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名にし負う、王と呼ばるる2 -流浪(後編)-

 

中つ国の遥か西方、大海の彼方に在るエルフの故郷ヴァリノール。

至福の地であるそのヴァリノールにエルフを運ぶ船が出る事で知られる灰色港は、エリアドールの内陸深くに流れ込むルーン湾によって分断された青の山脈の麓にあり、港とは言っても海に臨んでいる訳ではない。

実際に大海を望むエリアドール西端の地を占めるのは、その灰色港を有するエルフの領国リンドンである。

青の山脈の峻厳な峰々によって人の住む平地から隔てられたリンドンは、エルフの領国がどこもそうである様に、領主であるキーアダンの許可なく西方の血を受けぬ者が立ち入る事は許されない。

 

アラゴルンが裂け谷を出てほぼ1年が経とうというその日の午後、灰色港に近い水辺の野営地で“さて、どうしたものか”と、アラゴルンは思案していた。

リンドンに入国する為には西方の血を受ける者である事を証立てねばならない。

バラヒアの指輪を北方王家の証として許可を得ればリンドンに入国出来ぬ事はないであろうが、アラゴルンとしては水夫になったという亡国の民に、身分を明かさず会ってみたかったのだ。

その方策を探るべく灰色港の様子を窺いつつ野営していたアラゴルンが、有効な手立ての見つからぬまま3日程を過ごしたその日、エルフの兵が守る港の門から、明らかにエルフとは認められない数人の水夫達が出て来るのを見咎めたアラゴルンは素早く荷物を纏め、そっと彼等の後を追ったのだった。

 

近くの村で酒場に入った彼等に続き、何食わぬ顔で彼等の席に近付いたアラゴルンに、思いもかけず彼等の方から声が掛かった。

「よお、兄ちゃん、あんたエミン・ウィアルの野伏かい?」

「ああ、そうだが」

そう答えたアラゴルンに「まあ、座れ」と椅子を勧めた男は、アラゴルンが腰掛けた途端好奇心の籠った目でこう尋ねた。

「ひょっとして兄ちゃん、南に行くつもりか?」

「南?」

思わず問い返したアラゴルンの顔を年配の水夫が覗き込む。

「兄ちゃん若ぇなぁ、そんじゃ南のこたぁ知らねえか。

 何しろこのわしにしたって、実際にエミン・ウィアルの野伏を南に乗せてったこたぁねえんだからなぁ。

 この辺りでエミン・ウィアルの野伏を見掛けるなんざ滅多にねえこったから、てっきりそうかと思っちまったぜ」

店の親父にアラゴルンのエールを注文した別の男が

「おいおい、エミン・ウィアルの野伏を南に乗せてったてえのは、あんたの爺さんの爺さんの、そのまた爺さんが最後なんだろ?

 それじゃエミン・ウィアルの連中だって、南に野伏がいるなんてこたぁ今じゃあ忘れちまってるさ」

と、年配の男を揶揄う様に笑った。

それを耳にしたアラゴルンは、運ばれてきたエールを受け取る手を一瞬止めて眉根を寄せた。

「北の野伏がわざわざ南に渡ってまで野伏を続けているというのか?」

アラゴルンが口にしたその疑念に男達は互いの顔を見合わせた。

 

アラゴルンの知る野伏とは、亡国アルノールの末裔が、敵に気取られぬ様密かに北方を警護する為の、世を忍ぶ仮の姿を指して呼ぶものである。

ならば今尚南の大半を占める大国として君臨する南方王国ゴンドールに、野伏という存在の必要はない。

公然と敵の警戒に当たって然るべき正規軍が、ゴンドールにはあるのだ。

 

「なんでだかは知らねえけどよ、実際俺達ぁ南から野伏を乗せてくるし、その連中を乗せてまた南へ戻るんだぜ」

と水夫の内の1人が言えば、別の男も

「北と南を結ぶ海路が今も生きてるってのはその為だって言うしな」

と腕を組んだ。

「まあ、北方王国の末裔って言ってもよ、北の野伏になる奴も、南の野伏になる奴も、俺等みたいにどこの国のもんでもない船乗りになる奴も、人それぞれってこった」

そう言って笑った男の声に、どっと場が沸いたのを見てアラゴルンは身を乗り出した。

「どこの国の者でもないというのはどういう意味だ?」

「俺等にゃ北も南も、国なんざ関係ねえって事さ。

 なんせ船乗りにとっちゃ海が故郷みてぇなもんだからな」

潮焼けした顔で胸を張る男の姿にアラゴルンが

「それじゃあ、あんた達は北方王国の復興を望んでないのか?」

そう勢い込んで訊ねると、水夫達は一瞬ぽかんとした後、皆一斉に吹き出した。

「北方王国の復興だぁ?

