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初陣(前編) 1

 

2998 オスギリアス

 

 

貴方は私の事など少しもご覧になってらっしゃらなかったわ

その目がご覧になっていた幻はどなたですの?

この胸の内に荒れ狂う嵐を御心に隠されたまま

貴方はこれからも幻を抱き続けて生きてゆかれますの?

夜伽の女官はそう聞いた

 

 

遠く戦火を交える音が聞こえる。

幾人ものオークを斬った剣の柄が血で滑る。

脂が巻いてなまくらになった刀身が手に重い。

意識を失った部下が水路に沈んでしまわぬ様支え続けている腕が酷く痺れる。

瓦礫に挟まれた足にはすでに感覚がない。

 

ファラミアは初陣のオスギリアスで、自分の意識が遠のいていくのを感じていた。

 

その時

「ファラミアっ!」

堕ちかけたファラミアの意識を引き戻す艶やかなベルベットの声が辺りの空気を震わせた。

声と共に胴をふたつに分かたれたオークの体がファラミアの横に転がり落ち、派手な水飛沫を上げた。

「兄上…」

光の中から現れた兄の顔は背にした日差しに隠されて見えない。

ファラミアの横に転がったオークの死骸を足で除け、ばしゃばしゃと水路に入って来た兄は後ろに二人、腹心の部下を従えていた。

ファラミアの傍に膝をつき、弟がその部下を支え続けて強ばっていた手を優しく握った兄は、身を屈めてファラミアの耳元で囁いた。

「後は任せろ」

その声にファラミアの体から力が抜けた。

ボロミアは弟の手がその部下の体から滑り落ちると、弟から彼を引き取り、後ろに控える二人に向かって呼びかけた。

「トゥーリン、この者を運べるか?」

「はっ!お任せ下さい」

がっちりと頑強な体躯を狭い水路に押し込んだトゥーリンは、ファラミアの部下を軽々と担ぎ上げ、水路の外に身を翻した。

「ベレグ、このままでは埒が明かん。

 工兵が必要だ」

「承知」

一言言って長身痩躯のべレグもまた、ひらりと水路の外に消えた。

瓦礫に足を挟まれたままの不自由な体勢で、何とか兄に向き直ろうとする弟を制し、ボロミアが言った。

「無理をするな。

 援軍が来るまで今しばし待て」

「申し訳ありませぬ、兄上…」

「なぜそなたが詫びる。

 そなたに咎はない。

 陣形は軍議が決め、北からの奇襲は我々の誰もが気付かなかったのだ。

 そなたはよく持ちこたえてくれた」

「然れど…」

「気にするな。

 それより足はどうだ?

 痛みはないのか?」

「痛みはありませぬ。

 先程から感覚がないのです」

ボロミアの表情が曇った。

「外傷は然程でもない様だが、むしろ骨に塁が及んでおらぬか…」

そう言いつつファラミアの上体を起こして自らの膝に支えたボロミアの肩越しに、水路に沈むオークの死骸に目を遣ったファラミアの耳が、地面を擦る忍びやかな足音を捉えた。

「オークが…もう一人」

ファラミアが言うのとボロミアが振り向くのは同時だった。

ファラミアの眉間を狙ったオークの矢は、弟を庇ったボロミアの鎧の肩当てと胴着の間の僅かな隙間に突き刺さった。

「兄上っ!」

ファラミアは篭手に忍ばせていたナイフをオークに向かって放ち、それは過たずオークの額に突き立った。

声もなく倒れたオークに目もくれず、ファラミアは肩に矢を呑んだ兄の体を抱き締めた。

「兄上っ!兄上っ!」

「貫通しておる故大事無い」

そう言うとボロミアは矢尻を折り、ふたつに割った矢を肩から抜いた。

抜いた拍子に肩から血が噴き出し、ボロミアの左肩は一瞬で血に染まった。

その血を止める手立てすらないファラミアは、ただ傷口に手を当てる兄に、自分の手を重ねるしか術がなかった。

僅かに顔を歪ませたボロミアは「今だけだ、すぐ止まる」そう言った。

 

しかしボロミアの肩から流れ出す血は一向に止まらなかった。

すでにトゥーリンとべレグが去ってから半時以上も経っていたが援軍が来る気配も感じられない。

ボロミアの息が荒くなり、次第にその顔から血の気が失われつつあった。

ファラミアは、瓦礫に挟まれ動きの取れない自分の足を斬り落としてしまいたい程の焦燥に駆られながら、兄の体を、ひたすらきつく抱きしめて「兄上、兄上」と呼び続けた。

 

ボロミアの苦し気に寄せられた眉の間に汗が浮かび、潤んだ翡翠の瞳が薄らと開かれた。

「ファラ…ミア…」

掠れた声がファラミアの名を呼び、小暗い水路の中に朧に浮かび上がる兄の白い喉が、上下にゆるりと動いた。

 

ファラミアは背筋をぞくりと駆け上がった痺れを伴う感覚に突き動かされる様に、兄を抱き締める腕に我知らず力を込めた。

「兄…上…」

 

その刹那

「ボロミア様っ!」

と、水路の外で響いた声に、ファラミアは現実に引き戻された。

 

“私は…何を…しようと…?”

 

水路の前に身を屈めて中を覗き込んだトゥーリンは、ファラミアの腕の中でぐったりと半ば意識を失いかけている主人の姿を認ると、その体躯を彼には狭すぎる水路の中に押し込んだ。

「トゥーリン、兄上を…」

「ファラミア様」

「兄上は私を庇ってオークの矢を…」

トゥーリンは紙の様に白くなった主の顔を見ると、ファラミアに向かって強く頷いた。

ファラミアの腕から、壊れものを受け取る様にボロミアの体を引き受けたトゥーリンは、主の体を担ぐと、素早く水路を引き返した。

トゥーリンに代わって水路に入って来たべレグが、ファラミアの瓦礫に挟まった足を見遣りながら「遅くなり申し訳ありませぬ、お御足は…」と言いかけるのを遮ってファラミアは言った。

「大事無い、それより兄上を」

「承知しております。

 トゥーリンが急ぎミナス・ティリスにお連れいたしました故、ご安心下さい」

べレグのその言葉にほんの少しだけ安堵の表情を浮かべたファラミアに一礼し、べレグは水路の外に声を掛けた。

「工兵!」

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