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三点の力学(後編) 9

 

「宴席、でございますか?」

グリマは顔を歪めた。

「そなたに同席せよとは言わぬがな」

快活な笑顔で言う継嗣の表情からは真意が読めない。

「慣れぬ軍務でそなたも何かと疲れておろう」

継嗣の言葉に蛇の舌と呼ばれる男の顔はますます歪む。

グリマはこの掴みどころのない世継ぎの君が、どうにも苦手だった。

 

迷った挙句、グリマは宴席を辞退した。

思慮に欠ける単細胞ども相手であれば自ら目配りせずとも事は足りるだとう、というのがグリマの判断だった。

 

宴が始まってすぐ、散々安酒を飲ませて酔い潰した巻毛の少年を部屋の隅に転がしたロヒアリム達は、セオドレドを中心に卓を囲んで額を寄せ合った。

「見張りに付けている兵に依れば、蛇の息子めは我等が居らぬのを良いことに、うろうろと城内を嗅ぎ回っておるとの事」

「何を嗅ぎ回っておるか知らぬが、アイゼンガルドに我等の動きを知らせようとの魂胆が透けて見えておるわ」

「しかし解せぬのは」

と、将の一人が議論を制して言う。

「どの様にして魔法使いと繋ぎをつけておるのかという点だ」

「あの少年を使いに出すと踏んでおったのだが、その様子は見えぬ」

「とは言え、我が兵団にはグリマ如きに与して手先になる様な者はおらぬ」

「無論だ!しかしそれでは…」

将等がそう互いの顔を見合わせた時

「何れにせよ、毒蛇めがこの城内を這いずり回っておる事には相違ない」

と、それまで黙って将兵達の話を聞いていた継嗣が口を開いた。

「蛇めが通じておるのは魔法使いだ。

 いくら私が奸佞だと申したところで、公には未だ奴は西方より遣わされた賢者でありイスタリの長だ。

 西方より賜った恩恵に浴しておらぬとは言えぬであろう。

 西方の血を濃く継ぐ者の中には我等唯人には及びもつかぬ遥か遠方まで見通す眼を持つ者もあると聞く故、妖術使いめもその様な眼を持っておるのやもしれぬ。

 然様でなくとも、魔法使いが何某かの視る術を心得ておったとて不思議はなかろう。

 仮に妖術使いが蛇めの目を通して我等の動きを視ているのであれば、使いを送るまでもない事だ」

継嗣の言葉に将達の表情が硬くなる。

「なれば尚の事」

セオドレドは口の端に人の悪い笑みを上らせる。

「蛇めの動きを封じねばなるまいな」

 

「お怪我を?」

早朝から、世継ぎの居室に割り当てられた角笛城の一室に呼び出された青白い顔の男は、添木を当てぐるぐると布を巻きつけられたセオドレドの長い脚をちらりと胡散臭気に見遣ってそう言った。

「そうだ」

寝台の頭板に背を預けて身を起こしたセオドレドは明快に答える。

「宴席で羽目を外し、泥酔して階段から転げ落ちた」

ロヒアリムと言えば酒豪揃いで知られているが、その中でも特にセオドレドは、とにかく滅法酒に強い。

もかかわらず、けろりとした顔で平然とそう言い放つセオドレドは

「昨夜知らせるつもりであったのだが、その方が居室におらなんだのでな」

と事も無げに笑う。

グリマは世継ぎの端正な横顔に内心苦々しい思いで舌打ちした。

 

 

宴で城内の警備が手薄になるのはグリマにとって願ってもない好機だった。

西方の大いなる驚異を理解も出来ぬロヒアリム如きに然したる知恵もあるまいが、一見うつけに見えるローハンの世継ぎが、実は中々に侮り難い人物である事を、父であるガルモドから聞かされていたグリマは、念の為宴席には手駒である巻毛の少年を配してきたのだ。

しかし城内の探索は思ったほどには進まず、居室に戻ったのは深夜を随分過ぎてからだったのである。

 

 

グリマの表情を横目で見ながら悠々と微笑むセオドレドは、当然昨夜のうちにグリマの居室に知らせなどやってはいない。

仔蛇の行動は見張りに付いていた兵からの報告で知ったまでの事である。

人を侮るきらいのあるこの男は、どうにも詰めが甘い。

手駒に使うには仕込みの足りぬ少年といい、その詰めの甘さを逆手に取って尻尾を掴めば、エドラスで王の御前に侍る親蛇もろとも一気に絡め取る事が出来るだろう。

 

「この状態では自由に動く事が出来ぬ故、そなたには常時この居室に控えてもらうぞ」

朗らかな笑顔でそう命じられたグリマは表情を強張らせた。

 

 