 おいおい兄ちゃん、気は確かか?」

「黒竜だの謎の騎士だの黄金の乙女だのってぇな御伽噺を信じる齢でもねえだろうによお」

そう、ばんばんと水夫の1人に背を叩かれ、アラゴルンは苦笑した。

だがその表情とは裏腹に、アラゴルンの心は晴れやかだった。

水夫達に礼を言って別れを告げ、エミン・ウィアルに帰る彼の足取りは軽かった。

 

半月後、エミン・ウィアルの隠里に戻ったアラゴルンの胸の内では、北方王国の復興など、すっかり“炉端で聞く御伽噺”と化していた。

“大いなる功業”を北方王国の復興と考える者があるとすれば、それはエルフや王侯諸侯の末たる者のみだろう。

エミン・ウィアルの里人達にとってもリンドンの水夫達にとっても、それは現実味のない夢物語にすぎない。

その事実がアラゴルンの心を軽くさせていた。

 

中つ国に於いてエルフ達が既に黄昏の時に入っている事は既知の事実だ。

彼らはいずれ遠からずこの中つ国を去るだろう。

ならばこのままのらりくらりと時を稼ぎ、西方へと去る彼等を見送る事も可能なのではないか、とアラゴルンは考え始めていた。

彼らの前で“仮面を被って綱渡りする事”など、アラゴルンにはとっくの昔からお手の物なのだ。

そう思うとアラゴルンは気が大きくなった。

あわよくば“大いなる功業”などに関わらず、エミン・ウィアルで一介の野伏として一生を送るれるのではないかとさえ思い始めていた。

野伏の暮らしの厳しさや貧しさなど、アラゴルンにとっては取るに足らぬものである。

その様な事は比べものにならぬ程の圧倒的な自由が、野伏の暮らしにはあった。

それは例えば、5日や10日風呂にも入らず着替えもせずとも、誰にも文句を言われぬ自由。

それは例えば、安いエールを飲んだくれて娼婦の腹の上で眠りこけても、誰にも咎めだてされぬ自由。

その様な自由こそが、アラゴルンを真のアラゴルン足らしめているのだと、既に誰よりアラゴルン自身がそれを知っていた。

 

それから半年以上もの間、アラゴルンはそれまでの人生と、そしてまだ知り得ぬそれから後の人生の中で、最も安閑とした平穏な日々を過ごし、心ゆくまでその自由を謳歌した。

 

アラゴルンのその安穏が破られたのは、夕べの風に秋の気配が感じられる様になった頃だった。

 

その日荒地の哨戒からエミン・ウィアルに戻ったアラゴルンの許に、裂け谷からの使者が来訪したとの旨が告げられた。

その使者が白の会議に出席する為裂け谷を訪れていたロスロリアンのガラドリエルから遣わされたのだと聞いたアラゴルンは、思わず身を強張らせた。

ガラドリエルと言えば、第1紀より中つ国に在る最長老のノルドールエルフであり、今この中つ国で、唯一至福の地・ヴァルノーリを知るエルフなのだ。

その、中つ国最高位のエルフであるガラドリエルからの呼び出しとあっては、流石のアラゴルンも緊張せぬ訳にはいかなかった。

しかしそこは裂け谷を出て以来強かさの増したアラゴルンの事である。

隙のない笑顔を作り「早々に出発致します故、その旨お伝え下さい」と使者を帰し、実際にはぐずぐずと出発を日延べした。

そのアラゴルンが重い足取りで、漸く2年ぶりに裂け谷の地を踏んだのは、季節が冬へと変わる頃だった。

 

