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三点の力学(後編) 8

 

セオドレドは第3軍への使いにエオウィンを送り出した後、何食わぬ顔で午後に設けられた軍議の場に現れた。

その場で議決された角笛城警備部隊の交代に関する諸事・日程は想定の範囲内であり、そこに異を唱えるのは無用な不審を買うだけであると心得ているセオドレドは、決された行軍の日程に黙って頷くと、そのまま席を立ち議場を後にした。

日程に従い、翌日2軍の半数を先発隊として角笛城に送り出し滞りなく手順を踏めば、6日後には第2軍の後発隊が角笛城に残った1軍から警備の任を引き継ぎ1軍全軍をエドラスに送り出す事になるだろう。

だがそれでは早過ぎる。

出来ればあと3日、少なくとも2日は時を稼ぎたいところである。

肝要なのは決まりきった手順の中で、如何にその日程を引き延ばすかなのだ。

 

角笛城警備の任に当たる旨を自軍の兵等に伝える為セオドレドが自ら兵舎に向かったと聞いた重臣達は“またか”と顔を顰めた。

通常であれば軍団長自ら兵舎に出向いて軍務を一兵卒に伝える事など有り得ぬが、セオドレドに慣例や常識が通じぬのは廷臣等も重々承知している。

それ故副将格の将兵だけを城中に召集して軍務を兵等に伝達する、という慣例に従わないセオドレドに廷臣達が不審を抱く事はない。

 

しかし廷臣にしてみればセオドレドのみならず、継嗣に倣い平然と慣例を無視する第2軍自体が目障りな存在なのだ。

その2軍と同様この無頼の世継ぎを敬愛する兵が多い第3軍は東谷に追いやった。

そして第2軍に代わってエドラスに戻る第1軍は本来城詰めの近衛兵団なのである。

これは2軍、3軍に比べればはるかに御しやすい。

重臣達はそう見ている。

 

兵舎では初め角笛城警備の任を聞かされた第2軍の兵が皆一様に不満の色を示したが、継嗣の話を聞くうち兵等の不満気な顔は次第に活き活きとした表情に変わっていった。

「重臣方はご存じないが1軍の兵は城詰め故、見ざる言わざる聞かざるを通して耐えておっただけだからな」

「1軍の同胞等も内心では忠臣面で王に甘言を吹き込む重臣に反感を抱いておるのだ」

「第1軍の朋輩等に殿下の策を伝えれば、彼等も喜んで協力いたすでしょう」

「王の陰に隠れて笑っておる蛇めの尻尾をひっ捕まえて吊し上げてやりましょうぞ」

口々にそう気勢を上げる兵等に向かいセオドレドは言った。

「あまり素手では触れたくない尻尾だがな」

その一言で兵等の間にはどっと笑いが起こる。

いつの間にか角笛城警備の任は、兵等にとって日頃快く思わぬ重臣達に一泡吹かせる楽しみに取って代わられていた。

 

翌日第2軍の先発隊は予定されていた刻限を大きく遅れて角笛城に出立した。

重臣達に当てつける様に、如何にも角笛城警備の任を渋っているという態でぐずぐず行軍の準備を引き延ばした先発隊の兵達は、その陰でせっせと城の食糧庫から糧食を運び出し、こっそり荷駄に詰め込んだ。

こうして僅か1日程度の行軍には不必要な大量の糧食と共に、午後も遅くなってから漸く先発隊は角笛城へと向かった。

第2軍出立の3日後予定より1日遅れて角笛城から1軍の先発隊がエドラスに到着したが、ここで問題が起こった。

それに因り第2軍後発隊の出立は予定より遅れる事となった。

2軍の先発隊が輸送した糧食では角笛城の食糧不足が補えぬと主張し2軍と一悶着あった旨を訴える1軍の将が、後発隊には充分な糧食を確保させるよう廷臣等に上申したのだ。

勿論これは事実ではない。

1軍の訴えに「城中の食糧庫も備蓄は不足しているのだ」と食糧庫を開いて見せ、1軍に対し反目の意を示した2軍の兵等の態度も然りである。

この問題に対しセオドレドは、重臣達に各家の備蓄から糧食を供出する様求めた。

「勿論王城からも供出するぞ。

 “ローハンの赤”2978年物ひと樽でどうだ」

セオドレドのその言葉に兵等は湧いた。

 

質の良い葡萄酒を産する事で名高いローハンの中でも、銘に国の名を冠した“ローハンの赤”は飛び抜けた銘酒である。

特に2978年物は極上の逸品だが数が少なく非常に貴重な為、王家でも特別な宴席などにしか供されない。

その残り少ない貴重な“ローハンの赤”を供出すると言われては重臣達が糧食の供出を拒む訳にはいかない。

結局翌日は糧食の供出とその荷造りが午後まで掛かり、2軍の後発隊が角笛城に向けて出立する頃には、既に日は西に傾き始めていた。

 

