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三点の力学(中編)

 

グウィンドールが家に帰ると、声を掛けるより前に扉が開き、次男のモルメギルが「お帰りなさい!父上っ!」と抱きついてきた。

「おお、今帰ったぞ」

そう言って抱き上げた息子の腕にはまた新しい擦り傷が増えている。

「お帰りなさいませ」

妻の声で戸口に目を遣ると、長男と長女も家から出て来ている。

「留守中変わりなかったか?アダンエゼル」

父の問いにすかさず答えたのはアダンエゼルと呼ばれた長男ではなく妹の方だった。

「お兄様がまた学房で1番をお取りになったのよ!」

「偶然です」

苦笑気味に言う息子に

「3回続くと偶然とは言えぬな」

次男を腕から降ろしながらグウィンドールはそう笑った。

「ほらねっ、兄上!父上もそう言うって僕言ったでしょ!」

嬉しそうに駆け寄ってくる弟に、長男は穏やかな笑みを向ける。

「これは兄の負けだな。

 モルメギルに一本取られた」

兄の言葉に、弟は得意げに胸を張った。

「さあさあ、みんな、こんな所で立ち話をしていてはお夕食が冷めてしまうわよ」

妻の声に促され、明るい笑い声を響かせる家族と共に、グウィンドールは温かい我が家の戸を潜った。

 

「ボロミア様も父上とご一緒に戻られると思ってたのに」

食事の卓でモルメギルはそう口を尖らせた。

腕白な次男にとって白の塔の総大将は憧れの英雄だ。

それと同時に尊敬する父の上官であり、剣の手解きをしてくれる大好きな師匠でもある。

「50回休まずに木剣の素振りが出来る様になったのをボロミア様にお見せするつもりだったのにな」

「セオドレド様がご負傷されてな。

 ご昵懇のボロミア様が暫し角笛城に逗留される様ご希望になられたのだ」

「<風の王子>がお怪我をされたのですか!?」

モルメギルは目を丸くして食事の手を止めた。

 

ローハンの継嗣であるセオドレドは騎士としても名高い。

片手持ちの長剣を使わせては当代屈指の三剣士と謳われるうちの一人であり、神速の技を以て馬上より横一閃に敵をなぎ倒す姿は<風の王子>の異名を持つ。

武家に生まれ剣士を目指す子供達にとって、二つ名を持つほどの騎士は憧れの的である。

<風の王子>も例に漏れず、大いに子供達の人気を攫っている。

しかし何と言っても三剣士と謳われる中で最も子供達に人気が高いのは<光の君>と称されるボロミアである。

上段に振りかぶった長剣に弾かれた陽光が金の髪に映えて煌く時、敵の目すら眩ませると言われる一瞬の後、残光を引いて振り下ろされる剣先の下に屠られる敵にその刹那、恍惚の表情さえ浮かべさせるというボロミアの剣技は、その華麗さ故に<光の君>の二つ名を冠されている。

<光の君>に憧れる子供達は、ボロミアがくるりと長剣を一回転させてから構える癖を真似、皆熱心に木剣を回す稽古をする。

 

「友達の中では僕が1番上手く木剣を回せるんですよ」

モルメギルは父に向かって得意気に言った。

「モルメギルの剣はボロミア様直伝だからね」

微笑みかける兄に、弟はキラキラと瞳を輝かせて尊敬の眼差しを向けた。

「ボロミア様はね、兄上の事もいつも褒めておられるんだよっ。

 兄上は<かげんのつき>をよくするって」

「<下弦の月>…と言うと、ファラミア様の剣技か?」

グウィンドールは思わずまじまじと長男の顔を見遣った。

「とんでもない、型だけです!

