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三点の力学(後編) 4

 

午後の陽射しを背に受け、出立の遅れを取り戻すべく東谷に急いでいたマーク第3軍の兵達は、その時背後に地を蹴立てて響く蹄の高い音を耳にして一斉に馬を止め、振り返った。

西日を背負った影に目を細めたロヒアリム達は、白の木の紋章を染め抜いた革鎧に身を固めて駆け込んで来た年若い従士とも見受けられる華奢な騎兵が兜を取った瞬間、唖然とその顔を凝視した。

呆然と見詰めるエオメルに向かってその騎兵は晴れやかに微笑んだ。

「兄上」

 

 

第3軍の出立を告げる角笛の音が小さくなる中、セオドレドは手にした包をエオウィンに差し出して言った。

「半刻後にこれを着て私の居室に参れ」

訳の分からぬまま勢いに圧されて包を受け取ったエオウィンが疑問を口にするより先

「決して人に見咎められるなよ」

そうとだけ言い置くと、ドオドレドはさっさと踵を返して部屋を出た。

 

きっかり半刻後、セオドレドの居室を訪れたエオウィンは書簡をしたためる従兄の傍に控える、小姓の頃からセオドレドに仕え、エオウィンもよく見知った金糸の様な髪と涼やかな碧の従士が持つ一領の革鎧に目を奪われた。

「着てきたか?」

セオドレドの声に、従士が手にした革鎧から目を離せぬまま「勿論です」と答えたエオウィンは、羽織っていたマントをばさりと脱ぎ捨てた。

羽根ペンを持つ手を止め、書簡から目を上げたセオドレドは

「そなたは上背がある故、私の古いダブレットが間に合ったな」

と笑った。

 

 

呆然とエオウィンの話しを聞いていたエオメルがそこで漸く我に返り、掠れた声を押し出した。

「しかし…なぜ殿下がその様な事を…」

「今朝方の評議に於いて、殿下の第2軍が第1軍に代わり角笛城に派遣される事が決したと…」

エオウィンがそう言い差したのを耳にした途端、ロヒアリム達の間に怒気を含んだざわめきが沸き起こった。

「馬鹿な!

 第2軍と言えば、殿下御自身が自ら兵を選び手塩に掛けて育てた神速の騎兵部隊ぞ!」

「拠点防御に第2軍を充てるなど有り得ぬ!」

「我等が王城に居ればその様な決議、断じて許さぬものを!」

「王は一体何を考えておられるのだ!?」

軍団長と共に兵等を宥める方にまわっていたエオメルは朋輩のその言葉に、はっと表情を険しくすると、妹に目を向けた。

「もしやその決議…ガルモド殿が…?」

兄の問いにエオウィンが頷いたのを見たロヒアリム達はいきり立った。

「あの毒蛇めが王を誑かしたかっ!」

「くそっ!顧問官の立場を利用しおって!

 重臣とはいえ許せぬ」

「そうとなれば、これから王城へ取って返し、あの毒蛇めを吊るし上げてやるわ!」

「おおっ!」

と剣を抜き放った兵達の間に

「なりませんっ!」

エオウィンの声がそう凛然と響き渡った。

すっと背を伸ばし毅然と顔を上げるエオウィンの姿に、いきり立っていたロヒアリム達は水を打った様に静まり、掲げていた剣を持つ手は下ろされた。

「殿下はその様な自体になる事を案じられて、密かに私をこの使いに立てられたのです」

「どういう事だ、エオウィン?」

 

 

