top of page

妹君は袖まくり

 

東谷で暮らしていた頃、エオウィンにとって食事の時間は苦痛だった。

貴族志向の強い母は3度3度の食事の卓に手の込んだ料理を出させたが、領主である父は館を開けがちで、豪奢な食堂はエオウィンには広過ぎた。

それでも4歳年上の兄と卓に着いていた内は良かった。

母は礼儀に厳しく食事中に口をきく事を許さなかったが、兄はしばしば母の言付けを“忘れ”、エオウィンに舌を出して見せたからだ。

エオウィンはそんな兄が大好きだった。

だがその大好きな兄エオメルが父に伴われて狩りなどに出る様になると、食事の卓にはエオウィンと母だけが取り残された。

食器の音だけが響く食堂で、遠い机の端に座る母と2人きりで摂る食事はどれも味がなかった。

エオウィンの食が細い事を心配したエオメルは父と狩りに出た時に、妹の為自分で摘んだ木の実や狩った兎、射落とした野鳥などを持って帰った。

木の実は時に熟れておらず時に熟し過ぎ、兄自身がこっそり厨房に忍び込んで焼いた肉は時に焼き過ぎており、時に生焼けだった。

だがエオウィンには母と食べる手の込んだ料理より、兄が持って来てくれる熟し過ぎた木の実や焼き過ぎた肉の塊の方が数倍美味しい、と感じられた。

 

その母と父が亡くなり、エオウィンは兄と共に母の兄であるローハンの王セオデンに引き取られた。

エオウィンはエドラスで初めての食事を摂る際、兄と共に従兄であるローハンの継嗣に手を引かれて兵舎の食堂に入った時、その食卓に驚いた。

手の込んだ料理どころか黒パンは塊のまま無造作に架台の上に置かれ、肉も魚も丸焼きのまま大皿に乗っている。

酒豪揃いで知られるロヒアリムらしくローハン自慢の葡萄酒はもとより、麦酒などは樽から直に角杯に注いで飲む。

その同じ卓で継嗣も一兵卒等と共に食事を摂る。

一見優雅な貴公子と見える従兄のセオドレドなど、興が乗ると自らフィドルを弾いて歌ったりする。

その食堂には人の温もりと笑い声、陽気な音楽が溢れていた。

エオウィンは兵舎で摂る食事の時間が好きになった。

 

但し食事の卓を囲むのが好きな事と舌が肥える事は別である。

更に言うなら食事が好きだからと言って料理上手になる訳ではない。

そもそもローハンの姫君であるエオウィンが料理などする必要もない。

当然料理など出来る訳がない。

そのエオウィンがある冬の日、突然「私がお菓子を作る」と言い出した。

周りの者達は「突然何を言い出すのか」と笑ったが、エオウィンは大真面目だった。

「だってボロミア様に頂いたのと同じお菓子があれば、お兄様はゴンドールに行きたいなんて言わないでしょ」

眉を寄せてそう口を尖らせるエオウィンに、大人達は一斉に吹き出した。

だがそれを見たエオウィンは、益々顔を顰めて頬を膨らませたのだった。

 

事の起こりは数か月前に遡る。

エオメルとエオウィンがセオデンに引き取られて三月程が経った頃、セオドレドと昵懇の仲でもある同盟国ゴンドールの公子ボロミアが、ローハンの王宮に新しく迎えられた若い公子と幼い公女を表敬訪問したのだ。

初めて見た隣国の公子に、エオウィンは暫しぽかん、と目を奪われた。

従兄であるセオドレドを初めて見た時も“なんて美し方かしら”と思ったが、ボロミアには従兄とはまた違う美しさがあった。

緑玉色の瞳が煌く笑顔は日の光を思わせる眩しさで、頭の上に置かれた手は大きく温かかった。

エオウィンはその美しい公子に微笑み返そうとしたが、その時自分に注がれる兄の羨まし気な視線に気付くと何故か急に腹が立った。

エオウィンはぷい、と思わず公子から目を逸らした。

ボロミアがローハンに滞在した3日の間、エオウィンは子供心にも何とはなくボロミアに対する敵愾心の様なものを感じながら過ごした。

その大方の原因は、兄のボロミアに対する態度にあった。

 

