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宿業 12

 

「そなたが自ら出向く程の内容ではないな」

報告書から顔を上げぬまま、デネソールは執務机の前に立つ次男にそう言った。

「承知致しております」

目を上げた父の視線を捉えたファラミアは動揺のない声で応じる。

強い意志で目を逸らさぬよう務めながら、ファラミアは父の前に正規軍復帰の申請書を差し出した。

「今回はご承認のお願いに参りました」

デネソールは申請書を一瞥すると、書類の山を目で示し

「置いておけ。

 後ほど目を通す」

と言い、再び報告書に視線を戻した。

執務室を後にしたファラミアは扉を閉めると大きく息を吐いたのだった。

 

翌日の午後、定例報告の評議中に近衛部隊が遠征先より凱旋したとの知らせが入った。

知らせを耳にしたファラミアは、評議が終わるの待ちかねる様に議場を飛び出したのだが、開いた扉の前ではそのファラミアを待ち受ける様に、デネソールの侍従が威儀を正していた。

「大侯閣下が執務室でお待ちでいらっしゃいます」

 

ファラミアが執務室に入った時、父の姿は珍しく机の前になかった。

山積みになっていた書類の山は全て片付けられており、父が立つ窓際に視線を移すと窓外から近衛部隊の凱旋を祝う微かなざわめきが聞こえていた。

「ボロミアから遠征の報告を受けた後、そなたの申請を検討致す。

 ヘンネス・アンヌーンへの出立は暫し待て」

 

傷病兵達でごった返す寮病院の中で辺りを見回していたファラミアが、名を呼ばれて振り向くと、そこには薬草の籠と亜麻布の束を手にした栗色の髪の薬師が立っていた。

「ニエノール殿」

「どなたかお探しでいらっしゃいますか?」

「兄上を…」

思わず口籠ったファラミアに

「まあ…」

とニエノールは、額の汗を拭いながら小首を傾げた。

「一足違いですかしら。

 今しがた白の塔の方へいらっしゃいましたわ」

 

結局その日、ボロミアに会えぬまま、ファラミアは床に就いた。

“明日にはボロミアに会えるのだから”

と、ファラミアは自らに言い聞かせたが目は冴え、いつまでも寝付かれなかった。

夜明け近くに漸く眠りに落ちたファラミアは、翌朝不安が的中したかのように寝過ごした。

食堂に入ったファラミアは、既にボロミアは朝餉を済ませたと聞き、がっくりと肩を落としたが、遠征からの凱旋翌日の事である。

今日再度の出陣はあるまいと、給仕の女官にボロミアの行先を訪ねたファラミアは、行先を告げずにボロミアが食堂を出たのだと言う彼女の言葉を聞き、覚えず口元が緩むのを止められなかった。

 

薔薇の東屋へ向かうファラミアの足は自然と速くなったが、その東屋に姿を見つけた時、ボロミアは気に入りの長椅子で微睡んでいた。

濃い疲労の色が滲んだその表情を目にしたファラミアは、胸に鋭い痛みが走るのを感じた。

“お疲れになっておられるのだ”

ファラミアは我知らずそっとボロミアの上に屈み込んでいた。

 

官邸の執務室で西に開いた窓際に立ち、園庭から出てくる次男の姿を“視る”デネソールの手には引き裂かれた羊皮紙が握られている。

 

 

官邸の南に位置する小さな園庭に足を運んだデネソールは、前栽の前に膝をつく妻の背に声を掛けた。

「そなたの姿が見えぬ、と侍女が案じておったぞ」

移植ごてを手にした妻は振り返ると

「言ったら止められてしまいますもの」

と笑った。

傍らに膝を折る夫を見遣りフィンドゥイラスは明るい声で言う。

「ボロミアの熱も下がりましたし、もう大事有りませんわ」

妻の細い指からそっと移植ごてを取り上げたデネソールは

「下がったのは“ボロミアの熱だけ”だな」

そう言いながら妻が穴を掘った横の土に移植ごてを差し込んだ。

春の陽だまりを思わせる目で暫しの間夫の横我を見詰めていたフィンドゥイラスは木箱から花の苗を取り出し、穴の中に入れた。

「イヴリニエルが届けてくれたこの苗を、早く植え替えてあげたかったのですもの」

「ミナス・ティリスを発つ前に、イヴリニエル殿はそなたの居室に立ち寄ったそうだな」

「ええ、今朝侍女から聞きました。

 わたくしは覚えていないのですけれど」

夫と共に苗の周りに土を被せながらフィンドゥイラスは心残りな様子で僅かに遠い目をした。

 

