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宿業 11

 

朝靄の立ち込める中、ファラミアは踊り出さんばかりの軽い足取りで野営地の砂を踏み、ボロミアの天幕へと向かっていた。

幼い頃、兄と遠出した日の朝の様にわくわくと胸を躍らせたファラミアは、夜が明けるのももどかしく、東の空が白み始めると共に自身の天幕を出たのだった。

“ボロミアをお起こして、朝餉をご一緒しよう”

朝が弱いボロミアの、ぽやんと焦点の合わない表情を思い浮かべるだけで、ファラミアの頬はつい緩んでしまう。

僅かな距離の間にも、あれこれと心弾む想像を巡らせながら、ボロミアの休む天幕の前に立ったファラミアは、戸布の外から

「兄上」

と、控え目に声を掛けた。

案の定返事はなく、暫しの間耳を欹てていたファラミアの口元には、覚えず笑みが零れた。

しかしそっと戸布を持ち上げて天幕の中に足を踏み入れたファラミアは、思いがけず簡易寝台の上に半身を起こしたボロミアの姿を目にし、ぎくり、と足を止めた。

ぼうっとした表情で寝台の上に起き上がったボロミアの、僅かに覗いた項は微かに淡い薄紅色に上気し、薄く開いた唇から零れた深い吐息には幽かな甘さが滲んでいた。

そこには確かに匂い立つ様な色香が纏いついている。

ファラミアは不覚にも下肢に溜まる熱を感じ、ごくり、と息を吞んだ。

「兄上」

絞り出す様なファラミアのその掠れ声で、漸く天幕の入口に立つ弟に目を向けたボロミアに、身の内の熱を悟られぬ様、慎重に寝台の端に歩を進めたファラミアは、極力平静を装い

「お加減が宜しくないのですか?」

と尋ねた。

「少々微熱がある様だが大した事はない」

そう笑ったボロミアの、心なし朱く色付いた目元が艶めかしい。

「最近妙な夢を見る様になってな。

 その夢を見るとどうも寝覚めが悪いのだ」

ボロミアの言葉に

「夢…ですか?」

と怪訝な表情で問い返すファラミアに

「内容はよく覚えておらぬのだが…」

のんびりとした邪気の無い笑顔でボロミアはそう答える。

「黒い靄の様なものに圧し掛かられて身動きが取れなくなる…」

そう言い掛けたボロミアは、ふっとそこで苦笑した。

「まぁ、確かに寝覚めの良くなる夢ではないな」

しかしファラミアにとって、それは笑い事で済まされる問題ではなかった。

 

ニンダルヴの野営地を撤収した後、ファラミアはヘンネス・アンヌーンに戻らず正規軍と共にミナス・ティリスへと向かう事にした。

 

ミナス・ティリスでは、戦勝報告の為大侯の執務室を訪れたボロミアの隣に次男の姿を認めたデネソールが僅かに眉を顰めていた。

その父に対しファラミアは、有体に調べたき古伝があるゆえ書庫を使う為戻ったとの旨を告げた。

訳はともかくも、書庫を使いたいとの言葉に嘘はないからだ。

案に違わず怪しまれる風もなく大侯から滞在の許可を得たファラミアは、早速その夜書庫へと向かった。

但しこの時ファラミアが向かったのは、一般に“ゴンドールの広大な書庫”として知られている白の塔の地階層に在る書庫ではない。

 

ゴンドールには一般に知られておらぬ書庫が別に在る。

 

その存在を知る者は極少数に限られており、執政家の嫡男であるボロミアにさえその存在は知らされていない。

ファラミアは成人を迎えた年にその存在を父から知らされた。

以来第1階層からミンドルルイン山の山肌に彫られた扉を潜り、幾度となく地下深く続く階段を降ってその書庫を訪ねた。

ボロミアには決して知られぬ訳にはいかぬ“隠された小部屋”の存在を思うと、階段を降りる足は重かったが、同時に“書痴”とも呼ばれるファラミアにとって、“広大”と評される白の塔の地階層に備えられた書庫をも遥かに凌ぐ書物の海は、抗し難い魅力もまた伴っていたのだ。

