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未明(後編) 1

 

キラキラと、南の海は春の柔らかな日差しを受けて小波を煌めかす。

白き都からは見る事のない海の面に光が踊るその光景を、ファラミアが部屋の窓辺に小さな顎を預けて、何時間でも飽く事無く眺めている姿を見る時、この豊かなベルファラス湾を持つドル・アムロスの公子イムラヒルは、いつも少しだけほっと胸を撫で下ろした。

 

亡き姉・フィンドゥイラスの次男ファラミアをミナス・ティリスより預かり受けてから1年。

 

当時、母を亡くしたばかりのファラミアに対し、父であるゴンドールの執政デネソールの態度は、イムラヒルの目にはまだ5歳の幼子に対して、あまりにも容赦なく映った。

見兼ねたイムラヒルはファラミアが成人となる初陣の時まで、領国であるこのドル・アムロスで預ろうと申し出た。

だが白き都を出立する日の朝、ファラミアとその5歳年長の兄・ボロミアの、分かち難く結び付いた絆を目の当たりにした時、イムラヒルは、まるで自分が伝承に言うベレンとルーシエンを引き裂こうとしたシンゴル王にでもなったかの様に感ぜられ、きりきりと胸が痛んだものだった。

 

しかしファラミアは、5歳の子供とは思えぬ賢しらしさでイムラヒルの意図を汲取っていた。

 

ドル・アムロスに帰ったイムラヒルを出迎えた子供好きの妻は、利発で大人しやかな愛らしい甥に目を細め、愛する二人の娘を失って悲嘆に暮れていた父・アドラヒル大公は久方ぶりに相好を崩して朗らかな笑顔を見せた。

1歳になったばかりの息子もこの年上の従兄にすぐ懐き、ファラミアもまた、実の弟の様に小さな従弟・エルフィアを可愛がった。

宮中の誰にでも変わる事無く丁寧に接し、幼いながら思い遣り深く笑みを絶やさないファラミアは、ドル・アムロスの宮中の誰からも愛された。

 

イムラヒルにとって、ファラミアのその様な様子を目にする事は、自らの判断が過たずファラミアの為に良かった事なのだという安堵を齎したが、同時に、イムラヒルの胸の内に、水底に降り積む薄い澱の様な不安も降り積もらせた。

 

ファラミアが父や妻、宮中の者達に、子供らしからぬ嫋やか笑顔を向ける度、イムラヒルは、この西方の血を濃く継いだ賢しらな甥が、人の目には気付かれぬほど、薄く薄く織られた衣を幾重にも身に纏う様に、重ねられた薄衣の中に、自らの生まれ持った心を包み込んでしまうのではないかと思われたからであった。

 

イムラヒルがそれに気づいたのは、ファラミアがドル・アムロスに来てから初めて、ファラミアの兄・ボロミアが弟に会う為ミナス・ティリスからドル・アムロスを訪れた時だった。

兄・ボロミアの顔を見たその瞬間、一瞬にして霞が晴れるかの如く、ファラミアの表情が明るく輝いたからだった。

 

ボロミアがドル・アムロスに逗留出来る時間は長くない。

公務ですらミナス・ティリスを長く離れるのを厭うデネソールが、あくまで私的な理由でのドル・アムロス訪問の滞在に許しを与えるのは、せいぜい1日か2日だ。

当時まだ10歳だったボロミアは、その僅かな時間の為に、ミナス・ティリスから同道を許された、僅かな伴回りの者だけを頼みに、片道に12日からの旅程を馬上高く過ごすのだ。

そして

その僅かの滞在の後、また12日からの帰路を馬上に揺られて帰るのだ。

まだ10ばかりのボロミアが!

