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初恋 7

 

翌朝、ミナス・ティリスの兵達は午後の出陣に備えて準備に追われていた。

指示を出す立場にあるべき幕僚達は早朝に早馬で到着したヘンネス・アンヌーンからの先触れを受け、午後に招集する軍議の準備に当たっていた為、出陣の準備にはボロミア達下士官がその指示を受け持ち、午前中の教練は中止されていた。

 

度重なる先の読めない外敵の脅威にあっては、普段内政問題の裏工作に終始する一部の重臣達も戦時の備えが最優先され、都では其々の職責に応じた責務が、寸暇を惜しんで遂行されていた。

如何に強欲な廷臣であろうと、富も権力も、まずは都の繁栄あってこそなのだ。

それは権能に執着を持たない廷臣達にしてみれば尚更の事であり、ブランディアもまた昨日来寝食を惜しんで物資や軍資金の調達に奔走していた。

その様な状況にあって、ローハンからの使者が到着した直後からこの事態を予測していた様に、デネソールはローハンからの使者と入れ違いでヘンネス・アンヌーンに使者を出し、都の防衛に必要最小限の衛兵を残した上でどれだけの兵を出兵させる事が出来るかを試算する様、文官達に指示を出していた。

その上でこの大侯は「好きに使うが良い」と、当然の事の様に執政家の蔵の鍵を朝議の机上に投げ出した。

 

ブランディアにとって大侯のその様な姿を目にする事は望外の喜びであり、その大侯に仕えている事の誇らしさで胸が熱くなった。

それ故ブランディアは大侯に倣い、自家の資材を供出すべく、家令に対し管財の見直しを指示していた。

火急の指示とあってその日は朝から家令の指示に従い、家扶達も総出で帳簿と格闘する事となった。

管財見直しの場となった食堂に、資金供出の足しにと自らの宝飾品の一部を持って現れたニエノールは、マブルングの姿を認めるとさり気無くその傍らに歩み寄り、持参した宝飾品を手渡しながら「終わったら部屋へ」と声を潜めた。

マブルングはちらりとニエノールを見ると、黙って微かに頷いた。

 

昼前にヘンネス・アンヌーンからの使者を迎えた白の都では、その使者と入れ違う様にローハンの東谷に向かう援軍を送り出した。

「頼んだぞ、トゥーリン」

自分を見上げてそう言う年下の主に向かい、トゥーリンは馬上から頷いた。

「お任せ下さい。

 口の軽い捕虜をまとめて引っ括って参ります」

 

窓の外に出陣の鬨の声を聞きながら、ニエノールはいらいらと部屋の中を歩き回っていた。

その時密やかに部屋の扉を叩く音が耳を衝き、ニエノールはすかさず扉に駆け寄った。

扉に身を寄せ、声を潜めて「誰?」と問うと、低い声が「私です」と答えた。

薄く扉を開くと声の主・マブルングの黒い目が覗いていた。

ニエノールは扉を開けて辺りに人影がないのを確かめると、素早くその家扶を部屋に招じ入れた。

「管財の整理はついたの?」

「はい、姫様」

落ち着きなく部屋の中をうろうろと歩き回るニエノールを目で追いながらマブルングは押し殺した声で鋭く言った。

「姫」

ぴたりと足を止めたニエノールは、未だ意を決しかねる目をマブルングに向けた。

「その…、昨日来この様な状況故…つまり、その…婚約…どころではないのでは…」

「この様な状況故、尚更婚約は急がれましょう」

言い淀むニエノールに、マブルングはきっぱりと言い切った。

「しかし…」

「正式のご婚約は当然先の事となりましょうが、略式といえど大侯が認められたお許嫁となれば、警護の兵を付ける事も適いましょう」

「警護?」

「このご婚約を快く思わない廷臣は城中にいくらでも居りましょう程に、あの娘を目障りに思うのは何も姫様おひとりでは御座いません」

マブルングの目の奥に暗い火が点ったのを見て取ったニエノールはごくりと息を飲んだ。

「警護が付いてしまってからではあの娘に手出しするのは難しゅう御座いましょう。

 今しか機会はありません」

「分かった…」

ニエノールは擦れた声を絞り出した。

「殺める訳では…ないのだな?」

「もちろんです」

「我が家名に懸け、何人たりとて殺める事だけは決して許されぬ。

 我が家の名が露見する事も」

「心得ております」

「家名に傷を付ける事だけは、決して、決してあってはならぬ事だ」

「ご心配には及びませぬ」

淀みないマブルングの口調に、漸く意を決したニエノールが問うた。

「してどの様に事を運ぶ?