真っ直ぐエルロンドの居室を訪ねたアラゴルンが、表面だけは大層神妙に到着の遅れを詫び、未だガラドリエルは裂け谷に留まっているのだろうかと尋ねた時

「勿論お待ち致しておりましたよ」

アラゴルンの背にそう涼やかな声が掛かけられた。

振り返ったアラゴルンは、声の主“光の奥方”ロスロリアンのガラドリエルをそこに認めると、射貫かれた様にその場に釘付けとなった。

中つ国で最も美しいエルフと言われるガラドリエルではあるが、アラゴルンを釘付けにしたのはその美貌ではなかった。

 ガラドリエルの瞳

全てを見通すかの様な、厳しく冷たい光を宿したその薄青い瞳に射竦められたのだった。

謂わば蛇に睨まれた蛙、というところである。

気が付けばいつの間にかエルロンドは退室しており、部屋にはアラゴルンとガラドリエルだけが取り残されていた。

心なし部屋の温度がひんやりと冷たくなった様に、アラゴルンには感じられた。

「世継殿」

呼び掛けられ、アラゴルンはぎくりと身を固くした。

「婿殿からはアラソルン殿の御嫡男と聞き及んでおりますが、相違ありませんか?若君」

そう問われれば、アラゴルンは渋々頷かざるを得ない。

“それにしても…”

と、アラゴルンは内心苦笑した。

ガラドリエルにとってケレブリアンの夫であるエルロンドは確かに娘婿ではあるのだが、裂け谷の領主にして伝承の大家として名を馳せるエルロンドを“婿殿”呼ばわりとは、ガラドリエルの前ではエルロンドと言えど形無しである。

とは言え、“若君”呼ばわりされているアラゴルンとて実のところエルロンドを笑えた義理ではない。

「それではやはり若君は、エレンディルの世継ぎという事になりましょうね」

アラゴルンの心中など歯牙にも掛けず、ガラドリエルは続ける。

「父祖であるエレンディルが打ち建てたヌメノールの王国に生得権をお持ちの御方であられます故」

「エレンディルの建てた国…?」

当惑の表情を浮かべたアラゴルンを、奥方の薄青い瞳が鋭く捉えた。

「よもや世継殿は御自分の生得権が北方王国のみにおありだなどとお考えではありますまいね」

ぐっと返答に詰まったアラゴルンに、ガラドリエルは氷の刃を思わせる微笑を向ける。

「世継殿が北方王国の復興を“大いなる功業”とお考え遊ばされておられるなら、それは考え違いと申し上げねばなりません。

 今この中つ国で亡国アルノールなど復興したところで、高々北方の小国にしかならぬのは目に見えておりましょう。

 なれば北方王国の復興など後の事。

 世継殿が成すべき“大いなる功業”とは、分断されたヌメノールの王国を再統一し、中つ国全土を占める王土の玉座に就く事に他ならぬのですから。

 その生得権をお持ちの御方なればこそ、アルウェン・ウンドーミエルは世継殿の寝間に忍びました由」

“あっ”と目を見張ったアラゴルンに、ガラドリエルは薄い笑みを向ける。

「世継殿は必ずや中つ国全土を統べる王となり、エルフの末の星、アルウェン・ウンドーミエルを妻に迎えねばなりません」

アラゴルンは奥方の言葉にごくり、と息を飲む。

「世継殿もご承知の通り、この中つ国に於いて我等エルフは既に黄昏の時にあります。

 アルウェンの後、新たなるエルフの誕生はありません。

 我等がこの中つ国に在るを許された時は、最早然程に長くはないのです。

 されば我等が中つ国を去った後、世継殿等人の手になる中つ国の歴史から、いずれエルフの存在は忘れ去られ、遂には消え去るに至るでしょう。

 されど…」

と、ガラドリエルの瞳の奥にきらりと光が閃いた。

「救国の士として玉座を得た者にのみ、望む歴史を書く手が与えられるのですよ、世継殿」

 

アラゴルンは言葉を失くした。

 

要するにガラドリエルはアラゴルンに中つ国全土を掌握する王権を得、その後それを以て国の正史を編纂し、エルフ達が中つ国を去った後々までもその存在を美しく気高く聡明な、人の上位に在るべき存在として国の歴史に留めおけというのである。

のみならず、エルフの妻を娶りその血を王統の正嫡に残す事で、歴史のその正当性をも担保せよ、と言っているのだ。

当然の事ながらその論理には、人という種族へ思いを致す気持ちや、況やアラゴルン個人の意思や感情を慮る心など微塵も含まれてはいない。

顔色を失くしたアラゴルンに、ガラドリエルは平然と言い放った。

「何を驚いておられます?