 

5歳のファラミアにそれがどれほどの事か分かっていたとは思えなかったが、ファラミアもまた、ボロミア訪問の知らせを受けてからは常になく落ち着かず、普段特に何か自分の望みを口にするという事のないこの甥には珍しく、遠慮がちにではあるが「兄上のお好きなお菓子を用意したいのですが」などと強請って、公子の妻を驚かせたりした。

 

兄弟が始めてドル・アムロスで過ごした僅か1日半の時間は、今でも宮中の語り草になっている。

並び立った兄弟の美しさに宮廷画家達は挙って筆を執り、女官達は兄弟の姿を一目見ようと仕事を放り出した。

男達でさえ、近くを通り過ぎる兄弟の姿を見かけると、しばし目を奪われて自分の仕事を忘れる有様だった。

神聖とすら感じられる兄弟二人のその世界に、誰一人立ち入る事はもちろん、触れる事する躊躇われ、皆、ただただ遠巻きに、夢の様な光景にうっとりと見惚れるだけだった。

 

僅か1日半の滞在で、ボロミアはドル・アムロスの宮中の人々を魅了した。

ボロミアがミナス・ティリスに帰った翌日には、ドル・アムロスの宮中は灯が消えた様になった為、皆ファラミアのただならぬ様子に気が付かなかった。

紙の様に白く血の気の失せた顔で、石の床に倒れたファラミアは、それから2日間寝台から起き上がる事もままならなかった。

医師達は、特にどこがという悪い所も見受けられないが…と首を捻ったが、イムラヒルにはその理由が分かる気がした。

 

それでも回復したファラミアは、ボロミアが訪れる前と変わらぬ様子を取り戻し、ドル・アムロスには変わらぬ日常が戻った。

 

ボロミアは、その年3度ドル・アムロスを訪れた。ミナス・ティリスとドル・アムロスの距離を考えれば、10歳のボロミアがその旅程を1年に3度も往復したのは驚くべき事だった。

そしてそれ以上に、父である執政にこの私的な訪問の許可を得るのが如何に困難かを考えれば。

 

それでもボロミアは、ドル・アムロスを発つ際には必ず幼い弟をしっかりと抱き締めて「また来る」と言い、そして律儀にその言葉を守った。

 

この生真面目な嫡男の訪問を、ドル・アムロスの宮中はいつも温かく大きな喜びを持って迎えた。

ボロミア訪問の知らせがドル・アムロスに届くと、大抵において宮中は騒がしくなった。

ボロミアが訪れるまでの数日は出迎えの準備で華やぎ、名のある家の娘の中には、大急ぎでドレスを新調する者さえあるほどだった。

ただ、概してボロミアはその剣の才や伸びやかな若木の如き気性が、殊にドル・アムロスの武人達の間で愛され、ファラミアの、幼いながらも細やかな気配りで常に感謝の言葉と微笑みを忘れない繊細な愛らしさは、主に女官達に愛された。

数回の訪問の後には、ボロミアがドル・アムロスに到着するまで数日間、宮中のそこここで、ボロミア贔屓の武人とファラミア贔屓の女官が「ボロミア様の方が」「ファラミア様の方が」と張り合う光景が恒例行事の様にまでなっていた。

 

だが、その数日間を誰より心待ちにし、誰よりボロミアを愛しているのは、当のファラミア本人である事は、誰の目にも明らかだった。

「もうすぐ兄君様にお目に掛かれますな」

そう声を掛けた武官に向けられたファラミアの笑顔の眩しさには、ボロミア贔屓の武官でさえ息を飲んだほどだったのだから。

 

“これほど強いきずなで結ばれたご兄弟を見た事がありません”

 

久しぶりに妃と水入らずで午後の時間を過ごしていたイムラヒルは、若い廷臣の言葉を言葉を思い出して、つい口の端に笑みを零した。

「どうなさいましたの?」

刺繍を刺す手を止め、不思議そうに小首を傾げる妻の顔を見て、イムラヒルは穏やかに微笑んだ。

「いや、我が宮中にも若い廷臣が増えた事だと思ってね」

「まあ、まるでお年寄りの様な事をおっしゃって」

そう言うと妻はふわりと柔らかい輪郭に似合の明るい声で、ころころと笑った。

イムラヒルは優しい気持ちでそんな妻に曖昧な笑みを返すと

“血筋…なのだろう”

と、胸の内だけで呟いた。

 

 

かくて折に触れ華やぐ、会う瀬の時を待ちながら、ドル・アムロスの4年は穏やかに疾く過ぎた。

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