がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
三点の力学(後編) 7
兵舎の食堂に入った瞬間上がった歓声に、エオメルは一瞬びくっと足を止めた。
戸惑うエオメルにミナス・ティリスの近衛兵達は「遠路よく参られた」「東谷より3日での騎行とは御見逸れした」など、口々に歓待の声を掛けながら次々とエオメルの周りに集まってくる。
すっかり近衛の兵に取り囲まれ、思いもかけない事態に落ち着きのない子供の様にうろうろと視線を泳がせていたエオメルは、上背のあるその視線を兵等の頭越しに食堂の奥へと向ける。
そこに目指す人の眩しく綻ぶ笑顔を認めるたエオメルは、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
突っ伏していた寝台から身を起こしたエオメルは、これ以上ボロミアに醜態は曝せぬと気力を奮って身支度を整え、官邸の中にある食堂へと向かった。
しかし勢い込んで扉を開いた食堂の内はがらんと人気がなく、昼餉の刻限にはいささか早過ぎたかとエオメルが拍子抜けしていたところへ、扉が開く音を聞きつけた給仕の少年が厨房から顔を出した。
さらりとした蜜色の髪が彼の人を思い起こさせる愛らしい少年が訝し気に小首を傾げるのに対し
「昼餉の刻限には早過ぎたであろうか?」
そう困惑気味に尋ねたエオメルを見て“あ”と少年は思い当たった様子で
「エオメル様ですね」
と言った。
「昼餉のご用意でしたら兵舎の食堂の方に整えてあります」
「兵舎の?
ではボロミア殿とはご一緒出来ぬのか」
思わず気の抜けた声を出してしまったエオメルに、少年はきょとんと目を丸くした。
「なぜボロミア様とご一緒出来ないのです?
ボロミア様は兵舎で近衛の方々と昼餉をご一緒なさいますのに」
「え?」
今度目を丸くしたのはエオメルの方だった。
「ローハンではお世継ぎの君は兵卒の方と食事の卓を囲んだりはなさらないのですか?」
給仕の少年はそう問うた。
「以前こちらに勤めていた兄から、ローハンの継嗣様は大層お美しく気さくなお方だと聞き及んでいたのですが…」
少年の声に失望の色が滲むのを聞きとがめたエオメルは慌てて言い募った。
「いや、殿下は勿論兵と共に食事の卓も囲むし酒も飲む。
決して兵との間に壁を隔てる様なお方ではないぞ」
実際のところセオドレドの場合、城中の食堂で大人しく食事を摂っている事の方が稀である。
用もないのにしょっちゅう兵舎に入り浸って兵等と食事を共にするなど日常茶飯事であり、酒豪で知られるだけに、どうかすると昼間から非番の兵と兵舎で酒盛りなどしている事さえあるという有様なのだ。
壁を隔てるどころではない。
当然廷臣達の中には世継ぎのこの所業に眉を顰める者は多い。
だが、日頃世継ぎの奇行には口煩い継嗣の副官がこの点に関してだけは全くセオドレドに口を差し挟むこともなく、寧ろ廷臣達に対し継嗣を擁護さえしている為、廷臣達も声を大にして異を唱える事が出来ずにいる。
何しろ殊セオドレドに関する限り、王であるセオデンですらこの老副官には頭が上がらぬのである。
廷臣達が挙って
「そもそも副官殿はご自身が下士の出である故、公私混同されておられるのではありますまいか」
そう注進に及ぶ度、セオデンも渋面を作って頷きはするが、かと言ってその言が王に容れられる事もない。
セオデンには妻であった王妃エルフヒルドがセオドレドだけを残し逝った後、元々王妃付きの侍女であった乳母に息子を任せきりにしたという忸怩たる思いがある。
その乳母の夫というのが件の副官なのである。
実質上セオドレドを育てたのは副官とその妻であり、それが為にセオデンは、実の息子であるセオドレドに対し、老副官程に率直な物言いさえ出来ずにいる。
“いっそ副官が廷臣等の言う様な人物であれば…”
注進に訪れる重臣の言葉にその様な考えが脳裏を掠める度、セオデンは己の卑小さに苦々しい思いを抱く。
厳格さで知られる副官がその様な人物では有り得ぬ事など、セオデンは重々承知しているからだ。
それが所以に重臣の言をセオデンが容れる事はない。
しかしそれにも係わらず重臣の毒ある言葉は、目に見えぬ苦い澱の様にセオデンの腹の底に溜り、凝っていった。
「皆いい加減にいたさぬか。
エオメル殿が困っておられよう」
食堂の奥から掛かった声に、エオメルを取り囲んでいたミナス・ティリスの近衛兵達は皆一斉に振り返った。
特に高座を設けるでもなく、架台テーブルの上座に席を取っただけの総大将の隣に立ち、兵等にそう声を掛けたのは、エオメルもよく見知ったボロミアの副官グウィンドールだった。
柔和な中にも厳粛な響きを持つその声に、兵等は皆悪戯が見つかった子供の様な照れ笑いを浮かべると、エオメルの肩や背を叩きながらそれぞれの席へと戻って行く。
後に残ったエオメルがグウィンドールに目を向けると、温厚さで知られる副官は、穏やかな笑顔でエオメルに頷き掛けた。
その笑顔に促されて上座に足を運んでエオメルに目の覚める様な笑顔を向けて立ち上がった白の塔の総大将は、美しい手を差し出して言った。
「改めて申し上げる。
よくぞ参られた、エオメル殿」
「ボロミア殿…」