革の胸甲を、従士にダブレットの紐で留めてもらいながらエオウィンは、傍の机で書簡をしたためるセオドレドが語る評議会での顛末に、息を詰めて耳を傾けていた。

「敵の狙いは私の首であろう」

他人事の様に言いながら、セオドレドは書簡を書き終えた羊皮紙をくるくると丸める。

「是が非でもという訳ではなく、あわよくば、という程度の事ではあろうがな」

丸めた羊皮紙に蜜蝋で封をし、セオドレドは2枚目の羊皮紙を広げる。

「確実に私の首を取りたくば、敵は公に戦を仕掛けてこよう。

 だがそれをせぬのは、秘密裏に進めている計画が公になるのを恐れておるからだ。

 私の首を狙うは、その計画を進める上で私が邪魔になると踏んでの事であろう」

「それはもしや…、セオドレド様がアイゼンガルドに疑惑を抱いておられる為と…」

「白の妖術師は既に敵の手に堕ちておる」

セオドレドの頬に皮肉な笑みが浮かぶ。

「私はそう見ておるが、確証は、ない」

胸甲を留め終えた従士は続けて背甲を留め始める。

「その確証を得る為にはこちらも内密で動かねばならぬ。

 アイゼンガルドにこちらの動向を悟られてはならぬのだ」

2通目の書簡を書き終えたセオドレドはそれも丸めて封をする。

胴着を装備したエオウィンに向き直ったセオドレドは、年下の従妹にその羊皮紙を差し出して言う。

「それ故私は自らの手勢を動かす訳にはいかぬ。

 今この城中でこの書簡を携え、第3軍の後を追える者はそなたしかおらぬのだ」

 

 

エオウィンは携えて来た書簡を第3軍団長に差し出した。

「殿下のご指示がしたためられてあります。

 読み終えた後燃やす様にと」

 

軍団長は緊張した面持ちで「承知した」と頷き、恭しくその羊皮紙を受け取った。

次いでエオウィンは背嚢から2通目の書簡を取り出すと、瞬きもせずじっと妹を見詰めている兄の方へと馬首を巡らせた。

羊皮紙を持つ手が微かに震えるのを感じエオウィンは小さくひとつ息を吸う。

“怯んでは駄目よ、エオウィン。

 セオドレド様もおっしゃったじゃない。

 大丈夫、大丈夫よ“

 

 

緊張した面持ちで第3軍団長に宛てた書簡を受け取ったエオウィンの前に、先に書き終えていた書簡を更に差し出しセオドレド言った。

「これはエオメルに」

その言葉に緊張していたエオウィンの表情がぱっと明るくなる。

だがその羊皮紙を受け取ろうとしたエオウィンの手は

「ボロミアに宛てた親書だ」

という続く言葉にぎくりと動きを止める。

強ばった従妹の表情にセオドレドは

「相変わらずだな。

 何もそう案じずとも、エオメルの“あれ”は、単純な子供の憧れだ」

と苦笑するが、寧ろその言葉にエオウィンの頬には朱が上る。

「まあ、そうボロミアを嫌うな。

 何故それ程そなたに嫌われるか分からぬと、ボロミアが悄げておったぞ」

笑いを含んだ声でセオドレドは言う。

「別に…嫌ってなどおりませぬ」

ぶっきらぼうに答えたエオウィンはひったくる様にセオドレドの手から羊皮紙を受け取ると、ぷいっと口を尖らせた。

 

 

兄に羊皮紙を差し出しエオウィンは言った。

「殿下は兄上にこの親書を託すとおっしゃいました」

「親書…と言うと?」

一瞬躊躇した後、エオウィンは硬い声で続う。

「ゴンドールの…ボロミア様に宛てたものです」

言った途端エオメルの頬が紅潮するのを見て取ったエオウィンの眉根にむっとしわが寄る。

敢えて感情を殺した声で語を継ぐ妹に気付く様子もなく、エオメルは瞳を輝かせて羊皮紙を見詰めている。

「近衛部隊の派遣を要請する為…」

妹の言葉が終わるのも待たず「相分かった」と、羊皮紙から目を離さぬまま、こくこくと頷いたエオメルはその親書に手を伸ばすが、羊皮紙はエオメルの手に渡らない。

親書から手を離そうとしない妹に

「エオウィン?」

と兄から怪訝そうな目を向けられ、エオウィンは渋々羊皮紙をエオメルに渡す。

だが如何にも嬉しそうに羊皮紙を見る兄の顔がどうにも癪に障って仕方ない。

それ故エオウィンは、これ見よがしに尖った口調で従兄の厳しい言伝を兄に告げる。

「ミナス・ティリスまで3日で駆けよ、というのが殿下のお言葉です」

やに下がった顔で羊皮紙を見ていたエオメルはその言葉を耳にした途端弾かれた様に顔を上げた。

「3日ぁ!?」

裏返った兄の声に溜飲を下げたエオウィンは、心の中で“ふふん”と鼻を鳴らすと、改めてセオドレドの言を伝えた。

 