 世継殿も、なぜ妾が中つ国へ来たったかは存じておられましょう」

 

勿論知っている。

アラゴルンの養い親は伝承の大家エルロンドなのだ。

至福の地ヴァリノールを捨て中つ国へ渡ったノルドールエルフの中で、自ら統治する国を切望してヴァリノールを後にした唯一人の女性が、他ならぬガラドリエルなのである。

 

だがノルドール族のその中つ国への進軍行を伝える伝承は、ガラドリエルの伯父であるノルドールエルフの上級王・フェアノールに率いられたノルドール族によるアルクウァロンデの同族殺し以降、エルフの栄光も勲も語らない。

殊にアラマンでフェアノールの裏切りにあい、恨みに駆られて彼の後を追うべく極北の地・ヘルカラクセに足を踏み入れたフィンゴルフィン一党の辛酸を舐める“死の行軍”は、凄惨の限りを極めている。

その“死の行軍”を、フィンゴルフィン、フィンドロと共に率いたのがガラドリエルその人なのだ。

 

「ヘルカラクセでエルフの命が数多く失われました」

ガラドリエルが静かに言った。

「永劫の時を与えられた我が同胞の、余りにも多くの命が、です。

 その中には我が従兄トゥアゴンの妻であり、ヴァンヤールエルフで唯一人、我等と共にヴァリノールを捨てたエレンウェの…」

その時アラゴルンは、それまで揺るぎなかった奥方の瞳の奥に微かな影が過るのを見た。

 

その瞬間辺りは暗黒に包まれ、氷雪に引き裂かれた黒衣の裾をはためかせたガラドリエルの姿が、アラゴルンの前に現れた。

 

そのガラドリエルの周りで軋みを上げる氷塊の下に、ノルドール族の黒髪が次々と飲み込まれている。

「ガラドリエル!」

「エレンウェ!」

振り向いたガラドリエルが風雪を引き裂く悲痛な叫びと共に差し伸ばした指先は、しかしそのヴァンヤの細い指先に届かない。

見開かれたガラドリエルの瞳の中に、青い青いヴァンヤの瞳が映り、氷塊に爪を立てたガラドリエルの指先に血が滲んだ。

色を失くしたエレンウェの唇が象る言葉は、氷塊の軋みと荒れ狂う風雪に千切れ飛び、ガラドリエルの耳には届かない。

瞬きすら出来ず唯為す術もなく見詰めるガラドリエルの瞳の中には、氷塊に押し流されるヴァンヤの金の髪が痛いほどくっきりと焼付き、その残像がいつまでも長く長く尾を曳いていた。

“暁の星の様なエレンウェ、

 嫋やかで美しく、儚げな…エレンウェ…

 私は…貴女を…“

 

 ガラドリエルが泣いている

 

そう思った瞬間、周りからヘルカラクセの泡立つ暗灰色の氷海が一瞬にして掻き消えた。

後には唯眩いばかりに輝く白い衣に包まれた、すらりと丈高い“光の奥方”の姿だけがアラゴルンの前に残された。

 

奥方は、勿論泣いてなどいなかった。

 

「まず、世継殿は」

哀しい程澄んだ薄青い瞳で奥方は言った。

「南方王国ゴンドールの、玉座をお獲りにならねばなりません」

 

 

アラゴルンとの会談を終えた後、ガラドリエルは裂け谷に留まる事無くロスロリアンへの帰途に就いた。

裂け谷を去るガラドリエルの一行を、エルロンドの館の露台から、虚ろな目で眺め遣るアラゴルンの胸の内には、奥方の言葉が重く圧し掛かっていた。

 

