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初恋 17

 

執政館の門衛を務める近衛兵は、大欠伸の途中で「守備兵がその様子では門衛は務まらぬな」と声を掛けられ、慌てて欠伸を噛み殺した。

声の主を振り返ると、執政の次男が穏やかな笑顔で館から出て来る姿が目に入った。

「ファラミア様!」

驚いた目をした守備兵が「如何されたのですか?この様な早朝に」と問うのに

「思いの外早くに目が覚めたのだが、清しい朝故、久しぶりに城中を散策しようと思ってな」

ファラミアはそう答え「朝餉の時刻までには戻る」と言い置いて門を出た。

公子を見送った門衛は、大きくひとつ伸びをした。

 

門を出たファラミアは執政館の南西に見える園庭を目の端に捉え、しばし逡巡したが、しかし結局その足は兄の居室がある執政館の北翼へと向いていた。

 

園庭と呼ぶにはあまりに慎ましい設えのそれは、精々が花壇という程度の植込みではあったが、数種の低い木立と、その根方に色良く配された草花が皆瑞々しく、開け染めていく朝の光を浴びて煌めいていた。

特に朝露を置いてきらきらと光るロスイアの鮮やかな緑の若葉は、どきりと目を奪われる程艶めいて、その葉に包まれる様に薄青の花が咲けば、それはさぞ麗しい事であろうと、ファラミアは暫しその若い緑の葉に目を細めた。

 

しかし思い返してみれば、ファラミアは自らの初陣の頃までこの場所にこの様な植込みを見た記憶がなかった。

初めてこの植込みを見たのは数年前ドル・アムロスから叔父・イムラヒルが、亡き叔母の墓参に来た時だったろう。

その時兄の居室の窓からこの花が咲くのを見たのだ。

ファラミアは兄の居室がある、僅かに開いた窓を見上げた。

その窓の内から兄と共にこの花を眺めた夜の事を思うと、ファラミアの胸に遣る瀬無さが広がった。

 

それ以上兄の居室を見上げている事が出来なくなり、ファラミアは植込みへと視線を戻した。

その木立の端に置かれた水桶に気付いたファラミアが“園丁が世話しに来ているのだろうか?”とそう思った時、背後に人の気配を感じてファラミアは振り返った。

 

するとそこに、すらりと丈高いひとりの女子衆が驚いた様子で立ち尽くしていた。

 

粗末な粗織りのドレスに綿の前掛け、濃い栗色の巻き毛を無造作に束ねた女子衆は見たところ下婢の様であった。

しかしファラミアは、その目に宿る、高貴な血を継ぐ強い光を見逃しはしなかった。

年の頃はボロミアとさして変わらぬと思われるその女子衆は、紅一つ差さず、日に焼けてさえいても、生来の美貌を隠し様もなく、彫りの深い端正な顔立ちに、意思の強さを感じさせる、大地の色の瞳が凛と輝いていた。

 

ファラミアの脳裏に浮かぶ名があった。

 

 ニエノール姫。

 

亡きブランディア卿の息女、西方の血を濃く継ぐ白の都一の名花と謳われたニエノール姫は、その大地の色の瞳で、都中の貴公子達を尽く虜にした、とトゥランバールが言ってはいなかったろうか?

 

ファラミアがまじまじとその女子衆の瞳を見詰め

「もしや」

と言いかけるのを制する様に、彼女はファラミアの前に跪いた。

「昨年よりお許しを頂き療病院にて藥師をさせて頂いておりますが、長らく薬草取りを努めておりました身であります。

 公子様のお顔をお見上げ申し上げられる身でございません。

 お許しを頂き、下がらせて頂きとう存じます」

それは曇りのない、よく通る涼やかな声だった。

 

ファラミアは確信した。

「お立ち下さい。

 国法に依り貴女を姫とお呼びする事は敵いませぬが、貴女を下婢として扱う事もまた、私には出来ぬのですよ、ニエノール殿」

 

はっと顔を上げた婦人に、ファラミアは真っ直ぐその手を差し伸べた。

 

 

城中に敵の侵入を許した責を問う重臣達は、ブランディアの公邸内にある隠し通路から間者が城中へと侵入し、その屋の屋上から公子の命を狙ったとなれば、ブランディアへの仮借なき処分は余儀なきものと断じた。

だが当主であるブランディアは既に亡く、当主なき後家名を守るべき奥方はその夜のうちに都から姿を消していた。

唯一人家名を負ったニエノールは沙汰が下るまでの3日の間、公邸での蟄居を命じられた。

4日目の朝、残された息女への家名断絶、身分剥奪の上都の外への所払いが決された事を知ったニエノールは、その日の夜自害を図った。

 

「幸い発見が早く一命は取り留め申したが」

ヘンネス・アンヌーンの岩屋で、トゥランバールはファラミアに苦い表情でそう言った。

 

「まだ15であった御息女には辛過ぎる処断で御座ったのでしょうな。

 事の仔細は伏せられて御座った故儂も詳しい事は存じ申さぬが、敵の襲撃から僅か3日の間に、ブランディア殿が敵方と通じておったの、御息女が間者であった家扶と情を交わしておったのと、下衆な噂が城中に流れおりました故」

老将は憮然として

「融通の利かぬ男ではあったが、ブランディア殿は真から大侯様に誠を尽くす高潔な御仁で御座った。

 御息女も聡明で誇り高い姫であったと聞き及んで御座る。

 大方ブランディア殿の政敵辺りが画策して城中に流布させた誹謗中傷で御座ろうが…」

と言い、苦々し気に首を振った。

「なぜあの様な事になったのか、儂にはまるで分かり申さぬ」

トゥランバールが言うのを聞きながら、ファラミアは唯黙って麦酒の杯を口に運んだ。

“政敵の策略である事には違いないであろう。

 その姫が家扶と情を交わしたなど笑止千万な戯言だ“

ファラミアはトゥランバールが知る限りに語られた切れ切れの話しの中に、幾ばくかの真実を見出していた。

“姫がその家扶に自ら関わりを持ったというのであれば、それは間者の罠に落ちての事だ。

 そして。

 罠に落ちる訳は唯一つしかない“

ファラミアは机上に戻した麦酒の杯を見詰めた。

“姫は兄上を慕っていたのだ”

ファラミアの口中に麦酒の苦い味が広がった。

 

 何程慕っても届かぬ想い。

 何程焦がれても叶わぬ願い。

 

“報われぬ胸中の熱に焼き尽くされ、姫は己を見失ったのだろう。

 それ故間者の罠に落ちたのだ“

ファラミアは合わせ鏡に映る自らの姿を見る様にニエノールの事を思った。

その姫の心を思うと胸の内に締め付けられる様な痛みが蟠った。

 

 

「なぜ私の名を?」

そう問うニエノールに

「私には分かるのですよ」

とだけ答えたファラミアをじっと見詰めたニエノールは、それ以上問う事なく、差し伸べられたファラミアの手を取り立ち上がった。

「しかしニエノール殿、私の聞き及びましたところでは…」

と言った後躊躇し言葉を濁したファラミアの言を引き取ったニエノールは

「都の外へ所払いになったはずだと?」

そう清明な笑顔で言った。

「大侯様に都へ残して頂けます様直訴致しました」

「父上に?」

絶句したファラミアに

「はい、執政の大侯、デニソール様に、です」

微笑んだニエノールの瞳には微塵も怖気の色は見えなかった。

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