 あの剣は私の様なただ人に成し得る技では…」

長男はそうはにかんで俯いた。

 

ファラミアもまた三剣士のうちに数えられる一人である。

しかし討ち取った首級の数でファラミアは、他の二人に遠く及ばない。

前線に出て剣を振るう機会が限られているというだけでなく、ファラミア自身が首級を挙げる事に然程関心を持っていないからである。

ファラミアにとって取るべき首は敵の指揮官たる将兵の首のみである。

元来烏合の衆に過ぎないオークやハラド、東夷や南方人などは指揮官を失えばいくらいようとものの数ではないというのがファラミアの存意なのである。

そして実際ファラミアは、何程混乱した戦場に於いても過たず敵の指揮官たる将を見出し、巧みに一騎打ちに持ち込む。

ファラミアに目を付けられた敵将に逃れる術はない。

無造作に構えられた下段の剣がゆるゆると弧を描いて動くうち、その剣が水平に至る前、敵の将は遍く剣先の動きに吸い寄せられ、ファラミアに向かって剣を振り上げる。

しかしその瞬間冷たい輝きを放って刃をかえしたファラミアの剣は、滑らかな弧を描いたまま一刀両断で敵将を斬り上げるのである。

その優美さから<下弦の月>と呼ばれはするが、その剣技は一見優雅に見える動きからは想像し難い並外れた剛力を要する。

下段から敵を一刀両断するとなれば、長剣を持つ腕には刀身の質量に加え敵の体重が抵抗となって乗る。

更に重力に逆らう負荷も掛かるそれを片手持ちの長剣でやってのけるには、武人としては細身と言える外見からは、とてもそうとは見えぬファラミアの豪腕なくして成立し得ない技なのである。

 

「でもね、ボロミア様は型だけだって<月の公子>の技は難しくって誰にでも真似出来る訳じゃないんだって、兄上の事を褒めてるんですよ」

弟が勢い込んで父の方に身を乗り出した時

「モルメギル」

と呼ぶ声に、次男は母の顔に目を向けた。

軽く次男を睨んだ母が手を動かす仕草を見せると、モルメギルは慌てて食べかけのソーセージを口の中に放り込んだ。

 

夕食の後モルメギルにせがまれ、角笛城での合戦の様子を話してやっていたグウィンドールは、話の途中からうつらうつらとし始めた次男がすっかり寝込んでしまったのを確かめると、息子を抱え上げて寝室に運んで行った。

 

子供達の寝室からグウィンドールが居間に戻ると、長男が工具を持ち出して時計の修理をしていた。

幼い頃から機械いじりの好きだった長男は、グウィンドールや彼の妻が目を離した隙に何度か時計を分解して使い物にならなくしたが、長じるにつれ分解された時計は綺麗に元通り組み立てられる様になり、今では学房の友人達から壊れた時計の修理などを頼まれる様になっている。

 

「また修理を引き受けてきたのか」

父の声に手元の時計から顔を上げた長男は

「学房で過ごす時間も残り少なくなってきましたので、最近はよく皆から壊れ物の修理を頼まれます」

と笑った。

長男は来年14になる。

武門の家に生まれた長子として家督を継ぐべく、訓練兵として近衛への入隊が既に決まっている。

武芸や剣術より書物を好む物静かな長男は、学房の教授達の間でも、このまま学舎へと進めば物作りの学匠も望める才がある、と近衛への入隊を惜しむ声がある。

長男自身は何も言わぬが、家門を守る家長であると同時にひとりの父親でもあるグウィンドールは、考えても詮無い事と分かってはいても、この息子が次男に生まれておればと思わずにはいられない。

次男でさえあれば文官へと登用される道も開け、学舎に進んで学匠を目指す事も可能であったろうと考える度、いつもグウィンドールは少なからざる胸の痛みを覚えずにはいられない。

ただ長男の事というだけでなく、その痛みには過日見た主の哀し気な瞳の影もまた伴う。

 

 