 あの娘は女官公舎に住まいを与えられている。

 ひとりで下層階に行く事など有り得ぬぞ」

「鍵をお貸し頂きます」

「鍵?」

「抜け道の鍵です」

「それは…」

ニエノールは絶句した。

 

白の都に居を構える名家であれば、その館に各々有事に備えた隠し部屋や下層階に通じる抜け道を持っている事は半ば公然の秘密となっている。

それはミナス・ティリスに限らず、戦乱の世にあってはどの国でも珍しい事とは言えない。

それ故マブルングが抜け道がある事を知っているという事自体は、さして驚くには当たらない。

しかし当然の事ながら家督を守る為に抜け道があるのであり、その所在と鍵は家督を継ぐ者にのみ受け継がれる。

ニエノールも15になったその日に父から抜け道の鍵を渡された。

本来家門の大事に関わる場合にのみ使われるべきもので、粗略に扱うべきものではないのだ。

“それなのに…”

脳裏を過ぎった記憶に唇を噛み締めるニエノールの表情を目の端に捉えながら

「誰にも知られぬ様にあの娘を下層階に連れ出すにはこれしか策がありません」

と、マブルングが畳み掛ける様な強い声で言った。

「時がないのです、姫様」

 

窓の外で再び鬨の声が上がり、大門に向かう騎馬の蹄の音が石畳に高く響いた。

 

今回の出兵にボロミアの出陣はないだろう。

だが一隊を率いる公子の身なれば、ボロミアには常に戦の影が付き纏う。

ニエノールは初陣から3戦目の馬鍬砦で手傷を負ったボロミアが、ローハンの継嗣セオドレドに伴われて帰投し、療病院に運び込まれるのを遠目に見た時、胸を掻き毟られる様な焦燥感と共に、嫌という程それを思い知った。

ボロミアに繋がるどの様な親密な繋がりも持たないニエノールは、公子の側近くで介添えする事すら適わないのだ。

“自ら公子様の元へ足繁く通うなど、名家の子女としての慎みが足りぬ”

ニエノールはその自尊心の為、只管ボロミアからの“お声掛り”を手を拱いて待っていただけの我が身を呪わしくすら思った。

“自ら行動せねば、ボロミア様の妻の座は得られぬ”

 

追い打ちを掛ける様に窓の外に響く蹄の音がニエノールの焦燥感を煽った。

唇を噛んでマブルングを見据えたニエノールは

「分かった」

と、感情を押し殺した平板な声で言った。

「但し一度だけだ。

 そなた以外の者が鍵に手を触れる事は許さぬ、よいな」

「御意」

深く頭を垂れたマブルングの表情はニエノールには伺い知る事が出来なかった。

 

胸中の不安を払拭しきれぬまま、ニエノールは文机の抽き出しを開け、寄木細工の小箱を取り出した。

 

しかしその小箱を開けたニエノールの顔からはみるみる血の気が引いた。

ニエノールはその小箱を振ったり、ひっくり返したりした後それを放り出すと、唖然とするマブルングの前で文机の抽き出しを引っ張り出してその中身を床にぶちまけた。

床の上に屈み込み、散らばった小物を片っ端から手に取るニエノールに

「姫?」

と、訝し気に問うマブルングの声は、しかしニエノールの耳には届いていなかった。

 

ぺたりと床に上にへたり込んだニエノールは、蒼白な顔で呟いた。

「鍵が…ない…」

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