フィンドゥイラスの部屋の前で薔薇の鍵を見詰めていたイヴリニエルは、ぐっとその鍵を握り締めると、大きくひとつ息を吐き、部屋の戸を叩いた。

 

フィンドゥイラス付の侍女はイヴリニエルが奥方の様子に眉を曇らせ

「息がお苦しそうだわ」

と呟くのを耳にして溜息を吐いた。

「ボロミア様のお熱が下がった途端に倒れられて、今度は奥様のお熱がもう2日も下がらないんです」

年若い侍女は気遣わし気にそう言うと、フィンドゥイラスの額に置かれた手拭いを取り上げた。

「何度お取替えしてもすぐに手拭いが乾いてしまって…」

苦し気な息を吐く姉の様子を険しい表情で見つめるイヴリニエルに、その侍女が「あの…」と躊躇いがちな声を掛ける。

「洗面器のお水を替えて来たいのですけど…」

答えの返ってこないイヴリニエルに、再び侍女は声を掛けた。

「イヴリニエル様、洗面器のお水を替えて来る間、奥様を見ていた頂けませんか?」

幾分語調を強くした侍女の声でイヴリニエルは、はっと我に返った。

「勿論見ているわ。

 私のお姉様だもの。

 心配せずに行ってらっしゃい」

 

姉と2人きりになった部屋には窓から午後の淡い日が射し込み、掛布の上にちらちらと優しい光を躍らせている。

それは幼い頃幾度も病の床に臥す姉の居室にこっそり忍び込んだ時目にした光景を思い起こさせ、イヴリニエルの胸はきりきりと痛んだ。

覚えず姉に向かって差し伸ばされたイヴリニエルの手は、しかし、つい口を衝いて出てしまった自らの言葉に引き留められた。

“私のお姉様”

病床にある姉の部屋に居るところを見つかり、連れ出される度口にした言葉。

「私のお姉様は死んだりしないわ」

“私のお姉様”

その言葉の意味が、今はその頃とは違ってしまっているけれど。

その時、ぱちり、と開かれた翡翠色の瞳が“妹”を見上げた。

熱に浮かされて潤んだ瞳に見上げられ、思わず息を呑んだイヴリニエルは、差し伸ばしたまま止まっていた指先に触れる熱を感じ、はっと目を瞠った。

その刹那、柔らかく抱き込まれたイヴリニエルは姉の胸の上で息を詰めた。

「大丈夫よ、私は居るわ、あなたの側に。

 あなたは、私の、大切な…妹…よ…」

言いながら再び眠りに落ちた姉の、浅い息を吐く息遣いだけが微かに響く静寂が戻った室内で、姉の胸に顔を埋めたイヴリニエルの頬を一筋の涙が伝い落ちた。

「知ってるわ、お姉様。

 知っている…」

 

 

「この苗が届けられたのは3度目だったか?」

「4度目ですわ」

木箱から2株目の苗を取り出しながらフィンドゥイラスは言った。

「わたくしがこの都に参ります際、白き都でこの花を咲かせたいと申しましたら、誰もが口を揃えて無理だと言いましたわ。

 気候が違うミナス・ティリスでは根付かない、と。

 けれどイヴリニエルだけがこう申しましたの。

 “この花はいつか必ず白き都で花を咲かせるわ”って。

 “私にはミナス・ティリスの庭で風に揺れる青い花弁が視えるのよ”って」

デネソールは枯れた花の上に落ちる妻の涙を3度見ていた。

そして既に4度目の涙も“視て”いたが、それでもデネソールは唯無言で妻から苗を受け取り、掘り返した穴の中にそれを置いた。

フィンドゥイラスは夫のその手元を例えようもない優しい眼差しで見詰めながら言った。

「妹は幼い頃から、わたくしが病に伏す度決まってこう申しましたの。

 “お姉様は死んだりしないわ。

  大人になって中つ国で1番幸せな人になるのよ。

  私には視えるんだから“って。

 わたくし、妹の言葉を信じましたの」

そしてフィンドゥイラスは夫を見上げて微笑んだ。

「妹の言葉を信じた事は間違っていませんでしたわね」

手を止め妻を見返したデネソールのその手に、フィンドゥイラスはそっと細い指を重ねた。

「殿には“視えて”いらっしゃるのでしょう?