狭間胸壁の上から遠ざかる2軍の後姿を見詰めていた少年は人の気配を感じ、隣に立ったローハンの白き乙女へと視線を巡らせた。

「行ってしまわれたわね」

「はい」

従兄の従士である少年に目を向けたエオウィンは

「私達は私達の為すべき事を為さねばね」

と少年に微笑みかけた。

 

 

セオドレドに留守居を命じられた時

「なぜ私もお連れいただけないのですかっ!」

と、主である継嗣に食って掛かった従士の少年に

「そなたは怒るとますます乳母やに似るな」

そうセオドレドは笑った。

 

 

セオドレドの乳母は副官の亡き妻である。

二人の間に子供は多かったが結局男子には恵まれず、それもあってか副官は、妻亡き後も養育の任を引き継ぎ、まだ少年であった継嗣に実の息子に対する様な深い愛情を以て接してきた。

その継嗣もまた、実の息子が父に対して抱く様な愛情を副官に対して抱いている事は、ローハンの兵等の間ではつとに知られた事である。

その為副官の娘が嫁ぎ先の将兵との間に儲けた男子をセオドレドが小姓に取り立てた時、城中の廷臣等は目の色を変え世継ぎの公私混同を声高に叫んだが、その言は兵団の兵達に因って一笑に付された。

確かにセオドレドはおよそ一国の世継ぎとは信じ難い天衣無縫な無頼漢であり、身分・位階の差に頓着する様な厳格さは欠片も持ち合わせてはいかった。だがそれは継嗣が、情に流され公人としての判断に私事を先んずる人物だという事ではない。

寧ろ命の駆け引きを必要とする兵の資質に対し、セオドレドはより厳格な実力主義者と言えた。

加えて身内を甘やかす事を好まぬ副官に依ってこの孫息子は少年兵としてではなく雑士として兵団に入隊した。

少年のその働きぶりをよく見知っていた兵等にとって少年が継嗣の小姓に取り立てられるは当然であり、それを知らずして無用に騒ぎ立てる重臣達の姿は滑稽でしかなかったのである。

 

 

「祖母に似ていると言われて喜ぶ男子はありませぬ」

口を尖らせてそう言う従士の姿にセオドレドは声を立てて笑った。

「乳母やも昔から婆であった訳ではないぞ。

 私が幼い頃にはなかなかの器量だったのだ」

そう言った後笑いを消したセオドレドは、少年の目を厳しく見て言った。

「そなたは城に残り爺を守れ」

従士の少年はその言葉に一瞬声を失った。

「爺に万一の事あらば確証などなくとも私は彼の妖術使いめを締め上げ、気脈を通じておる者の名を吐かす。

 然る後それが何者であろうと、私がこの手でその者を叩き斬る」

「殿下!」

顔色を変えた少年を見てセオドレドはにやりと笑う。

「それ故そうならぬ様、しっかり爺を守れ」

ぎゅっと拳を握りしめた少年の肩にセオドレドは手を置く。

「爺だけの事ではない。

 我が第2軍が角笛城に去った後、エオウィンと共にこの城を内から守る者が要る。

 メドゥセルドを蛇の巣窟にしてはならぬのだ」

 

 

従士の少年は白き乙女を見返すと、涼やかな目に強い意志を込めしっかりと頷いた。

 

 

角笛城に向かう第2軍の兵達は継嗣の隣に馬を並べる、およそ兵団に似つかわしくない不健康そうな青白い顔の男と、その男に随行する巻き毛の少年に対し露骨に胡散臭気な視線を送り、あからさまに彼等に眉を顰めて見せた。

 

 

評議会の翌日老副官が急の病で床に伏した後、セオドレドは今回の行軍には従士を同行せぬ旨を王に告げた。

するとその翌日父である王・セオデンは、青白い顔に色の薄い目を持った男をセオドレドに引き合わせ、その男を老副官に代わり角笛城に同行する様命じた。

「これなるはガルモドの息子グリマと言う。

 ガルモドはそなたに対する臣従の意を示す為嫡男である息子をそなたの下に差し出したのだ。

 そなたも我が顧問官の意を汲み快くこの申し出を受けよ」

暫し後「仰せのままに」と答えた継嗣の声の底に滲む憂いを、色の薄い目を持つ男は聞き逃さなかった。

 

その日のうちにグリマは巻き毛の髪の少年を伴ってセオドレドの居室に現れた。

「此度の行軍では従士を城にお残しになると聞き及びましたので、我が家中より心利く小者を選びましてございます。

 どうぞ小姓代わりにお身回りのお世話にお使い下さい」

「身の回りの世話か」

セオドレドは目を眇めグリマを見るが、背を丸め顔を伏せた男の表情は読めない。

「ならば充分世話してもらおう」

少年を一瞥したセオドレドは

「私を失望させるなよ」

と冷たい声で少年に言った。

 

角笛城に出立する前日、老副官に代わり蛇の息子が角笛城に同道すると知らされた2軍の兵達は、王命故それを退ける訳にはいかぬと承知の上で、皆あからさまに渋い表情で不快の意を示した。

