がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
初恋 15
再び扉を叩く音がしたが、ボロミアは美しい彫像の様に唯窓辺に佇んでいた。
セオドレドは深い吐息をひとつ吐き出すと、掌をぎゅっと握り締め、ボロミアに代わり「入れ」と、扉の向こうに掠れた声で答えた。
室内に入って来た年若い内官は、窓辺に佇む影の様な公子と渋面を作って腕を組む甲冑姿の継嗣を交互に見遣り、やや躊躇した後、継嗣の方に向かって声を掛けた。
「あの…、ドル・アムロスからボロミア様にお手紙が届いているのですが…」
「ドル・アムロスから?」
内官はちらりとボロミアを見て言った。
「はい、ドル・アムロスでお預かりの…弟君から」
セオドレドの脳裏に、大角笛の継承式で見た上気した頬でボロミアを一心に見詰める少年の、キラキラと熱を帯びた空色の瞳が鮮明に蘇った。
「弟君というと…ファラミア殿…か?」
「ファラ…ミア…?」
驚いて声のした方を振り向いたセオドレドは、ボロミアの瞳から、霧が晴れるようにゆっくりと虚無の影が去り、内官の方へと首を巡らせたボロミアの緑玉の瞳に光が戻るのを見た。
確りとした足取りでセオドレドの前を過ぎ、内官に歩み寄ったボロミアは滑らかな天鵞絨の声で
「ファラミアからの書状か?」
と問うた。
まだ年若い内官はぱっと頬を染めると
「はい、ファラミア様からのお手紙にてございます」
そう言ってボロミアに手紙を差し出した。
手紙を受け取ったボロミアが
「ご苦労であったな。
下がって良いぞ」
そう優しく内官に微笑むと、喜びにはち切れんばかりに頬を輝かせた内官は、恭しくお辞儀して部屋を辞した。
内官が扉の外に姿を消すと同時に扉の外で「ボロミア様が!ボロミア様がご回復されました!」と叫んで走り去る足音が廻廊に遠ざかって消えていった。
しかしボロミアはそれに構う暇もなく弟からの手紙を開くと、一心にその羊皮紙の文字を追っていた。
手紙を読み終えたボロミアは羊皮紙を握り締め、緑柱石の瞳に溜まった涙をぐいっと拳で拭った。
「ボロミア殿」
為す術もなく様子を伺っていたセオドレドが漸くの事で声を掛けると、その時初めてセオドレドの存在に気付いた様に、ボロミアが驚いた目をセオドレドに向けた。
「セオドレド殿、いつからこちらに?」
セオドレドは自分の顔が強張るのを感じたが、それでも辛うじて笑顔と言えなくもない表情を顔に貼り付けて言った。
「先程東谷より到着致しました」
「東谷から直接?軍装も解かず?」
心配そうに駆け寄ってきたボロミアの顔を見て、セオドレドは初めて自分が甲冑を着けたままである事に気が付いた。
「貴方の事が心配で…」
つい漏れた本音を言い終えぬうちに、甲冑ごとボロミアに抱き締められたセオドレドは息を飲んだ。
「どうか許されよ、セオドレド殿。
貴方にまでその様に心配をかけ…、私は…」
ボロミアの微かに震えるその声に、セオドレドの胸からは一切の憂いが優しく溶けていった。
作意のないセオドレドの腕がボロミアの背にまわり、その背を強く抱き締めた。
「我等は生涯の友でありましょう。
友の身を案じるのは当然の事ではありませぬか」
身を離したボロミアがセオドレドの両の手を確と握り締め
「セオドレド殿…」
と声を詰まらせるのをセオドレドは聞き、潤んだ翡翠の瞳が自分を見詰めるのを、セオドレドは見た。
いつの時も求めて止まない、緑玉の瞳が、自分に微笑みかけるのを。
「まずは軍装を解き、戦の汚れを落とされよ。
話はその後ゆっくり場を設えましょう。
私もその間に急ぎ弟への便りをしたためねばなりませぬ故」
「それは…大切な弟君…なのですね」
「然様、大切な…私の愛する弟です」
はにかむ様にボロミアは言った。
「私は亡き母上にお誓い申しました。
何があろうと弟は必ずや私が守ります、と。
その弟が遠くドル・アムロスで一人心細い思いをしている時、私は弟にいらぬ心配をさせたのです。
一刻も早く弟を安心させてやらねば」
それは久方ぶりにボロミアが見せた、澄み渡るばかりの眩い笑顔であった。
セオドレドの胸に、ちりっと焼ける様な痛みが走った。
しかしボロミアがセオドレドのその胸の痛みに気付く事はない。
にっこりと温かな日溜まりの様な笑顔をセオドレドに向けると
「今支度をさせます故、暫しこちらでお待ち願えましょうか」
そう言い置いてボロミアは部屋を出た。
その途端扉の外でわっと歓声が上がった。
内官の知らせを聞きつけた者達が扉の外に集まって来ていたのだろう。
トゥーリンやべレグ、グウィンドールの声さえ聞こえる。
扉の外に、ボロミアを愛し、ボロミアが愛する多くの者達の声を聞きながら、セオドレドはボロミアに握り締められた手を開き、その掌をじっと見詰めた。
ふっとセオドレドの唇に微かに苦い笑みが漏れた。
“何と小さな手である事か”
セオドレドはぎゅっとその掌を握り締めた。
“私は大きな男になろう”
真っ直ぐに顔を上げ、セオドレドは思った。
