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血脈 6

 

イヴリニエルの墓参を終えた翌日、イムラヒルは双子の姉と因縁浅からぬ執政家の親子に別れを告げ、ドル・アムロスに帰って行った。

 

その日の夕刻ローハンから帰郷したボロミアを迎えたファラミアは兄の居室への訪問の伺いを立て、兄は笑顔でその伺いを許諾した。

 

ファラミアが初めて知った亡き叔母の話は、ファラミアは自らの胸の内に蟠る、兄に対する口には出来ぬ想いに一つの結論を見出させていた。

如何にしてもその想いを捨て去る事も止める事も見ぬ振りも出来ぬものならば、それは自ら抱えて生きていくしかないのである。

ならば採る道は二つに一つしかない。

隠し通すか、露にするか。

どちらにしろ、その先に待つのが茨の地獄でしかないのなら、ファラミアには自らの採るべき道は既に決まっていた。

それでも尚その道に踏み出すのを躊躇わせていたのは一縷の望みだ。

その望みが蟠りとなって、真っ直ぐに兄に対する事が出来ずにいたのだ。

 

居室に戻ったファラミアは、叔母の形見でもある誓剣に、今一度自らの決意を問い直していた。

 

夕べの空から茜の色が消える頃、ファラミアは兄の居室を訪れた。

ゆったりした部屋着に着替えたボロミアは、すっかり寛いだ様子で弟を迎え、居室の机の上にはローハン産の葡萄酒と二つの杯、そして酒の摘みと菓子の乗った皿もそれぞれ用意されていた。

「セオドレド殿がそなたによろしく伝えてくれと申しておったぞ。

 そなた兄の知らぬ間に随分セオドレド殿と昵懇になっておったのだな」

屈託なく笑う兄の笑顔に、ファラミアは何も言わずにっこりと微笑んだ。

ローハン産の葡萄酒を杯に注ぐ兄の手元を見遣りながら、ファラミアはさり気なく兄に尋ねた。

「ローハンでは継嗣殿ともお飲みになったのですか?」

「飲んだ事は飲んだが…」

兄は少々困った顔をした。

「飲んだ時の事はあまりよく覚えておらんのだ」

一見するとすこぶる酒に強そうな兄は、実はあまり酒に強くない。

甘い菓子を好む兄よりファラミアの方が余程酒には強い。

むしろ酒豪と言ってよい程で、滅多な事では酒に酔う事などない。

当然その分酔った兄の面倒を見るのはファラミアの役目になった。

どうやら“笑い上戸”の部類に入るらしいボロミアは、兎に角酔うと、とろんとした目でよく笑った。

その笑顔があまりにも幸せそうで艶やかだったので、ファラミアは何気無さを装い、兄に気付かれぬ様、こっそりと兄が酒量を過ごす様に杯を満たしてその笑顔を垣間見るのを密かな楽しみにしていた。

“同じ穴の狢か”

酒豪の多いローハンでは概して酒の度数が高い。

上手く酒を注げば、今夜も兄のあの艶やかな笑顔を見られるだろう。

ファラミアは内心思い描いた黒髪の継嗣の顔に舌打ちしつつも、ローハン産の葡萄酒の度数から、程よい兄の酔い頃を頭の中で酒量に換算していた。

「叔父上にも久しくお目に掛かっておらぬ故、すれ違いになったのは残念であった」

酒の摘みではなく、菓子の方を摘みながらボロミアがそう言った声でファラミアは目の前の現実に引き戻された。

ボロミアが用意していた菓子はミナス・ティリスにはない焼き菓子であるところを見ると、これもローハンのものであろう。

黒髪の継嗣がやる事は、ファラミアにはどうにもその裏が透けて見えて癪に障る。

さり気なく互の杯に酒を注ぎ足しながら、ファラミアは兄に言った。

「今回はロスサールナッハへの所要のついでという事でしたので、あまりお時間も取られぬ様で、叔父上も兄上のお顔が見られず残念がっておいででした」

「名代とはいえ、今では叔父上が大公職のほとんどを代行されておられる故、お忙しい身であられるからな」

「叔母上の墓参にいらっしゃったのに、慌ただしくお気の毒な事です」

「叔母上の?

 ああ…そう言えばイヴリニエルの叔母上のご命日が近かったのだな」

「兄上は叔母上をご存知なのですか?」

「2,3度だがお目に掛かった事がある。

 子供の頃の事ゆえ、確たる記憶ではないが…。

 そう言えば、何やらそなたによく似ておった様な気がいたすな」

「私に…ですか?」

“ドル・アムロスのじゃじゃ馬姫が?”