それはアダンエゼルの近衛入隊が決まった頃の事だった。

家族同然にしばしばグウィンドールの家を訪れるボロミアは、アダンエゼルの入隊に際し正式の部隊配属の折にはファラミアの下に付けるつもりだとグウィンドールに言った。

「ファラミアなれば秀才の呼び声高いアダンエゼルの才は充分に活かせ様」

そう笑った後ふと黙り込んだボロミアは、やがてぽつりと呟いた。

「人の世とは、上手くゆかぬものだな」

「ボロミア様?」

訝しむグウィンドールに向け、ボロミアは僅かに口の端を持ち上げて言った。

「執政とは本来文官職なのだ。

 適性は私より弟にある」

思わず返答に窮したグウィンドールに

「私自身都で政務に明け暮れるより、朋輩等と戦場を駆け回っている方が性に合っておるしな」

ボロミアはそう苦笑した。

「兄である私から見ても弟は実に濃く父上の血を継いでおるやに思う。

 ファラミアが執政職を継げば、父上にも比肩する有能な執政になれよう。

 私は…総大将のままでよいのだ…」

その言葉にぎくりと息を飲んだ副官に

「とは言えぬな」

と、ボロミアは薄く笑った。

「先に生まれたのが…」

そう言い止して言葉を切ったたボロミアの瞳に、哀し気な影が差すのをグウィンドールは見た。

 

常に明るい光を湛える碧の瞳に差した哀し気な影の色を思うと、今もグウィンドールは胸の痛みを感じずにはいられない。

一時期改革派の文官達の間に、家督の継承を長子の生得権とせず登用制を用いてはどうかと議論が持ち上がった事がある。

改革派の文官達の中には武家の次男以下に生まれた食い詰めの身から文官へと登用された事で要職を得た者が多い。

彼等は家中に、長子として生まれながら文官としての才を持つ者もある事をよく知っており、その才を惜しんでの声だった。

だが改革派の文官達がその案を起草し大侯に上申した時デネソールは

「今はまだ、聞けぬ」

と言ったのだという。

“今はまだ”大侯のこの言葉に含まれた意図に気づいた文官達は言葉を失ない、以後彼等がこの件を口にする事はなくなった。

長男であるアダンエゼルの心情に思いを致し、多少なりともこの案が容れられる事を望まぬでもなかったグウィンドールもまた、それは同様である。

 

デネソールの失脚、ボロミアの廃嫡、ファラミアの擁立を目論む重臣達は、嘗て程ではないまでも、今尚虎視眈々とその機を窺っている。

外敵である東からの影と内なる影、同時に二つながらの影と長き時を戦い続ける執政家の父にとって、嫡男が妻を娶り後継を儲ける以前に長子の生得権を棄却する案を通す訳にはいかぬのである。

この案を立てたのが重臣達であれば、嫡男に代わり次子であるファラミアを次期執政に担ごうとする目論見は明白である。

それ故重臣達も敢えてそれまでこれに類する案を持ち出す事はなかったが、立案したのが改革派となれば重臣達にとっては願ってもない話だ。

目論見を図に乗せた上、改革派の反論さえ封じられる絶好の機会となる。

“今はまだ、聞けぬ”

大侯の言葉の意図するところである。

デネソールは嘗て政治の闇に二人の息子が呑み込まれぬ様、まだ5歳であったファラミアをドル・アムロスに預かりの身とする事で兄弟の絆を護ったのである。

執政家を取り巻く政治の闇は深く、親子三人が負う荷はそれぞれに重い。

“真、人の世とは上手くゆかぬ”

 

還らざる王に代わりゴンドールを支えているのが執政家である事は疑いようのない事実ではあるが、重臣達にとって執政はあくまで執政であり還らざる王その人ではない。

彼等と同様に臣下の身である事に変わりないのである。

その重臣達が曲がりなりにも執政家に恭順の意を表するのは、執政家に依る絶対的な統治の安定に付け入る隙が見い出せないからである。

 

そして執政家の安定にとって要となっているのは間違いなくボロミアなのである。

デネソールとファラミアの間に親子の絆がない訳では勿論、ない。

だが

“デネソール様とファラミア様はあまりにも似過ぎていらっしゃるのだ”