”いつの日かボロミアを、ボロミアを愛しボロミアが愛する多くの者を想うその心ごと、そっくり丸ごと抱き締めてしまえる程大きな男に”
と。
そしてその黒髪の継嗣は扉の外へと一歩を踏み出した。
「…ド殿、セオドレド殿?」
ファラミアの声がセオドレドを現実に引き戻した。
怪訝そうに覗き込む公子の青い瞳を見たセオドレドは、思わずくすり、と笑みを零した。
“あの少年がこの様に育とうとはな”
「継嗣殿?」
訝し気に眉を顰めた白皙の公子に向かい、セオドレドは皮肉な笑みを含んだ声で言った。
「随分不景気な顔だな、公子殿」
いつもであればセオドレドのその言葉に返ってくるであろう公子の減らず口はなく、ただ苦い表情で黙りこくった公子に、黒髪の継嗣は人の悪い笑顔を見せた。
「そなたがその様にしょぼくれていては、帰投するボロミアが心配到そうほどに、ひとつそなたに良い事を教えてやろう」
継嗣のその言葉にからかわれているとでも思ったのか、ますます眉根を寄せる公子に向かってセオドレドは言った。
「彼岸の淵に居たボロミアを此方に引き戻したのはそなたの手紙だ」
それを聞いたファラミアの水の色の瞳が、俄かに丸く見開かれた。
「私の…手紙…?」
見る者とて稀なファラミアのその様な表情を面白がる様に、セオドレドの口元に薄らとした笑みが象られた。
「然様、そなたの手紙だ。
私がボロミアの居室を訪ねた時、ボロミアの耳には誰の声も届かず、ボロミアの目には誰の姿も映ってはおらなんだ。
しかし内官がそなたの手紙を持って来た時、そなたの名前だけはボロミアの耳に届いたのだ。
彼岸の彼方に向けられていたボロミアの目を此方に向けさせたのはそなたの手紙だけだった。
そなたを守らねばという想いだけが、ボロミアをこの現世に繋ぎ留めたのだ」
ファラミアの冬空の様な薄い色合いの瞳にみるみる熱を帯びた輝きが戻り、白い頬に血が差すのを、セオドレドは椅子の上で組んだ長い足をぶらぶらと揺らしながら楽し気に眺めた。
「継嗣殿…」
ファラミアの言葉の先を制し
「礼ならいらぬぞ。
私はそなたを喜ばせる為にこの様な事を申したのではないからな」
そうセオドレドは言い放った。
「ボロミアはいずれ私がそっくり頂くが、我が胸に抱くボロミアの麗しき笑顔に、弟君が為に陰の差すを見たくはないのでな」
セオドレドのその言葉に目を瞠ったのも束の間、ファラミアはセオドレドのよく知る、嫌味なまでに美しく造られた笑顔を、喜々として椅子にふんぞり返る隣国の世継ぎに向けた。
「豪気なお言葉ですが、我が愛する兄上は、そっくり継嗣殿に頂かれる様な兄上ではございませぬよ」
にやりと笑ったセオドレドが
「まあ見ておれ。
我が愛しの君は、ローハンが騎士の名誉に掛けて、この私が腹黒い弟公から奪って見せよう程に」
と言えば、にっこりと微笑んだファラミアが返す刀で
「これは異な事をおっしゃいます。
兄上を奪おうなどと申す者を、黙って見ている程その弟公の腹は、白くはございませんでしょうに」
そう答える。
作り物めいた苦笑を浮かべたセオドレドが
「何とも喰えぬ弟君だな。
仮にも一国の世継ぎに対して譲る素振りも見せぬとは」
と、わざとらしく溜息を吐けば
「残念ながら、それが殊兄上の事なれば、例え相手が還らざる王その人であったとて、一歩たりとも譲るものではございません」
と、ファラミアも切り返す。
これには流石のセオドレドもやれやれといった表情で
「還らざる王とはまた、例えの話とはいえ大きく出たものだ」
そう言ったのだが、当のファラミアは
「然様とも思いませぬが」
と、さらりと言ってのけた。
「兄上をこの手から奪い取ろうという者であれば、それが例え我が主君であろうと、この私が唯諾々と愛する兄上を奪わせようはずもございませんぬ事は、継嗣殿もよくご承知なのではございませぬか?」
「何とも大した不忠者があったものだ」
白き都の公子の怜悧な笑顔に、馬の司の嫡子の人を食った笑顔が答える。
「貴方の臣下でなくてよろしゅうございましたね、継嗣殿」
「ぬかせ」
青玉の瞳の公子と黒曜石の瞳の継嗣の頬に、同時に不敵な笑みが浮かんだ。
その時帰還兵の凱旋を告げる角笛の音が市中に響き渡り、ファラミアは掛けていた椅子から立ち上がった。
「兄上がお戻りに」
ファラミアが椅子に座ったままのセオドレドに視線を向けると、セオドレドはファラミアに向かって鷹揚に頷いた。
ゴンドールの公子はローハンの世子に軽く目礼し、足早に食堂の扉へと向かったが、扉の把手に手を掛けたところでくるりと世子を振り返った。
「礼はいらぬと、貴方はおっしゃいました。
しかしやはり私は貴方に礼を申し上げましょう。
貴方のお陰で兄上の笑顔を曇らせずに済みます故」
滅多にお目に掛かれぬ青い瞳の公子の邪気のない美しい笑顔に目を細めながら、黒髪の継嗣は追い払う様に公子に向かって手を振った。
「さっさと出迎えに行って参れ。
そなたの顔を見ればボロミアが喜ぼう」
継嗣に一礼し、扉の外に消えるファラミアの背中を見送ったセオドレドは、満足そうな笑顔でローハン自慢の甘い酒を口元に運んだ。