「ああ、母上もお美しいお方であられたが、叔母上も大層お美したったと記憶しておる」

ファラミアが杯に酒を注ぎ足す度に、ボロミアは律儀に一々杯に口を付ける。

「ぬける様に肌が白く、そなたによく似た色の、波打つ髪に薄青の瞳が印象に残る物静かなお方であったやに思うが」

「物静か…ですか?」

ファラミアは酒を注ぐ手を止め首を捻る。

“叔父上からお聞きした印象とは随分異なるが…”

 

 

フィンドゥイラスがゴンドールの執政家に嫁し、ミナス・ティリスの人となってからイヴリニエルが剣を振るう事はなくなった。

裸足で駆け回る事も木に登る事も、裸馬に乗る事もなくなり、姉の居室であった南翼の部屋でひとりぼんやりと海を眺める事ばかりが多くなった。

“ドル・アムロスのじゃじゃ馬姫”のそのじゃじゃ馬ぶりは影を潜め、やがて人々は、イヴリニエルのその憂いを秘めた薄青の瞳をして“ドル・アムロスの青の姫”と呼ぶようになった。

そして国の内外から、嘗てフィンドゥイラスがそうであった様に幾人もの求婚者が引きも切らぬ様になったが、イヴリニエルはどの様な求婚者に対しても、決して首を縦に振る事はなかった。

年に数度、白き都の姉の元を訪れるのだけを慰めにイヴリニエルは年を過ごした。

 

 

フィンドゥイラスが亡くなって二月程が経った頃、ロスサールナッハの老臣からイヴリニエルを妻にとの申し出があった。

執政家に次ぐ名家の公女が他国の臣下に降嫁など前代未聞の上、相手は70に手が届こうかという老人である。

誰もがこの婚姻をイヴリニエルは承知すまいと思っていたが、イヴリニエルはあっさりとこの申し出を受け入れた。

掌中の珠と慈しんできたフィンドゥイラスを亡くしただけでも十分憔悴しきっていたアドラヒルは最早言うべき言葉もなくがっくりと肩を落とし、大公の妻は半狂乱になって泣き喚いた後には、何日も床から起き上がる事も出来ず寝込んでしまった。

完全に機能不全に陥った両親に代わり、イムラヒルが公務を取り仕切らねばならなくなり、降って湧いた様な厄介事に、イムラヒルは恨みがましい表情でイヴリニエルの居室を訪れた。

「イヴリニエル」

と口を開いたイムラヒルが次の言葉を発するより前に、イヴリニエルは弟の前に一通の書状を差し出した。

不思議そうに書状を受け取ったイムラヒルにイヴリニエルは言った。

「求婚のお使者が持って来たのよ」

 

書状を読み終えたイムラヒルがイヴリニエルを見遣ると、姉は自らを抱き締める様に窓辺に立ち、弟を見ないまま言った。

「良い目をされたお方だと思うわ。

 その方がおっしゃる通り、私の魂は半分死んでいるのよ。

 奥方を亡くされてから何十年もかけてゆっくり死んでいる様な自分なら、私の気持ちが分かると言って下さっているのよ。

 共に思い出を縁に慰め合って残りの時を、とね。

 ありがたいお申し出だと思うわ」

「イヴリニエル…」

イヴリニエルは振り返ってイムラヒルの前に歩み寄ると、その手を取って言った。

「あなたには申し訳ないと思っているわ、イムラヒル。

 分かってとは言えないけど、どうか許して」

イムラヒルには何も言う事が出来なかった。

 

婚儀の話は滞りなく進み、半月後には輿入れが決まった。

 

しかしその婚儀は執り行われる事無きまま彼の老臣は花嫁を失った。

 

頑として婚儀への列席を拒んだ両親に代わり、ロスサールナッハで姉の到着を待っていたイムラヒルの元に、輿入れの途上オークの遊撃部隊にドル・アムロスからの一行が急襲されたとの報が齎され、イムラヒルがその場に駆けつけた時には既にドル・アムロスからの一行は、一人残らずオークの餌食となった後だったのである。