 妹より遥かに濃く西方の血を継いでいらっしゃる御方ですもの。

 わたくしが次に殿の御子を授かるのであれば、その子はボロミアの弟、ですわね?

 それも殿の血を濃く継ぐ。

 ですから殿は、次子を望まぬとおっしゃいますの?」

デネソールはその問いに答えず、己の手に重ねられた妻の白い手にじっと視線を注いだ。

「わたくしの躰をご心配下さっていらっしゃるのでしたら、そのご心配はご無用ですわ」

目を上げたデネソールは曇りのない澄んだ緑玉色をした妻の瞳を真っ直ぐに見詰めた。

「わたくし、儚くなったりなど致しませんわ」

「フィンドゥイラス…」

「わたくし5歳の時、生まれて間もない妹がわたくしに向かって差し伸ばした手を取った時思いましたの。

 “この小さな手の為に、私は生きなければ”と。

 今のわたくしは、妹だけでなく、わたくしを必要としてくれる沢山の“手”に生かされていますわ。

 わたくしにその沢山の“手”を与えて下さったのは殿です。

 ですからわたくし、儚くなったり致しません。

 ずっと殿の御側に居りますわ」

雲間から日の差す様な妻の明るい瞳を見詰めたまま、デネソールは妻の細い指を強く握りしめたのだった。

 

「それに殿、弟はボロミアの望みでもありますのよ」

妻と共に園庭を後にし、病後の様子を見舞う為息子の部屋を訪れたデネソールに、妻はそう悪戯気な目を向けた。

「嘗てわたくしが妹に助けられたように、生まれ来るこの子の弟が、この子の支えになってくれますわ」

汗に濡れた髪を息子の額から除ける妻の指をデネソールはそっと握り締めた。

「望まれる事、求める手に答える事。

 それがこの子を強くしてくれましょう」

妻は微笑んでそう言った。

 

 

執務室の窓辺に立ち、窓外を見下ろすデネソールの灰色の瞳に映る景色はその頃のものではない。

しかし彼の胸の内から亡き妻のその言葉が消えた事は1日たりとしてない。

そして彼のふたりの息子は、妻の言葉を証立てるように深い兄弟の愛情で結ばれた。

殊に妻の命を縮めさせて誕生した次男は、妻の望みに適う強い愛情を兄に抱いて育った。

デネソールは次男の“兄に対する”その愛情に露程も疑念を持った事はなかった。

周りの者がどの様に思おうと、デネソールにとって彼の次男は、己の分身にも等しい信頼に足る息子だったのだ。

だが思い設けずその次男が兄に対して隠し持った“欲”を聴き取った瞬間、デネソールは愕然とした。

次男のその“欲”はあってはならぬものだ。

 欲は愛を殺す

 愛は人を強くするが、欲は人の弱さにつけ込む

 欲が勝れば愛を護る力は失われるのだ

妻を護ると誓った自らの言葉を貫き通せなかった悔恨の念は今もデネソールの胸に鋭い棘を刺す。

自らと同じ過ちを、次男に犯させる訳にはいかなかった。

妻が身を削って残した愛の形を今度こそ護り抜く。

それはフィンドゥイラスを妻に望んだデネソールが、自らに科した運命<さだめ>なのだったのだから。

 

デネソールは来訪を告げる次男の弾んだ声に、窓外から執務室の扉に視線を巡らせた。

手にしていたふたつに引き裂いた羊皮紙を執務机の上に投げ出したデネソールは

「入れ」

と、扉の外の次男に向かって冷徹な声で言ったのだった。

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