ミナス・ティリスに在った頃、人目を忍んで深更に幾度か通ったその書庫で、ファラミアは古い伝承の中に“夢で会おう”と言い交すただ人の国があるとの記述を目にしていた。

その時は古伝のひとつとして大して気に掛けなかったのだが、ニンダルヴの野営地で耳にしたボロミアの“妙な夢”という言葉が、ファラミアの胸に引っ掛かっていた。

ファラミアはその古伝の詳細を確かめずにはおられなかった。

 

角灯の淡い光を頼りに、微かな記憶を辿って探し出した書物の中に、その記述は確かに、あった。

ゴンドールより遥か北方の地に在るただ人の国で、旅に出る者達の間で言い交される言葉である、と。

更に詳しく文献を紐解くと、その言葉は一種の挨拶であり、実際に夢の中で互いに会う為の手立てがある訳ではない、という事が記されていた。

だがファラミアはその文献の、別の一節に視線が吸い寄せられていた。

『凝った想いが生霊<すだま>となり夜の夢を訪うなど、所詮は思い込みや勘違いの範疇に過ぎぬ』

“凝った想いが生霊となって…”

その言葉がファラミアの胸を深く抉った。

“ボロミアを想う者が居る…。

想いが凝って生霊となる程に…”

ファラミアは書物の上でぐっと拳を握り締めた。

“冗談ではない。

 想いが凝って生霊となるのなら…。

 それは他ならぬ私であって然るべきなのだ“

顔を上げ、角灯の光が届かぬ漆黒の闇を、ファラミアはじっと睨み据えた。

“生霊となってボロミアの閨に忍べるものならば…”

 

ヘンネス・アンヌーンに戻ってからも、ファラミアの脳裏からは地下書庫で見た文献の言葉が離れなかった。

 

生霊となってボロミアの夢に忍び入る者が馬の司の継嗣でない事は分かっている。

“あれは継嗣殿の愛し方ではない”

セオドレドであれば、良くも悪くも、もっと直截にボロミアに想いを告げるだろう。

では誰が?と思いを巡らせ始めると、ファラミアは疑心暗鬼で夜もおちおち眠れなくなった。

ボロミアとの物理的な距離もファラミアの不安を搔き立てる要素となった。

 

ひと月後、ファラミアは自ら足を運ぶまでもない内容の定例報告に出席する為、ミナス・ティリスを訪れた。

ボロミアが遠征に出ている事は承知していたが、それでも思いの外帰投の遅れたボロミアと顔をも合わせられぬままヘンネス・アンヌーンに戻るファラミアの足取りは重かった。

ニンダルヴでの作戦以降、黒の勢力が先鋭化し、ボロミアの出陣回数が格段に増えている事も気に掛かった。

報告を受けている戦況では近衛軍の常勝は決して崩されてはいないが、被害は着実に拡大している。

誰よりも民の命を大切に思うボロミアにとって、戦に勝利したとて死傷する兵や民が増える程、心に負う傷は増すだろう。

その様な時にボロミアの側近くに居られない事もまたファラミアには酷くもどかしかった。

 ボロミアを想う者が居る

 想いが凝って生霊となる程に

胸に蟠ったその懸念がファラミアの不安を募らせた。

 

それからひと月ほどの間、自分とボロミアを隔てるヘンネス・アンヌーンとミナス・ティリスのその距離は、正体の分からぬ誰かに付け入る隙を与えてしまうのではないかという焦燥感でファラミアを苛んだ。

結局ひと月後の定例報告に際し、ファラミアは再び自らミナス・ティリスへと足を運んだ。

前回同様ファラミア自身が出向く程の内容ではない定例報告の為、父が訝しむであろう事は容易に察せられたが、ファラミアは大侯に願い出るべきひとつの決意があった。

 

12月の下旬に差し掛かろうとするその日、ファラミアは周到に準備した正規軍復帰の申請書を携え、ミナス・ティリスに向かったのだった。

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