頬を紅潮させたエオメルが、躊躇いがちにボロミアの長い指を手に取った時、ミナス・ティリスの近衛兵達の間から盛大な拍手が沸き起こった。
驚いて架台テーブルを振り返ったエオメルは、そこに惜しみない拍手をローハンの若駒に贈るミナス・ティリス近衛兵達の姿を認め、胸が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
同盟国とは言え、ローハンはゴンドールから見れば比較にならぬ程の小国に過ぎず、国の歴史に於いては、遥か上古より西方の雅な伝統を連綿と受け継いできたゴンドールとは比ぶべくもない。
中でも特に西方の血を濃く継ぐゴンドールの名だたる家の名を負う者達は、表立って口にこそ出さぬものの、陰でロヒアリムを指し“所詮馬の司の田舎者”“西方の恩寵を受けぬ荒くれ者よ”と嘲っている事を、ローハンの民であれば、知らぬ者はない。
確かにローハンは小国であり、国の歴史も浅く、西方の恩寵を受けぬ唯人の国である。
だがそれ故ローハンでは民と王家の距離が近く、身分の上下を超え言いたい事が言い合える自由な空気がある。
勿論ローハンの中にも身分や位階に重きを置き、高位にある者が市井の民と親しく付き合うのを快く思わぬ者もいる。
だが、世継ぎであるセオドレドがローハン第2軍の軍団長として、事実上軍の全権を握ってからは、一部の厳格な身分制を望む重臣達の声は封じられている。
その点に関してエオメルは、セオドレドの性分もさることながら、より大きな要因は副官の存在なのではないかと見ている。
「兵と将との間に垣根を設けてはなりません」
これは自らも嘗て下位の一兵卒であった老副官の口癖だ。
「顔すら拝した事のない御大将の為に体を張ろうという雑兵はおりますまいが、共に飯を食い酒を飲んだ同胞の為とあらば、例え身分卑しき一兵卒であろうと、御大将の御為に命も懸けようというもの。
一旦戦場に出ようものなれば、兵も将も命の価値は皆同等。
出自の貴賤で身は守れませぬからな。
兵に見捨てられた将など、戦場に出る前からその末はしれておりますぞ」
事ある毎に口を酸っぱくしてそう言う老副官に
「分かった、分かった。
爺の話しはもう聞き飽きた」
そう憎まれ口を叩きながらも、セオドレドがこの老副官を蔑ろにするなど、夢にもない。
この様に全軍の指揮権を持つ世継ぎとその副官が、揃って自ら一兵卒等と共ある事で、ロヒアリムの中には身分の上下を問わぬ気風が根づいている。
その兵等が家に帰れば民の間にも同様の気が生まれ、ひいてはそれが、格式に囚われない自由闊達な風をローハンに齎しているのだ。
エオメル自身も胸襟を開きあう友等は、決して名のある家の者達ばかりではない。
身分の別なく誰もが唯人である気概を胸に抱き、民と王家が共に生きる祖国の気風を、エオメルは心から愛し誇りに思っている。
だがそれはあくまでもローハンの話だ。
勿論エオメルはボロミアがローハンを軽んじているなどとは微塵も思ってはおらぬが、何と言ってもボロミアは大国ゴンドールの中でも王家に次ぐ名家フーリン家の正嫡であり、ゴンドールの白き都、ミナス・ティリスの近衛を統べる白の塔の総大将なのである。
そのボロミアがよもや一兵卒等と同じ目線の高さで共に食事の卓を囲むなど、本来であれば俄かには信じ難い光景である。
のみならず、同盟国とは言え格下の小国であるローハンの一使者に過ぎぬ自分を同じその卓に招き、塩とパンを分け合おうとしているのだ。
込み上げる温かい思いが、エオメルの胸を満たしていった。
“ボロミア様はゴンドールの御方と言うより、寧ろ我らロヒアリムの様ではないか”
いつか目を輝かせてそう言った友の顔が瞼の裏に浮かぶ。
一刻も早く東谷に戻り、そう言った友に今日のこの事を話してやろう
憑物が落ちた様な晴れやかな気持ちがエオメルの胸一杯に広がっていた。
午後からミナス・ティリスの近衛兵達と行軍の準備をともにし、翌朝エオメルは東から射す白々とした早朝の光を背に、白き都の大門を潜った。
ボロミアは出立に際し大門の前で一旦馬を止め夜明け前の薄闇に沈む白の塔を見上げると、黒々とした窖の様な窓の一つに深々と一礼した後馬首を西に向け、白き都の大門を潜った。
公には出来ぬが故、見送る人の姿もなく、出立を告げる喇叭の響きもない戦に赴く兵達は、しかし誰もが誇らし気にボロミアの後に続き、馬脚も軽く西へと向かった。
白の塔の頂近く、灯も点さぬ小部屋にデネソールはいた。
“オルサンクに巣食う白の魔法使い、イスタリの長サルマンよ、見るがよい。
うぬ等西方より来たった者達が、弱き者、愚かしき者と侮る者等の何たるかを。
西方から遣わされた賢者、過たず道を選ぶイスタリなど片腹痛いわ。
うぬが持つ“目”を予が知らぬとでも思うてか、魔法使いよ“
デネソールの背後で西に開いた窓から吹き込む微風を受け、高台に置かれた球体に掛けられた覆いが微かに揺れた。
“西方の血を恩寵と呼び尊ぶ、うぬ等魔法使いには理解出来まい。
真に貴き力は西方の血などに備わってはおらぬ。
視る眼を持つ故視えず、聴く耳を持つが故に聴こえず、叡知を恃むが故に知る事なき愚かさを、うぬはその身を以て知るがよい“
西に開いた窓辺に立つデネソールの、遠く見通すその目は、明け染める朝の日を背負って角笛城へと向かう近衛部隊の後姿を、長く映していた。