

体内のその熱を持て余したエオメルは、堪らず夜具を跳ね除けると寝台の上に起き上り、ばさりと夜着を脱ぎ捨てた。

夜気の冷たさが心地よく、エオメルは一つ大きく息を吐いた。

 

幼い頃より年上の従兄であるローハンの継嗣を敬愛してきたエオメルにとって、男子の身でありながら同じ男子に懸想する者は、決して嫌悪や偏見の対象ではなかった。

然りとてエオメル自身にその指向があるかと問われれば、答えは否である、とエオメルは思っている。

確かにエオメルにも初陣間もない頃、遠征地で朋輩と事に及んだ経験がないではないが、それはあくまでも戦場での代償行為に過ぎず、別の遠征地などでは、行為に及んだその同じ兵等と娼館に繰り出したりもしているのである。

本来であれば王家の血筋に連なるエオメルには人肌の熱さを求める夜には寝所に伽を上げる事も適うのだが、共に戦場に立ち背を預け合う朋輩等には、その様に伽を望むべくもない事をエオメルは充分承知している。

夜伽にそれ程熱心ではないエオメルにしてみれば「娼館に通うにも金が掛かるのだ」とこぼす友等と行を共にしたいというのがその時の本音だったのだが、それでも朋輩等は見目良き女官を揃えているという、夜伽と枕を共に出来るエオメルを羨んだ。

月夜に朋輩等と夜営地の火を囲んだ折などには「お前の周りは美人ばかり集まるからな」と笑いながら小突かれたりもした。

女官の美醜などに然したる興味もないエオメルが顔を顰めると

「何も夜伽のだけの事を言っているのではないぞ」

と、彼等は美人という中にローハンの継嗣やエオメルの妹の名も挙げた。

しかしそれを聞けばエオメルは尚更首を傾げざるを得ない。

確かにセオドレドは見場だけならば美しくはあるがあの気性であり、エオウィンに至っては妹である。

特にエオウィンは、かけがえなく大切で可愛い妹ではあるが、エオメルの目には幼い頃から変わらぬ手の焼けるじゃじゃ馬娘であり“美しい姫”と言われてもぴんとこない。

しかし最後に彼等の口から美人のうちにボロミアの名が挙がった時、エオメルの心臓は跳ね上がった。

「俺にその趣味はないが、それでもボロミア殿の笑顔を拝すると、妙にこう気持ちが昂って、殿下のお気持ちが分からぬでもない気がするのだ」

エオメルはそう言う友の言葉に、朋輩等がうんうんと頷くのを複雑な思いで見遣ったのだった。

 

その時皆と一緒に屈託無く頷く事が出来なかった気持ちが不意に蘇ったエオメルの頬は、訳の分からぬ熱で熱くなる。

“どうしてこうなるのだ…”

何とも情けない心持ちになってエオメルは頭を抱えた。

エオメルにとってボロミアは、幼い頃から誉れ高き二つ名を冠される、憧れの騎士なのである。

“その御方に邪念を抱くなど…あり得ぬっ。

 あり得ぬ、あり得ぬ!あり得ぬ!!“

そう自分に言い聞かせるそばから脳裏には花の綻ぶ様なボロミアの笑顔が蘇る。

「ああっ、もうっ!」

豪奢な黄金色の髪をぐしゃぐしゃと掻き回したエオメルは、ばさりと上掛けを頭から被り、ぎゅっと瞼を閉じて夜具の中に包まった。

脳裏に浮かぶ花の顔を追い出すべく、頭の中が白い羊毛で埋め尽くされるまで、エオメルは唯只管羊の数を数え続けた。

 

 

陽光が満ちる白き都の客間の中で、寝台の上に胡坐を掻いたエオメルは思い出して呆然とした。

“この大事の時に…一体何をしているのだ…私は…”

しかしエオメルのその様な思いを知る由もないボロミアは

「やはり疲れておられるのでしょう。

 無理をされず昼餉まで今暫く休まれよ」

と微笑む。

「昼餉?昼餉とは…既にその様な刻限なのですか?!」

ボロミアの言葉に寧ろ慌てたエオメルは、言うなり寝台から飛び降りる。

すると図らずもボロミアと向かい合う形となり、僅かに視線を上げたボロミアとまともに目が合ってしまう。

翆玉の瞳から視線を逸らす事が出来ず、思わずごくりと息を飲んだエオメルの耳朶をボロミアの天鵞絨の声が擽る。

「エオメル殿」

「は…はいっ!」

「エオメル殿は…、休まれる際、夜着は着られぬのですか?」

「は?」

言われて初めてエオメルは、自分が下穿き1枚だけの姿でボロミアの前に突っ立っている事に気付く。

「うわ!」

寝台の上に舞い戻ったエオメルは、大慌てで上掛けを素肌に巻きつける。

唖然とその様子を見守っていたボロミアは、上掛けを巻きつけた茹蛸の様になっているエオメルの表情を見た途端くしゃりと破顔し、部屋に満ちる陽光すら翳む様な目の覚める笑顔で、朗らかな笑い声を立てた。

「男同士で何もそう慌てずとも。

 それだけお元気であれば、明日からの騎行も案じる事はありますまい。

 じき昼餉の支度も調いましょう程に、ぜひ食堂に参られよ。

 昼餉を共にしましょう」

ボロミアの笑顔に呆けていたエオメルは、笑顔の残光を置いて部屋を出る“光の君”を見送ると、扉が閉まったと同時に大きく息を吐き、ぱたりと寝台の上に突っ伏した。

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