南方王国ゴンドールの玉座を要求するなど、アラゴルンは夢にも思った事がなかった。

それ故奥方がそれを口にした瞬間、思わず「それは…」と言い掛けたアラゴルンは、“筋が違う”という言葉を、寸でのところで飲み込んだ。

「“エレンディルの世継ぎ”と、妾はお呼びしませんでしたか?」

アラゴルンを見詰める瞳をすうっと細め、ガラドリエルはそう言った。

「既に一度、イシルドゥアの後嗣アルヴェドゥイが、アナーリオンの末にあらずとの由にて、ゴンドールの執政ペレンドゥアに退けられている事は、妾も承知しております。

 されど人は苦難の時にありて、自らの苦難の種何処にありや、と、その訳を外に求めたがるものなのです」

ガラドリエルの瞳に戻った冷たい光に気圧され、返す言葉も見つからぬアラゴルンを前に、奥方は語を継いだ。

「“苦難の種、王無き玉座にありて

 玉座に王還りまします時

 白き都に救いの手は差し伸べられん“

 外からの救いを求める者等の前にこの様な言質を与えればどうなりましょうね、世継殿?

 その者等にとっては救いの手を持つ“還る王”の血統など、アナーリオンであろうとイシルドゥアであろうと、どうでもよい事なのですよ。

 傍系どころか庶出であっても歓迎するでしょう。

 況してや“エレンディルの世継ぎ”との免罪符は、格好の言い訳になり得ましょう。

 そして世継殿、その点に於いて、北からゴンドールに渡らせた野伏達は、実によく南の地で働いているのですよ」

ガラドリエルのその言葉は、じわじわと蜘蛛の糸が絡みつく様に、アラゴルンを雁字搦めにしていった。

「消え遣らぬ熾の火の様に、ゴンドールでは密かにこう囁かれているのです。

 “北方にエレンディルの世継ぎ在り。

  ヌメノールの王、いずれの後にか北より白き都に還り来たらん“」

血の気が引くのを感じ、口を開き掛けたアラゴルンを制し奥方が言った。

「北の王は南方ゴンドールに“還る”のです。

 世継殿は父祖アルヴェドゥイの時と同様、それをゴンドールの執政が拒むとお考えですか?

 ではその時には執政家そのものを潰してしまえばよいだけの事。

 そうではありませんか、世継殿?」

にこり、と笑ったガラドリエルに、アラゴルンは背筋が凍りつくのを感じたのだった。

 

老いる事なく永劫の時を生きるガラドリエルにとって、記憶とは時と共に失われ、或いは損なわれていくものではない。

“ヘルカラクセの死の行軍”は、光の奥方にとって今も尚、塞がる事なく血を流し続ける深い傷なのだ。

本来死すべき運命にない同胞等の夥しい命の無念をその肩に負い、ガラドリエルは数千年の時を生きている。

中つ国の歴史を改ざんしてでも同胞等の会稽を雪ぎ、過つ事なき尊ぶべき高貴なる存在として国の歴史にエルフを生かさせる。

その障りとなるのであれば如何なるものをも打毀す。

ガラドリエルのその臓腑を抉り血を吐くが如き痛切なる一念の前では、アラゴルンのささやかな願いなど、決して太刀打ち出来るものではない。

自分の無力を噛み締め、アラゴルンはその事実に打ちのめされた。

 

ガラドリエルの一行が見えなくなった後、アラゴルンは与えられた客室には戻らず、エルロンドの蔵書を収めた書庫へと向かった。

古い伝承を調べ、エリアドール北端の詳細な地図を書き写したアラゴルンは、夜明けを待たず裂け谷を後にした。

 

アラゴルンが向かったのは、エミン・ウィアルへの道を北に逸れた、北方に住む者でも滅多に足を踏み入れる事のない極北の地、フォロヘルだった。

フォロヘルには北方で唯一、人が海を望む事が出来る“氷の湾”がある。

アラゴルンはその氷の湾を目指したのだった。

目指す氷の湾にアラゴルンが着いた時、季節は既に真冬となっており、北の海は荒れていた。

 

北方の地で海を見る者は少ない。

アラゴルンも実際に海を目にしたのはその時が初めてだった。

暗灰色の波が高く岸壁に打ち付けられ、泡立つ波頭が厚く垂れ込めた雪雲の下に大きく砕け散る風景に、アラゴルンは毛皮の裏打ちをした外套をきつく胸元で掻き合わせた。

この寒々とした荒れ狂う極北の海でさえ、ヘルカラクセの軋る氷海には遠く及ばないだろう。

“南の国の温かい海を見てみたい”

その時不意にアラゴルンの胸に抑えがたいその強い望みが芽生えた。

耳を聾する波音にさえ消える事のない声が、アラゴルンの耳の奥で囁いた。

“お天道さんがこう、きらきら金色なんだ”