父・ガルモドは世継ぎの下に自分を付けてこの角笛城に送り込む為、老副官に毒まで盛ったのだ。

それは偏に角笛城の城内を息子に探らせ、いざ戦となった折にはサルマンの手勢が囲壁の外から城内に侵入する通路を確保させる為なのである。

「サルマン殿にその経路を知らせる必要はない」

父はそう言った。

その通路を見出しさえすれば、西方より遣わされた者の大いなる力を以て、それは魔法使いの知るところとなるのだ、と。

今回の戦で投入されるであろうオーク兵にしても、東の冥王より送り出されたオークなどではないと父は言った。

それはサルマン自身がその妖術に因って作り出した新種の種族なのだと父から聞かされた時、グリマは心底ぞっとした。

如何なる妖力を行使するにせよ、新たな血統の種族を作り出すなど、天の領域すら超えている。

西方の恩寵など何一つ受けぬ唯人であるローハンの民がどれ程足掻いたところで、その様な相手に敵おうはずもない。

されば何れは滅びる自由の民になどにはさっさと見切りをつけ、魔法使いの側に付く事こそ賢明であるのは火を見るよりも明らかである。

それ故グリマは、何としてでも早急に外部への通用口を見つけ出し、魔法使いの覚えをめでたくしておかねばならぬのだった。

 

 

「殿下」

これ見よがしに身を縮めたグリマが

「ご不自由な事とは存じますが、お身回りのお世話にこそお使い頂きます様、我が家中から小者を随行させました由にございますれば」

と言い差すのを制しセオドレドは言う。

「勿論“身の回りの世話”には使うとも。

寝台の上とは言え、多少は動かねば身体がなまるからな。

 だがどうもそなたは失念しておる様だが、私はこれでも軍団長なのでな。

 軍務の使いに“色小姓”を使う程うつけてはおらぬのだ」

にやりと口の端を持ち上げた継嗣の表情から目を逸らす様に顔を伏せたグリマは、血の上った青白い顔を毒々しい紫色に染めていた。

 

セオドレドの負傷もあり警備の引き継ぎに予定より1日余分に費やした後、1軍の後発隊は継嗣が到着した2日後に角笛城を出立した。

 

その2日間グリマは当初案じた程には世継ぎの居室に縛り付けられる事はなかった。

自室に控えろと命じた継嗣はその口で「だが今は下がってよいぞ。代わりに“小姓”をここに寄越せ」と言った。

「あの小者をでございますか?」

グリマは継嗣の言葉に眉を顰めた。

「どれ程役に立つかは、試してみなくば分かるまい」

いっそ清々しい程の笑顔で言われ、グリマはぐっと言葉に詰まる。

「承知致しました」

辛うじて答えたグリマは表情を消し継嗣の部屋を後にした。

 

グリマはその少年を厭うていた。

閨房の間諜だからではない。

房事を通じて策を弄する事自体に嫌悪感など持ってはいないが、それが少年である事が不快なのだ。

少女であれば特に厭うというものではないが、少年とは言え男子の身でありながら、同じ男子である継嗣の閨に忍び褥を共にするという少年の行為が、グリマには薄気味悪く感じられてならなかった。

その点に於いてセオドレドもまた、グリマにとっては厭うべき存在であった。

 

部屋に入って来た少年は継嗣の顔を見ると表情を強張らせて目を伏せた。

主人からは特段何も言われはしなかったが、昨夜泥酔して酔い潰れた事は既に継嗣から主人の耳に入っているかもしれない。

そう思うと伏せた顔からは血の気が引いた。

「こちらへ参れ」

継嗣の言葉にはっと顔を上げ、おずおずと寝台の傍らに歩を進めた少年の手を、突然継嗣がぐいっと引いた。

体勢を崩し継嗣の空いた方の腕に抱き留められた少年は、世継ぎの膝の上で慌てて顔を上げた。

「で…殿下…!」

膝の上に少年を抱えたまま上から見下ろしたセオドレドは

「安心いたせ。

 昨夜の事はグリマには申しておらぬ」

「あ…」と口籠る少年にぐっと顔を近付け

「故にそなたも主人には、我等が憂さ晴らしにどんちゃん騒ぎをしておったと申しておけばよい」

とセオドレドは微笑んだ。

「私としては、グリマなどにそなたの様な愛らしい少年がいたぶられるを見るのは忍びないのでな」

継嗣の艶めく笑顔に、少年は耳が熱くなるのを感じる。

「お…お気遣い頂き…感謝、致します…」

掠れ気味の声で漸くそれだけ答え目を逸らそうと俯きかけた少年は、顎を掴まれ継嗣の黒瑪瑙の様な瞳で覗き込まれると、耳から頬へと更に熱を上らせた。

「見ての通り私は足を負傷し自由に動けぬ。

 そなたが私の役に立ってくれれば、悪い様にはせぬがどうだ?」

言いながらセオドレドは少年の背に回した腕に力を籠め、その華奢な身体を更にぐっと抱き寄せる。

鼻が触れるほど近くで継嗣に見詰めれらた少年は、朱く上気した頬で継嗣を見詰め返し

「御心のままに」

と、潤んだ瞳をうっとりと閉じた。

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