 

今回の件でセオドレドが最も懸念しているのは、下手を打てば国が割れる、という点にあった。

ローハンの兵が王命を蔑ろにしてセオドレドの言に従ったとなれば、顧問官として王の傍に場を占め、蛇の舌を持つ男が王の耳に太子の王に対する叛意を囁くのは必定である。

兵団だけに関して言えば、ローハンの兵達は皆無骨なロヒアリムの気質が強く、ガルモドの如き如何わしい輩に善き感情を持つ者はない。

だが王城を空ける事の多い兵等と違い、メドゥセルドに常駐する廷臣等の中には、王の覚え目出度いガルモドに阿って甘い汁を吸おうと考える者もおらぬ訳ではなく、加えてセオドレドを快く思わぬ者も存外多いのである。

ローハンの兵達にとってセオドレドは個人の趣味嗜好がどうであれ、極めて有能な指揮官でる事に違いなく、一国の世継ぎとしては信じ難い程に砕けた気性は、特に若い兵等を中心に篤い信頼と人望を集めている。

しかしそれは長く政に携わる古参の重臣達にしてみれば、ある種の不快を伴う疑念を抱かせるものでもあるのだ。

それ故セオドレドは自国の兵を自らの指示で動かす事が出来ぬ。

セオドレドにとってみればガルモドを中心とした重臣達に王を人質に取られている様なものであり、独断で兵を動かせば、事は謀反の大罪と挿げ替えられかねぬである。

 

 

「それ故ミナス・ティリスに近衛の派遣を?」

エオウィンは兄の言葉に頷く。

「殿下個人の交誼を通じた要請であれば、責めを負うは殿下お一人の身で済む事とおっしゃって」

第3軍の兵達はその言葉を耳にするや、皆表情を歪め奥歯を噛み締めた。

重い空気が場を覆うのを感じ、エオウィンは乾いた声を押し出す。

「しかしこの策は脚の速さが命。

 時を逸せば全てが無に帰せしめます。

 殿下のお考えでは敵が動くは角笛城から第1軍が退いた後、角笛城に残るが第2軍のみとなり防備が手薄となった機であろうと。

 時を稼げるは角笛城への出立を引き伸ばせるのが精々4、5日、角笛城到着後引き継ぎと称して第1軍を角笛城に引き止めておけるは2、3日が限度。

 殿下は更にその2日後辺りに敵が一挙に攻め込んで来ると読んでおられます」

「となれば…」

兵の一人がそう口にしたと同時に兵達の視線がエオメルに集まり、エオメルの顔にはさっと緊張の色が走る。

ロヒアリム達の中でもエオメルが屈指の乗り手である事は衆目の一致するところである。

だが例え生粋のロヒアリムとはいえ、東谷からミナス・ティリスまでの距離を3日で踏破するのが如何に過酷な行程であるかは兵等の想像に難くない。

早馬を駆っての使者となれば装備を軽くした上単騎での騎行を余儀なくされる。

そうとなれば夜陰に馬を駆る事は出来ず、今から東谷に向かい装備を整えるのを顧慮すれば、出立は夜明けを待たねばならない。

それから後3日でミナス・ティリスに到着するとなれば、必要最低限の休息以外、日のあるうちはほぼ駆け通しとなるのである。

口を開きかけたエオウィンを制する様にエオメルは

「承知した」

と表情を引き締め言った。

「このエオメル、必ずや3日のうちミナス・ティリスに到着してみせる」

それはこれまでエオウィンが見たどの時より凛々しく輝く兄の顔だった。

その時パチンと剣を鞘に収める鍔の鳴る音が響き、抜き身のままの剣を手にしていた第3軍の兵達はその音に呼応する様に、次々剣を鞘に収め、エオメルに向かって繰り返し剣の鍔を鞘口に打ち付け始めた。

エオメルの決意を称える様な涼やかなその音は、西に日の傾き始めたローハンの平原に高く響き渡った。

 

エオウィンはその音を聞きながら、つい先刻まで胸に抱えていた蟠りが跡形もなく消え去り、代わりに目の前で凛と顔を上げる兄への誇らしやかな敬慕の想いが胸に溢れてくるのを感じていた。

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