死屍累々たるドル・アムロスの一行の中に、倒れたイヴリニエルの姿を認めたイムラヒルが駆け寄った時、イヴリニエルにはまだ微かに息があった。

オークの血を吸って尚輝きを失わない白銀の短剣を握り締めたイヴリニエルの周りには実に3体ものオークが、短剣に依るとは思えぬ見事な太刀筋で屠られていた

イヴリニエルは抱き起こしたイムラヒルに、握り締めていた短剣を差し出して言った。

「これを…デネソール様に…」

「分かった」

と、短剣を受け取ったイムラヒルの腕を掴んだイヴリニエルは苦し気に眉を顰め

「私が死んだら…お姉様のお傍に…葬っ…て…」

そう、絞り出す様な声で言った。

絶句し、唯首を振るばかりのイムラヒルを、イヴリニエルは縋るような目で見詰めた。

「お願いよ…イムラヒル…」

ドル・アムロスの公女たるイヴリニエルを公国の陵墓に葬らないという事は、ドル・アムロスの歴史の中にイヴリニエルの名を刻めない、という事である。

それがロスサールナッハの陵墓であれば、婚儀の前とはいえ悲運の公女として歴史にその名を残す事は出来るだろう。

だが、執政家の陵墓にイヴリニエルを埋葬する事は出来ない。

それでも尚フィンドゥイラスの傍近くとなれば、その陵の裾野に名も無き塚持つ者として葬る他にない。

「出来ない…」

悲痛な表情で首を振るイムラヒルの腕を、イヴリニエルは消えゆく命を絞り出すかの様にきつく掴み

「歴史書に…名を残す事に…何の意味が…?」

と問うた。

「私が…歴史書に名を残す…何を成した…と?

 お願い…よ…、イムラヒル…。

 男であるデネソール様は…お姉様のお傍で…眠る事は…出来ないのよ。

 私は一度…お姉さまのお手を…離してしまったけど…、これからは…私が…お姉様を…お傍で…お守り…したい…の…。

 お願い…イムラヒル…」

既に生ある者の顔色を失い、薄青の瞳から消えつつある光を辛うじて耐え、喘ぎ喘ぎ懇願するイヴリニエルに、最早イムラヒルはそれ以上その願いを拒む事が出来なかった。

自分の腕を掴む姉の手を強く握り締め「分かった」と言う弟の掠れた声を聴いたイヴリニエルは、安堵した様に微笑み、ゆっくりとその青い瞳を閉じた。

イムラヒルの腕を握り締めていたイヴリニエルの手が弟の腕を滑り落ちた。

斯くて“ドル・アムロスのじゃじゃ馬姫”と呼ばれ“ドル・アムロスの青の姫”と呼ばれたイヴリニエルは、こうしてその短い生涯を終えた。

 

 

「叔母上は…なぜ名を捨てても母上のお傍に、とおっしゃったのであろう…」

独り言の様なボロミアの呟きに、兄の杯に酒を注ぎ足していたファラミアの手が止まった。

つい、と席を立ったボロミアは窓辺に歩み寄り、そこから望む小さな園庭に目を遣った。

ファラミアが兄の隣に立ちその目の先を追うと、そのには月明かりに凛と咲く薄青の花弁が淡く浮かび上がっていた。

「ルイン=ペルカレン」

ファラミアの声にボロミアは弟の顔を見遣った。

「知っておるのか?」

「叔父上にお聞きしました。

 叔母上がお好きだったドル・アムロスの花だと。

 母上がドル・アムロスからお持ちになった苗は皆枯れたはずだと不思議がっておいてでしたが」

「確かに母上がお持ちになった苗は枯れたが…」

ボロミアは微睡む様な瞳をその花に落とした。

「根はまだ死んでおらぬからと、大切に世話した者があってな。

 母上が亡くなった後、再び花をつけたのだ」

兄の声が優しい。

「ロスイア」

「ロスイア?」

「その者がこの花をそう名付けた。

 一度死んだ花ゆえ、二度と再び枯れぬ様にと願いを込めた…と言ってな」

「それで…。

 “花咲く永遠”なのですね」

「“花咲く永遠”?」

「エルフ語でその様な意味になるかと」

「成程、そなたはエルフ語に堪能であったな。

 “花咲く永遠”か…、良い名だな」

「真に」

ファラミアはふと肩に掛かる心地よい重みを感じて僅かに首を巡らせ、頬に触れる兄の金の髪を確かめた。

兄は気付いているだろうか。

弟が今はもう兄の重みをその肩に受け止められる程に背丈が伸びている事に。

酒に酔っていつもより体温の高い兄の体。

酒精に朱く縁られて夢見る様に潤む翠の瞳。

ファラミアは兄の肩にそっと手を回し、その耳元で囁く様に「もうお休みになられますか、兄上?」と問うた。

「そうだな…」

そう答えた兄の声が耳に心地よかった。

兄の手を取ったファラミアは、その体を寝台に運ぶ僅かな距離の一歩一歩を、愛おしむ様にゆっくり歩を運んだ。

 

 兄上の、この手を決して離すまい

 例えこの身の内に燃える想いが

 我が身を焼き焦がそうと

 私はその熱に耐えてみせよう

 生涯その思いの欠片なりと

 兄上に知られる事叶わずとも

 弟の仮面の下にその熱を

 生涯隠し通す痛みを抱き続け

 幻の兄を抱き続ける事になろうとも

 私は兄上のこの手を決して離すまい

 

窓外の月明かりの下、“ロスイア”と名付けられた薄青の花弁がさやけく風に揺れていた。

 

 

誰よりも世界中で一番お姉様が好き

だからずっとご一緒にいるわ

だって、一番好きな人の手は

決して放してはいけないのだもの

それはまるで何か神聖な宣言の様だった

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