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初恋 18

 

療病院の寝台で目を覚ました時、ニエノールは我が目を疑った。

 

ひと目会う事かあれ程遠かったボロミアが目の前にいて自分を見詰めているのだ。

最初ニエノールはこれは夢だと思い、次に幻を見ているのだと思った。

しかしその時、まだ生々しい傷口にきつく布を巻き付けた自分の手首を包む温かな手の温もりを感じ、ニエノールはこれが夢でも幻でもない事を知った。

 

何か言わなければ、とニエノールは思ったが、口を開いても言葉は出てはこなかった。

「何も言わずともよい」

ボロミアが言った。

「此度の事がそなたに咎のある事とは、私は思ってはおらぬ」

ボロミアのその言葉はニエノールの胸を深く抉り、ニエノールは息を詰めた。

「そなたやそなたの父君に何があったか私は知らぬ。

 それを知りたいとも思わぬ。

 だがそなたも私も、共に愛する者を失った。

 その痛みに何程の違いがあろうか」

真っ直ぐにニエノールを見詰めるボロミアの、深い森の湖水の色を映した瞳の色が、ひたひたと胸の底に染み透っていくのをニエノールは感じた。

「しかしそれでも、敢えて私はそなたに言う」

ボロミアの湖水の色の瞳が、ひたとニエノールの大地の色の瞳を捕えた。

「生きよ」

自分の手を取るボロミアの指に力が籠もるのを、ニエノールは感じた。

「そなたもまた私の愛する民の一人だ。

 どうか私からこれ以上、愛する民を失わせないで欲しい」

「ボロミア様…」

ニエノールの唇から掠れた声が零れ、とめどなく溢れる涙がその頬を伝った。

 

まだ塞ぎ切らぬ手首の傷跡も痛ましいニエノールは、しかし寝台から起き上がれる状態になった翌日には、正式に処分の沙汰を受ける為、白の塔へと引き立てられ、王の間に引き出された。

重臣達の居並ぶ中、刑吏が読み上げる沙汰状に平伏していたニエノールは「以上」と告げる刑吏の声に顔を上げた。

 

執政の椅子に座す大侯は、ボロミアによく似た長く美しい指を口元で楔形に突き合わせ、じっと鋭い視線をニエノールに注いでいた。

 

時に人の心を読むという、高き峰で人界を睥睨する鷹の目の如き光を湛えたデネソールの灰色の瞳を、ニエノールは臆する事なく見返した。

 

ニエノールの心は既に決まっていた。

読まれて臆する気持ちなど微塵もなかった。

凛とした声でニエノールは言った。

「お沙汰は承りました。

 然れどこの身は、どうか都にお残し頂きとう存じます」

その言葉に、居並ぶ重臣達が俄かに色めき立った。

しかし大侯は一瞥でそれを封じ、無言でニエノールに言葉の続きを促した。

「我が父は既に亡く、母の行方は洋として知れません。

 縁者は尽く我が家名に背を向けました。

 故に私が都に留まる事で災いの種となる事もございません。

 私自身が都に仇成す気持ちも毛頭ございません。

 それ故どうか都にお残し頂けます様伏してお願い申し上げます」

石の床に伏したニエノールの頭上に、青銅の深い響きを持つ声が投げ掛けれらた。

「都に留まるとなれば平民の身という訳にはいかぬ」

「承知致しております」

「黒き流言が流布致しておる故」

大侯はそう言い、居並ぶ重臣達を見渡した。

大侯の鋭い視線に数名の重臣が目を伏せたのを見届け、デネソールは言葉を継いだ。

「都に留まる事はそなたには尚更に辛き道となろう」

「元より覚悟の上でございます」

そう言ったニエノールの声には一縷の迷いもなかった。

「相分かった」

大侯はニエノールから重臣達へと視線を移すと

「予の名において言う。

 ブランディアが娘ニエノールを下婢の身とし、都へ留め置く」

そう断じた大侯の言葉に重臣達はざわめいたが、デネソールはそれだけを言置くと重臣達には目もくれず、黒いマントを翻し王の間を後にした。

呆然と大侯の背を見送る重臣達の中にあって、ニエノールだけがその後姿に深々と頭を垂れた。

 

 

「それで薬草採りに?」

ファラミアの問いにニエノールは静かに頷いた。

「しかし薬草採りとは…」

男の奴婢ですら尻込みする労役だ。

月の半分以上は深い森に分入り、時に高い岩壁を登り、何日も糧食の乏しい露営が続く薬草採りは命の危険をも伴っている。

「自ら望んだ事でございます」

ニエノールは微笑んで言った。

「後見下さったヨーレス様にご恩をお返し致します為にも、藥師様方のお役に立ちとうございました」

「ヨーレス?療病院の?なぜヨーレスが貴女の後見を?」

 

ニエノールの言葉には驚く事ばかりのファラミアであった。

 

 

都に留まる許しは得たものの、両親を失い下婢の身となったニエノールは、都に留まる為の後見を申し出てくれるべき縁者には尽く背を向けられていた。

しかし罪科を負った身で後見なくして都に留まる事は出来ぬ。

そこへ思いもかけぬ人物が後見を申し出た。

療病院の藥師・ヨーレスである。

驚いたのは寧ろニエノールの方であった。

なぜと問うニエノールに、ヨーレスは口を濁してしかとは答えず、何時しかニエノールもその問いに答えを得るのを諦め、1年程は療病院で藥師達の下働きとして過ごした。

 

その間にニエノールは、療病院では常に薬草が不足勝ちである事に気付き、その訳をヨーレスに訊ねた。

するとヨーレスは表情を曇らせ、薬草採りが不足している事情を語った。

ニエノールは薬材の不足に依り充分な手当を受ける事が出来ず苦しむ民や、足りない薬材を懸命にやり繰りして薬を煎じる藥師達を暫し見遣った後ヨーレスに視線を戻して言った。

「ヨーレス様、私を薬草採りのお役に付けては頂けませんでしょうか?」

「ニエノール!」

 

その頃ヨーレスは自分には持つ事の叶わなかった我が子を見る様な思いをニエノールに抱き始めており、ニエノールもまた、遂に得る事の出来なかった母への思慕をヨーレスに見出していた。

それ故ヨーレスはニエノールに薬草採りの如き過酷な労役をさせる訳にはいかぬと反対したが、ニエノールの意志は固く、翻意を促す事は適わなかった。

 

ニエノールには勿論ヨーレスに恩を返したいという気持ちも、藥師達の役に立ちたいという気持ちもあった。

だが何より一番強かったのはボロミアへの想いであった。

 

療病院で目覚めた時に見たボロミアの姿は、その日以来片時もニエノールの胸から消える事はなかった。

“そなたもまた私の愛する民の一人だ”

ボロミアのその言葉を耳にした時、ニエノールは初めて自分の中にあった真の想いを知った。

ボロミアの妻になる事など、どうでもよい事だったのだ。

“愛する民を失わせないで欲しい”

ボロミアはそう言った。

自らの愚かさ故、ボロミアのその愛して止まぬ民を失わせたのだというニエノールの自責の念は、療病院で働くうち、ひとつの決意へと変わっていった。

“私はゴンドールの民を守ろう。

 無為に死んでゆく民が一人としてない様、出来る限りの力を尽くそう“

と。

それ故ニエノールは、薬材がないが為、手当を受けられず死んでゆく民を見過ごしにする事は、何としても出来なかったのだ。

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