「確かに私も蛇を飼う趣味はないが」

と兵等に向かって苦笑気味にセオドレドは言った。。

「蛇の生態を知ろうと思えば、傍に置いて眺めぬ訳にはいかぬ」

継嗣のその言に兵達の間にも苦笑が漏れる。

「よいか、そなたら」

そう言って人の悪い笑みを浮かべたセオドレドは兵達を見渡した。

「蛇の仔が怯えて尻尾を隠しては意味がない故、皆そこそこに手加減し、あまり蛇の仔を苛め過ぎるでないぞ」

 

 

角笛城でセオドレドを出迎えた第1軍の軍団長は、継嗣の隣に馬を並べる男の青白い顔を目にするや、眉根を寄せ不快感を顕わにした。

しかし蛇の舌を持つその男は軍団長の表情など気に留めた風もなく言った。

「お久しゅうございます、軍団長殿。

 角笛城では糧食が不足していると聞き及びましたが、それにしてはお顔の色が宜しいですな」

言われた軍団長は憮然とした表情で言葉を返す。

「例え糧食が不足しておろうと、ここには毒持つ蛇がおらぬからな。

 人とは心安んじて任務に励んでおれば気は萎えぬものだ」

無言で薄い笑いを口元に張り付かせたグリマを無視し「殿下」と、軍団長は厳しい目をセオドレドに向ける。

軍団長に頷いて見せた継嗣は馬を降り

「私は警備の引き継ぎに参る故、荷解きの差配はそなたに任せる」

そうグリマに言い置き軍団長と共にその場を後にした。

 

輸送した糧食を運び込む為開いた食糧庫の中を覗き込んだグリマは、その瞬間表情を歪め小さく一つ舌打ちした。

糧食が不足していると言う1軍の報告に疑念を抱いていたグリマの目の前には、確かに棚の空きが目立つ食糧庫が、兵等の運び込む荷で埋まるのを待っていたからだ。

 

苦虫を噛み潰した様なグリマの顔を見た兵の一人は内心ほっと胸を撫で下ろしていた。

2軍の先発隊の輸送分と合わせ、角笛城の備蓄食料は一部を既に燦光洞に移送済みだったからだ。

今日のうちにそれがあの蛇の息子に知れる事はないだろう。

しかし空の食糧棚をじっと見詰める男の、背を丸めた後姿にその兵は、微かな不安が胸を過るのを感じていた。

 

「グリマの動きを封じる」

会議室に集まった1軍の軍団長と副将達に向けセオドレドはそう言った。

「今宵1軍のこれまでの労を労い宴席を設ける。

 奴めは出席せぬであろうが、私はその席で羽目を外し、酔った勢いで階段から転げ落ち負傷する」

継嗣の言葉に場が騒めくのを無視してセオドレドは続ける。

「あやつは副官格という建前で私に同行しておる。

 それ故明日から奴は、自室で身動きのとれぬ私に張り付かねばならん」

唖然とした将兵達の一人がややあって漸く口を開いた。

「殿下がその様な事の為自ら負傷などなさらずとも…」

「ふりだ、ふり」

副将の言葉を遮りセオドレドは言う。

「私とて何もこの様な事の為自らの身を挺する様な愚かな真似はせぬ。

 故にそなたらも上手く口裏を合わせよ」

顔を見合わせた将達のうちから

「しかし宴席で羽目を外しての負傷とは、殿下にとってあまりにも不名誉ではありませぬか」

と声が上がるが、セオドレドはその言を笑い飛ばす。

「正史に残らぬ戦をしようというのだ。

 端から名誉など求めるものではない。

 よいか、皆も名誉の負傷などするでないぞ。

 ボロミアが来るまで2日…いや1日持ちこたえればよい。

 ボロミアが到着し次第反転攻勢に出る。

 さすれば敵は一網打尽だ。

 それまでは皆傷一つ負わぬ様徹底的に逃げ回れ」

「恐れながら」

その時1軍の軍団長が口を開いた。

「ボロミア殿が信を置くに足る御仁である事は私も承知しておりますが、何と言ってもミナス・ティリスからこの角笛城までは長途。

 更に此度は確証なき援軍要請なれば如何なボロミア殿とは言え、必ずしも参じて下さるものと断じられましょうか?」

「ボロミアは来る」

一点の曇りもない目でセオドレドはきっぱりとそう断じる。

「ボロミアへの親書を託したのは他ならぬ我が従弟だ。

 我が意を汲みせば、エオメルはどのような無理を押しても白き都まで3日で踏破してみせよう。

 親愛なる我が友ボロミアはエオメルのその労苦を無に帰せしめる事を決して潔しとはせぬ。

 さればボロミアが万難を排し、最速にて当地を目指す由に疑いの余地はない。

 ボロミアとはそういう漢だ」

その時ローハンの世継ぎが見せた、よく晴れた日の夏空を思わせる清しく澄み渡った笑顔は、その後長くその場に居合わせた将兵等皆の胸に刻み込まれる事となる。

 

曰く

「私はボロミアを信じる」

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