ボロミアはローハンの公子と公女への土産にと、ゴンドールの菓子職人が焼いたという菓子を持って来たのだが、ローハンでは滅多に菓子という物を見ない。

菓子自体が珍しいのだ。

それ故見るからに美しいその菓子は、確かに美味そうではあった。

但し酒豪揃いで知られるロヒアリムは、酒好きの多さに比例し、甘味を好む者は少ない。

それは王族とて例外ではなく、セオデン、セオドレドはもとより、エオメルやエオウィンも、齢に似合わず甘いものを好んで食さない。

その兄が「美味いです!」と菓子を頬張りながら頬を染めてボロミアを見詰める姿が、エオウィンには気に入らなかったのだ。

それだけでも気に食わなかったのだが、エオメルは兎に角ボロミアの滞在中、事あるごとにそのゴンドールの公子を優先した。

エオウィンが話し掛けても上の空でボロミアの方ばかりを気にしていた。

子供好きなボロミアもそんなエオメルを可愛がった。

エオウィンは完全に不貞腐れた。

ボロミアがゴンドールに帰るという日の朝、すっかりしょげ返ったエオメルが

「明日からボロミア様にお会い出来ないのはとても悲しいです」

と言ったのを受け

「ではエオメル殿も私と一緒にゴンドールにいらっしゃいますか?」

そうボロミアが笑った時、エオウィンは遂に爆発した。

ボロミアとエオメルの間に割って入ったエオウィンが、ボロミアを見上げて言ったのだ。

「お兄様を取らないで!

 私、大きくなったらお兄様のお嫁さんになるんだから!」

慌てるエオメル、笑いを噛み殺すセオドレド、唖然とする周りの大人達の中で、当のボロミアだけがにっこりと微笑んでエオウィンの前に膝をついた。

「ご安心なさい、エオウィン姫。

 私は姫から大切な兄上を取り上げたり致しませんよ」

大きな温かい手でエオウィンの頭を撫で、ボロミアはそう言った。

ボロミアのその笑顔にエオウィンは、子供ながらに複雑な心持ちでミナス・ティリスに帰る公子を見送ったのだった。

 

その後年が明けると、セオドレドがゴンドールに新年の挨拶に行く事になった。

エオメルは自分も行くと粘った。

結局セオデンに諭されて諦めたのだが、王になぜそれ程ゴンドールに行きたいのかと聞かれたエオメルは咄嗟に

「ボロミア様に頂いたお菓子が美味しかったので…」

と口籠った。

「では同じ菓子を土産に持って帰ろう」

セオドレドが悪戯っぽい目でそう言うと、エオメルは「え?」と困った様な表情で眉を下げて従兄を見上げた。

横目で兄のその顔を見て、エオウィンは何とはなしに胸がすくのを感じたのだった。

 

