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萌芽 3

 

「ファラミア!」

背後から射す日の光を黄金色の髪に反射させ、キラキラと左右に光の粒を撒き散らしながらその人が己の名を呼ばわるのを耳にした瞬間、ファラミアは膝の震えを忘れ、茨の棘がその腕を引き裂くのも構わず、息を潜めていた藪から飛び出した。

 

“今捕まえなければまた兄上を見失う!”

「兄上っ!」

「ファラミアっ!」

ボロミアは馬を止めると同時に鞍から飛び降り弟に駆け寄った。

ファラミアは飛び出した勢いのまま兄の胸に飛び込み、その首に抱きついた。

「兄上!兄上!」

「大丈夫か?ファラミア」

ボロミアは宥める様に弟の背を撫でると、体を引き離してその顔を覗き込んだ。

涙に濡れた瞳で兄を見上げたファラミアは、兄のその白磁の頬に、薄らと微かに赤く一筋の傷跡を認めて、さっと顔色を変えた。

「兄上…その傷は…」

「ああ…これか。

 大した事はない。

 オークの矢が掠っただけだ」

「オーク!では兄上はあのオークたちと剣を交えたのですか!?」

「森の中でそなたの馬を担いでいるのを目にして、つい…な」

「なんて事をなさるのですか!武装したオーク4人に兄上おひとりで!

 兄上は鎖帷子すらお召になってらっしゃらないではありませんか!」

涙目で訴える弟に、ボロミアはバツが悪そうに顎を撫でた。

「そう言うな。

 もしやそなたに万一の事があったのではと、居ても立ってもいられなかったのだ」

兄のその言葉にファラミアは絶句した。

「しかしそなたが無事で良かった。

 そなたこそよくあのオーク達から逃れたな」

「私は…森の手前でオーク達の話し声を聞いて…。

 それに気を取られた為兄上を…」

「オークの話し声を?森の手前で?」

「?」

ボロミアは「ははっ」と破顔した。

「兄上?」

「さすが我が弟君は西方の血が濃い」

「え?」

「私はその話し声を聞いていない」

何でもない事の様にボロミアはけろりとそう言った。

驚いて目を丸くするファラミアに、明るく緑の目を細めてボロミアは笑った。

「西方の血に流れるという超常の力を、亡き母上はお持ちにならなかった。

 私は母上の血を濃く継いだのだ。

 父上などは1マイルも先の人声を聞き分けると言うが、私は1000フィート先の話し声も聞こえぬ」

言葉を失った弟の髪をくしゃりと撫でて、ボロミアは優しく弟に笑いかけた。

「そんな顔をするな、ファラミア。

 私は超常の力を継がなかった事を、悲しいとも淋しいとも思った事なぞ露程もないぞ」

「兄上…」

「亡き母上がおっしゃったのだ。

 私達には西方の血を継ぐ者が持つという、見る目を持たぬからこそ見えるものがあり、聞く耳をもたぬからこそ聞こえるものがある、と。

 それは超常の力とは違うかもしれぬが、だからこそそれが、父上やそなたを守る力になるのだ、と。

 私もそう思う。

 それは唯人たる人の子のみが持つ力だ。

 私は西方の血を濃く継いだ父上やそなたを誇りに思う。

 だが私自身は、自らにその超常の力を求め様とは思わぬ」

きっぱりとそう言い切った兄の、美しく澄んだ碧の瞳にファラミアは吸い寄せられた。

 

“私は…兄上を愛している。

 叔父上より…亡き母上より…父上よりも…、私はどうしよもなく兄上を…愛している“

 

ファラミアの蒼い瞳からほろほろと涙が零れた。

「ファラミア?!どうした?何故泣く?」

驚いて目を瞠るボロミアのその碧の瞳に吸い寄せられる様に、ファラミアは兄の肩口に顔を埋め、その肩を涙で濡らした。

「泣くな、ファラミア。

 そなたが泣くと、私が困る」

幼子をあやす様に、ボロミアは繰り返し、繰り返し、優しく弟の背を撫でた。

 

“愛しています、愛しています、愛しています、兄上…”

 

ファラミアは何度も何度も心の内にそう繰り返した。

 

ひとしきり泣いた後顔を上げたファラミアの肩に手を置いて、その髪を撫でたボロミアは、ふとその腕に目を留めた。

「ファラミア、そなた怪我をしているではないか」

「え?」

その時初めてファラミアは、茨の棘で破れた服の腕に血が滲んでいる事に気が付いた。

「兄の事は言えぬな」

笑いながらボロミアは腰に巻いた飾り帯を解き、弟の腕に巻き付けた。

「さあ、帰ろう、ミナス・ティリスに。

 早く帰って傷の手当てをせねば」                                                                                     

 

ミナス・ティリスに向かって馬を駆るボロミアの後ろで、ファラミアは温かい兄の背にその身を預けていた。

「そなたの馬は、助けてやれず可哀想な事をした」

「貴重な馬を失ったとなれば、また父上のご叱責を受けましょうね」

「そんな事はない!」

兄は強い調子で言い切った。

「確かに良い馬ではあったが、そなたの無事には代え難い。

 父上もそれは十分承知しておられる」

兄の言葉に淋しく微笑むファラミアの表情は、しかしボロミアには見る事は出来ない。

「それに馬なれば、次のそなたの誕生日にローハンから新しい馬を贈って貰える様、私からセオドレド殿に頼んでおこう。

 ローハンの馬が手に入るとなれば父上も文句はおっしゃらないであろう」

 