グウィンドールに限らず、執政家に近しい者の中にそう感じている者は多い。

西方の血に依る遠く視る目、敏く聞く耳のみならず、たばしる才智に豪腕を持って鳴る剣技の冴えまで、この父と息子はあまりにも多くの才を共有している。

ファラミアが<下弦の月>と呼ばれる剣の技を持つ様に、デネソールは大の男が二人掛りで弦を引くという伝説の強弓を、軽々と引き絞るという。

“同極…というのだろうか”

しかし同極は反発しあう。

決して引き合うことはない。

共に西方の血を濃く継ぐ父と息子の反発しあう愛情は、西方の恩寵を受けぬと言われた、ただ人であるボロミアに向った。

父と弟、その双方の愛情に応え強い絆で引き合うボロミアの存在に依って執政家を形成する三点の均衡は保たれているのだ。

あってはならぬ事ではあるが、万一執政家からボロミアの存在が失われた時、執政家は均衡を失い残された父と息子の間には深い亀裂が走るだろう。

 

グウィンドールは脳裏を掠めたその想念にぞっと背筋が凍る。

“ボロミア様が奥方を迎え、後継を儲けて下されば幾許かの懸念は解消されようが…”

そう思わぬでもないグウィンドールではあったが、未だ癒えぬ主の古い傷を知る忠義者の副官は、是が非でも妻を、と主に進言する気にはなれなかった。

せめてもの救いはファラミア擁立を画策する重臣達が未だ妻を娶らぬ嫡男に代わり、再三ファラミアに縁談話を申し入れるのに対し

「兄上が奥方を迎えられぬうちに私が妻を娶る気はない」

と、当のファラミアが頑として話を聞き入れない事である。

嫡男が妻を娶るより先に次男が、などという事を大侯が許すはずもないが、この件に関しては何よりもファラミア自身の意思が固い。

照れが勝る性質のボロミアは、日頃人前であからさまに弟を愛していると口に出す事はないが、弟であるファラミアの方は事ある毎に人前で、何程兄を愛しているかを滔々と語る。

“御重臣方を牽制される狙いもあるのだろうが”

とグウィンドールは思うが、このままでは執政家の血が絶えてしまう、というのが目下の処執政家を慮る廷臣達の最大の心配事のひとつになっている。

 

“ご兄弟仲がよろしのは結構な事だが…”

グウィンドールはそう小さく溜息を吐いた。

 

「父上?」

父の溜息を見咎めて声を掛けた息子に、グウィンドールは身内の物思いを振り払って笑顔を向けた。

「いや何、そういえばここのところ長らくファラミア様にお目に掛かっておらぬと思ってな」

ボロミアが次男にとって憧れの英雄である様に、智謀の将として知られるファラミアは長男にとって憧れの大将だ。

「そうですね、父上は長征続きでいらっしゃいましたから」

そう言って微笑む長男に

「と申すと、父はファラミア様とはすれ違っていた訳か?」

と、グウィンドールは問い返した。

「ファラミア様が御重臣方の議会にお召しになられる様になってからは、以前より度々都にお帰りにならておられます。

 先日ファラミア様がお帰りになられた折には、物の形を最も安定して支えられる最小点である三点の力学について教えていただき、からくり時計の図面も見せていただきました」

嬉しそうにそう言う長男の顔を見ながら

“三点の力学か。

 まるで執政家の御三方の事を言っている様だ“

とグウィンドールは思った。

 

「そういえば父上がご帰投される少し前、ヘンネス・アンヌーンから御重臣方の使者が戻られ、3日後の議会にファラミア様が出席されるとご報告があったそうです」

「ほう、では久しぶりファラミア様にもお目に掛かれるな」

「父上は随分お久しぶりでしょう?

 ボロミア様もご一緒にご帰投されていたら宜しかったですのに」

「真にな。

 ファラミア様が都におられるうちにボロミア様がご帰投されると良いのだが」

「ファラミア様は<白金の騎士>ですからね」

と長男が笑い、グウィンドールもその俗歌を思い出して思わず苦笑した。

 

執政家に義心篤い武門の家の父と息子は、そうして共に敬愛する執政家の嫡男がいるであろう西の方に目を凝らした。

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