“浜の砂なんざ洗ったみてぇに真っ白でよ”

“海の色ってったらそりゃあもう、翡翠を溶かしたみてえに透き通った翠色でな”

それはリンドンの水夫達の言葉だった。

 

金と白と、透明な翡翠の色

アラゴルンには、見た事もない南の海の、その鮮やかな色彩が見える様な気さえした。

 

自分はいずれ王位を簒奪する者としてその地を踏まねばならないだろう。

だがその前に唯一度でいい、唯一介の流浪する野伏としてその地を訪ねてみた。

切に切に、アラゴルンはそう望んだ。

それはアラゴルンが嘗て一度として感じた事のない、切なる望みだった。

 

 

エミン・ウィアルに戻ってからもその時胸に抱いた想いはアラゴルンの中で抑えがたく膨れ上がった。

遂には娼館の寝間に在ってさえ、瞼の裏に南の海の翡翠の色が思い浮かんだ。

“重症だ”

アラゴルンは、遣る瀬無くそう自嘲した。

最早南への憧れは止み難く、裂け谷を出て4年目を迎えたその年の初め、遂にアラゴルンは南方への渡航を決意した。

とは言え、それをエミン・ウィアルの野伏等に告げる決心がつかぬまま、それから3月程の時を、アラゴルンは無為に過ごした。

そのアラゴルンの背を

「南に行きたいんだろ?」

そう言って叩いたのは隠里の野伏の方だった。

返答に詰まったアラゴルンにその男は屈託なく笑って言った。

「ルーン湾の近くの酒場でリンドンの連中に聞いたんだよ」

いつの間にかアラゴルンの周りに集まって来たエミン・ウィアルの里人達は、皆口々に、裂け谷から戻って以来アラゴルンの様子がおかしい事、この1年程はしばしばルーン湾まで出向き、リンドンの水夫達と会っている事に気付いていると言った。

「行って来い!」

どん、と勢いよくアラゴルンの背を叩いて野伏の一人が言った。

「何処へでも、行きたいとこへ流れて行けるのが、俺達野伏ってもんだ」

「お前ぇは若ぇんだ、まだまだいくらでも中つ国中を流離って、見たいもんを何でも見なくちゃなんねえさ」

年配の野伏はアラゴルンの肩をしっかり掴んでそう言った。

「南方ってのはここらよりずっと暑いんだろ?

 南方用の服も仕立てなくちゃね」

女房等は人の好い笑顔で言い、子供達は

「僕らも兄ちゃんがアセラスを干すの手伝うよ!」

と声を上げた。

目頭が熱くなるのを感じながら言葉にならぬ想いを込め、アラゴルンは里人達の手を、一人一人しっかりと握り締めたのだった。

 

こうして南方への渡航を決めたアラゴルンは、その年の初夏の頃、決意を胸に裂け谷に足を運び、エルロンドの許を訪ねた。

どう切り出すか考えあぐねていたアラゴルンに、エルロンドはそれを予期していたかの様な1通の書状を差し出した。

「この書状に事の仔細をしたためた。

 南方にて灰色の放浪者と呼ばれるイスタリを探し、この書状を渡すがよい。

 さすれば賢者の助力を得られよう」

 

その後訪れた母の居室でアラゴルンは、エルロンドにすらその存在を告げていないというひとつの鍵を手渡されたのだった。

“いずれ我が意に通ず王

 北の地に現れ出たる時

 我、南方より道を示さん“

アラゴルンの父・アラソルンは

“これは北方王家秘中の秘故、息子以外には決して知らせてはならぬ“

と、鍵と共にその言葉を残して亡くなったのだ、とギルラインは言った。

王家の正嫡のみに伝えられてきたという、互いの尾を咬み絡まり合う蛇を模った鍵。

 

 

ぱちり、と薪の弾ける音で我に返ったアラゴルンは、掌の鍵から目を上げ、頭上に広がる満天の星を仰ぎ見た。

 

 年が明けたら南へ発つ

 金と白と、透明な翡翠の色を求めて

 

南の空で一際大きく輝く星が、手の中の鍵を握り締めたアラゴルンに、明るく白い光を投げかけていた。

 

 

 

-了-

 

 

 

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