しかしエオウィンのその上機嫌はひと月と持たなかった。

そろそろゴンドールからセオドレドが帰ってこようかという頃になると、エオメルは今か今かと従兄の帰りを待ち侘び、そわそわと落ち着きがなくなった。

エオメルのその様子に「セオドレド様のお帰りが余程待ち遠しくていらっしゃるのですね」と女官達が笑うと、耳まで真っ赤にしたエオメルは

「お…お菓子を持って来て下さるっておっしゃったから…」

と、口の中でもごもごと言い訳した。

兄の言葉にむっとしたエオウィンは、突然

「お兄様がそんなにお菓子を食べたいなら、私がそのお菓子を作るわ!」

そう言って袖まくりしたのだった。

エオメルは勿論、周りの大人達も皆当然止めたのだが、エオウィンは聞かなかった。

「小麦粉をこねて丸めて焼くだけでしょ。

 簡単よ、出来るわ」

こうなるともう誰にもエオウィンを止められない。

自分一人で作ると言い張るエオウィンに負け、料理長は渋々厨房を明け渡した。

だが、厨房に籠ったエオウィンは、待てど暮らせど出てこない。

心配して厨房を覗いたエオメルは、そこに凡そ人が口にするものとは思えぬ異物を前にして途方に暮れる妹の姿を見出した。

「エオウィン?」

顔を上げたエオウィンは、今にも泣き出しそうな顔で兄を見上げた。

机の上に置かれたその“菓子”は、どの様に作ればそうなるのかと首を傾げたくなる様な代物だった。

焼け過ぎの部分と生焼けの部分が混在する歪な形、斑に散った奇妙な色彩、甘ったるいのか焦げ臭いのか判別のつかない異臭を放つその物体を前に、エオメルは困惑した。

その時

「お兄様…」

という、エオウィンの情けない声を耳にしてエオメルは我に返った。

「う…美味そうじゃないか」

咄嗟にエオメルは言った。

「え?」

と目を瞬かせた妹の前でエオメルは、その“菓子”を口に放り込んだ。

「上手いよ、うん、なかなか美味い」

そう言いながらエオメルは、その“菓子”を全て平らげた。

そして案の定、エオメルは腹を壊した。

 

セオドレドがローハンに戻ったのはその翌日だった。

寝台の上で青くなって伸びているエオメルを見舞った後エオウィンの居室を訪ねたセオドレドを、真っ赤に泣き腫らした目の従妹が出迎えた。

「私の所為です…」

消え入りそうな声で言う幼い従妹の隣に腰を下ろし

「話は聞いたがな」

とセオドレドは従妹の小さな手の上に、小ぶりな木製の茶筒を乗せた。

怪訝な表情で従兄を見上げるエオウィンに、セオドレドは微笑んだ。

「ボロミアからそなたらにと預かった。

 ペラルギアからの交易品だそうだ」

視線を茶筒に戻し「お茶?」と小首を傾げるエオウィンの手の中に包まれた茶筒の蓋をセオドレドが開けると、ふわりと香ばしい香りが立ち上った。

エオウィンは茶筒の中を覗いて目を丸くした。

「セオドレド様?!」

見上げた先で美貌の従兄がにこりと微笑む。

「カカオ、というのだそうだ。

 それで作る飲み物は、甘くて体が温まる、とボロミアが言っていたぞ」

「あの…?」と戸惑うエオウィンにセオドレド言う。

「作り方をミナス・ティリスの料理長に聞いて来た。

 手は出さぬが口は出す故、そなた、作ってみよ」

「で…でも…」

口籠るエオウィンにセオドレドはぐいっと顔を近付けた。

「薬にもなるものだそうだ。

 甘みを控えれば今のエオメルには丁度良い。

 エオメルはそなたが顔を見せぬと随分気に掛けているのだぞ?」

従兄のその言葉に、エオウィンは手の中の茶筒をぎゅっと握り締めた。

 

寝台の上で青くなって伸びていたエオメルは、扉を叩く音に続き「お兄様…」という声を耳にして、ぱっと敷布の上に身を起こした。

「エオウィン?」

「入っても…いい?」

「勿論だよ!エオウィン」

おずおずと部屋に入って来たエオウィンは寝台に近寄ると、躊躇いがちに陶の器を兄に向って差し出した。

「セオドレド様に教えていただいて作ったの。

 お薬にもなるものだって…」

じっと妹の顔を見詰めていたエオメルはそれを聞くと満面の笑みで

「ありがとう」

と器を受け取り、躊躇う事無く一気に半分ほどをぐいっと飲んだ。

固唾を飲んで見守るエオウィンに

「上手いよ」

そうエオメルは晴れやかに笑った。

「本当に?」

「本当だよ、ほら」

エオメルはそう言って妹に器を差し出した。

兄から手渡された器に恐る恐る口をつけたエオウィンは、一口飲んだ途端目を輝かせた。

「な?」

「うん」

そして兄と妹は、互いの目と目を見交わし、声を合わせて笑い出した。

 

扉に背を預けて腕を組んでいたセオドレドは、扉越しに兄妹の朗らかな笑い声を聞くと柔らかな笑みを浮かべ、陽気な古謡を口ずさみながら従弟の部屋を後にした。

 

世継が立ち去った後の扉の前には、ミナス・ティリスの料理長特製である“甘くない菓子”が、温かな色味の織布に包まれて置かれていた。

bottom of page