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初陣(後編) 1

 

オスギリアス防衛は辛くも戦勝したものの、ゴンドール軍にそれまでにない損害を齎した。

2名の戦死者を出し、ボロミアを含め重傷者は二桁を数え、軽傷者を含めた負傷者は更にその倍の数に上った。

そもそもオスギリアス戦の前、カイア・アンドロスの攻防戦で西岸に逃れた敵が、オスギリアスまでを隠密裏に南下し、北からの奇襲を成功させて事は、軍議での議論の的となり、今後国の守りはカイア・アンドロス以北まで目配りすべしとの声が多く上がった。

 

オスギリアスの辛勝から半月程経った頃、ヘンネス・アンヌーンの偵察隊から北イシリエンの西、ニンダルヴ付近に敵の動き有との報告が上がった。

兵達の間には今度こそモルドール軍を殲滅すべしという機運が高まり、ニンダルヴ程の距離には異例の3個中隊から成る先制攻撃部隊の遠征が軍議により決定された。

 

ファラミアは自ら志願してその作戦に加わった。

 

ニンダルヴまでの遠征の上、各分隊に分かれての隠密行動が必要とされる奇襲作戦の為、一度出陣してしまえば、ミナス・ティリスに戻って来られるは一月は先になるだろう。

これではさすがに未だ病床にある兄に挨拶もなしに出陣するわけにもいくまいと思うと、ファラミアは思わず深いため息を吐いた。

 

勿論兄に会いたくないなどという訳ではなかった。

だが、兄が一命を取り留めたとの知らせを受け意識を失った後、目が覚めてみると、今度は兄に会うのが怖くなった。

兄がその怪我でファラミアを責める事などあり得ないのは分かっていたが、会いに行けば病床で病みやつれているであろう兄の顔を見なければならず、それを思うとファラミアの心は重く、兄の病床へ向かう足を躊躇わせていた。

かと言って兄の容体が気にかからぬはずはなく、ファラミアは会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ちに引き裂かれる日々を過ごしていた。

そこにニンダルヴ遠征の作戦が決定され、オスギリアスで辛酸を舐めたファラミア率いる第3小隊の部下達の「雪辱を果たしたい」と言う願いもあり、ファラミアは出陣を大侯に直訴した。

怪我が癒えて間もないファラミアの志願にも関わらず、あっさりとそれは容れられた。

 

明日は出陣という日、兄の側付きである少年がファラミアの居室を訪れた。

「主のお部屋に」という言伝に「すぐ伺う」と少年を返した後、ファラミアはもうその日何度吐いたか分からぬ大きなため息を吐いた。

 

ボロミアは数日前に療病院から自室に居を移していた。

南端にある自室からボロミアの居室のある北端までの長い石廊を、ファラミアは重い足を引き摺って渡って行った。

 

兄の居室の扉を開けると、そこには輝くばかりの笑顔で弟を迎えるボロミアの笑顔があった。

眩しさに目が眩みそうになるファラミアに、変わらぬ兄の優しい声が掛けられた。

「久しいな、ファラミア」

その声を耳にしただけで涙が溢れそうになるのを堪えて、ファラミアは堅苦しく挨拶を返した。

「兄上にはお見舞いにも伺わず、ご無沙汰をしておりまする」

「ファラミア」

兄は“やれやれ”という表情でファラミアを見ると

「その様な堅苦しい挨拶はよい。

 それより、いつまでもその様な戸口に立っていてはそなたの顔がよく見えぬ。

 こちらに来ぬか」

笑顔のまま手招きする兄に抗う術もなく、その枕元に歩み寄ったファラミアを、兄は優しく抱き締めた。

今までのファラミアであれば、躊躇いなく兄の背を抱き返していたであろう。

しかし、今のファラミアにはそれが出来なかった。

形ばかり兄の背に手を回すと、さり気無さを装い、そっと身を離した。

幸いボロミアにファラミアのその躊躇が気付かれる事はなく、ボロミアは傍に控えていた少年に「ここはもうよい、厨房に茶を用意させた故、そなたは下がって休むがよい」と声を掛けた。

まだ幼さの残る少年は、大好きな主の言葉に顔一杯の笑顔を浮かべ「はいっ」と元気な返事をすると、ファラミアにも畏まった礼をして、主の居を辞した。

 

少年が出て行くのを見送ると、ボロミアは枕元に所在無げに佇む弟に、恨みがましい目を向けた。

「聞き及んでおるぞ、ファラミア」

「え?」

「明日出陣だというではないか」

「あ、ええ…」

言い淀む弟に、ボロミアは腕を組んでしかつめらしい表情を作った。

「まさかこの兄に黙って発つつもりだったのではあるまいな」

「兄上…」

困った様な表情になった弟に

「よもや兄の傷を気にしてるとは言わせぬぞ」

とボロミアは緑玉の瞳で弟を見上げた。

言葉に詰まったファラミアを見詰めたままボロミアは言った。

「怪我を負ったのは兄が注意を怠ったからだ。

 そなたが背後のオークに気付かねばこの程度の傷では済まなかった」

「しかし兄上…」

ファラミアの表情が苦しげに歪んだ。

「傷跡が残ったとお聞きしました」

「それがどうしと言うのだ?

 戦士の体に傷跡の一つや二つ、あって当然ではないか。

 大切な弟を守っての傷跡ならば、むしろ我が勲章と胸を張って良いくらいだ」

兄の言葉に迷いはない。

肉が落ちてほっそりと、華奢と言ってさえいいほどの顔に浮かんだ笑顔には、一片の邪気もない澄んだ輝きが顕れていた。

 

「兄上…」

ファラミアにはそれ以上言葉を継ぐ事が出来なかった。

どこまでも穢れなく純粋に弟の身を案じる兄の姿は、ファラミアの胸に鋭い刃の様に突き刺さった。

 

“兄上の、この清浄なる笑顔を守らねばならぬ。

 誰にもこの笑顔を穢させてはならぬ。

 例えこの私自身にさえも“

 

ファラミアは、生涯を誓った姫君に額ずきその手を取る騎士の如く、兄の前に跪き兄の手を取った。

「ファラミア?」

その長く美しい指先に触れただけで、体の芯を熱く焼く身の内の熱を、兄に気取られぬ様耐えながら、敢えてファラミアは兄の手を強く握り締めた。

「無事に戻って参ります。

 必ずや戦勝し、兄上の前に無事に戻って参ります」

ボロミアは真っ直ぐ兄を見詰め、きっぱりそう言い切った弟に、心底嬉しそうな笑顔を向けた。

そして幼い頃からいつもそうしてきた様に、弟に預けておらぬ方の手で、弟の髪をくしゃりと撫でた。

 

髪に触れる兄の指先を感じるだけで、身の内に燃える炎が煽られる。

“この凶暴な熱を、決して兄上に知られてはならぬ”

 

ファラミアは密かに唇を噛み、胸の内に荒れ狂う自らの小暗い想いに堪えた。

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