”セオドレド殿…”

 

馬の司と言われる同盟国・ローハンの継嗣セオドレドとボロミアは、齢が同じであるせいか、ボロミアの大角笛継承式で顔を合わせて以来すっかり昵懇の仲となっていた。

ボロミアより幾分背が低くほっそりとしたセオドレドは、ロヒアリムには珍しい母方の血を引く黒髪豊かな、一見すると女性かと見紛う程嫋かな麗人であった。

昨年の兄の誕生祝いに、ローハンから献上品である見事な栗毛の馬を引いてやって来たその継嗣と、兄・ボロミアが連れ立ってエクセリオンの噴水広場を歩く姿を垣間見た女官達などは「御友人というより美男美女の恋人同士の様な」などと、口さがなく噂した。

その光景はファラミアも目にしていた。

 

ファラミアの脳裏にその光景が鮮やかに蘇り、兄を見る継嗣の黒曜石の瞳の色がファラミアの胸を焼いた。

 

ファラミアは思わず兄の腰に回した手に力を込めた。

「どうした、ファラミア?

 傷が痛むのか?」

心配そうに尋ねる兄の背に頭を押し付けて、ファラミアは小さく首を振った。

“痛むのは腕の傷ではありません…”

ファラミアは喉の奥にその言葉を飲み込んだ。

無言で自分の背に頭を押し付けている弟を、ボロミアは傷の痛みに堪えていると思い込んだ。

「すぐにミナス・ティリスだ。

 少し速度を上げる故、振り落とされぬ様しっかり掴まっておれ」

ファラミアには、なぜ兄がその様に言うのか全く分からなかったが、ただ兄の言葉が嬉しく、見かけよりずっと細い兄の腰に回した腕に更に力を込めて、兄の背にぴったりと身を寄せた。

兄の背中からは暖かな日の温もりが感じられた。

 

“兄上のこの背中は自分だけに許された場所だ”

 

ふとファラミアの心にそんな思いが湧き上がった。

 

幼い頃背負って貰った兄の背、暗い冬空の下遠雷に驚いて取り縋った兄の背・・・それらを許されるのは、弟であるファラミアだけの特権だ。

 

“自分だけに許された…”

そう思うだけでファラミアは満ち足りた幸福感に包まれ、うっとりと兄の背に体を預けた。

 

ミナス・ティリスに着くとすぐ、ボロミアは厩舎の馬丁に愛馬を預けファラミアの手を引いて薬材庫に向かった。

すると丁度その時薬材庫から出て来た療病院の薬師であるヨーレスと出食わした。

捕まるといつまでも話が終わらず閉口する事もあるが、腕の良い古株の薬師である彼女に、弟の傷の手当てをして貰おうとボロミアが口を開きかけた。

しかしボロミアが口を開くより早く、ヨーレスはボロミアの頬の傷に目を留めた。

「まああああ!若様!どうなさったんですか!その傷は!」

気が付けば、いつの間にかボロミアの滑らかな白い肌に、くっきりと一筋の赤い傷跡が線を引いていた。

「何大した事はない、かすり傷だ。

 オークの矢が掠って…」

「オークの矢ですって!」

ヨーレスは手にしていた薬草の束を取り落とすと、爪先立ちになって丈高いボロミアの顔をぐいっと自分の目の前に引き寄せた。

まじまじとその頬の傷を見詰めた彼女は

「かすり傷ですって!とんでもないですわ!」

と憤慨した。

驚いて目を白黒させているボロミアに、ヨーレスはがみがみと捲し立てた。

「オークの武器を侮ってはいけません!これは毒の傷ですわ!あの様な者達が使う道具にはよくよくお気を付けにならないと。

 性質の悪い毒だったらどうなさるのですか!若様の綺麗なお顔に傷跡が残ってしまいますわ」

「それ程大袈裟なものでは…。

 痛くもないし…」

「若様っ!痛くない傷ほど恐ろしのですよ!痛くないからと放っておくと一生消えない傷跡が残ったりするものなのですわ」

言い返す言葉がなく、困った表情を浮かべたボロミアの腕をぐいぐいと引っ張って、ヨーレスは療病院の方に歩き出した。

「丁度ニエノールが良い薬草を摘んで来たところです。

 急いで手当てしなくては」

「ヨーレス、それよりファラミアの…」

「それより?!それよりですって?!若様は私の話をお聞きになっていらっしゃらなかったのですか?」

振り向いたヨーレスにきっと睨まれて、ボロミアはすっかり弱りきって小さくなった。

基本的に子供と女性に弱いボロミアは、弟を振り返って苦笑を漏らすと、素直に彼女に手を引かれて行った。

 

後に残されたファラミアの胸の内には言い知れぬ不安が広がっていた。

 

愛し過ぎてはいかん

灰色の放浪者はそう言った

過ぎたる愛は人を殺し、心を壊す

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