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酒仙酩酊(前編)

 

“何やら好い香りがする。

 覚えのある香り…、これは…“

 

鼻孔を擽る仄かな芳香に、ファラミアは緩やかに覚醒した。

まだ明け遣らぬ薄闇の中で、己の腕の中に囲った金の髪が、開け放したままの窓から差し込む月の光を受けてさらさらと光っているのを、ファラミアはぼんやりと眺めながら思った。

“ボロミアと同じ髪の色だな…。

 ボロミアと同じ髪の香り…。

 ボロミアと…ボロミア!?“

瞬時にファラミアの眠気は千里の彼方へと吹き飛ぶ。

確かに自分の腕が伝えてくるその重みに、恐る恐る腕の中に囲った金の髪の持ち主の顔を覗き込んだファラミアは、衝撃の余り喉の奥で声にならぬ叫びを上げた。

 

そこには例え薄闇の中とは言え、見違え様もない愛する兄・ボロミアの、安らかな寝息を立てる白皙の寝顔があった。

硬直したファラミアは、この世に生を受けて30年近い中で初といってよい程の大混乱に襲われていた。

だがしかし、常日頃心ならずも鍛え抜かれている忍耐力を総動員し、辛うじて立ち直ったファラミアは、腕の中で安らかに眠る人を起こさぬ様息を詰め、思い出せる限りの記憶を辿り始めた。

 

 

確かにその日ファラミアは疲れていた。

数日前よりどうにも間の悪い出来事が続き、ファラミアにしては滅多にない事だったが、虫の居所も悪かった。

 

ボロミアが白の塔の総大将となって4年目になろうかという頃、ファラミアは近衛の正規軍を離れ、ヘンネス・アンヌーンで遊軍として、主に敵情の偵察と情報収集の任に当たっていた。

ファラミア自身はその任を厭うものではなかったが、ヘンネス・アンヌーンに常駐する身となると、ボロミアのいるミナス・ティリスはやはり遠い。

ボロミアが総大将となった当初、文官達の召集する議会にボロミアと共に出席していた頃は、ヘンネス・アンヌーンとミナス・ティリスを度々往復する煩雑さも、ボロミアと共に過ごす時を得られるのだと思えば、さして苦になるものでもなかった。

だが東からの影が伸びるに従いボロミアが戦場に在る時が増し、執政家の兄弟が文官の召集する議会に出席を要請される機会は減じた。

その数少ない議会の出席要請もファラミアのみになされるようになると、ファラミアにとってはヘンネス・アンヌーンとミナス・ティリスの往復は煩わしさだけが勝ってしまう。

そんなファラミアの元に、ミナス・ティリスから臨時議会への出席を要請する使者が到着したのが数日前の事だった。

 

その使者から、ヘンネス・アンヌーンに出立する間際、援軍としてローハンに赴いていたボロミアが角笛城で快勝したとの報が入ったと聞き及んだファラミアは、議事の内容を確かめもせず、即座に議会への出席を承諾する旨を使者に伝えた。

 

議会が招集されるのは6日後である。

使者がヘンネス・アンヌーンに発つ際に戦勝の報が入ったとなれば、角笛城とミナス・ティリスの距離を考えても、事後処理の後西街道を東進すれば、ファラミアがヘンネス・アンヌーンを出立する3日後までにはボロミアも都へ帰投するだろう、とファラミアは目算を立てたのだ。

この数か月、何かとボロミアとはすれ違っていてなかなか顔を見られる機会を持てずにいた。

しかしファラミアがミナス・ティリスに到着する3,4日前の帰投となれば、如何なボロミアとはいえ流石に直ぐにも次の出陣、という事はあるまいと踏んだのである。

 

だが翌日回答書に署名し使者をミナス・ティリスに送り出した後、改めて提出された資料に目を通したファラミアは、その内容に思わず眉を顰めた。

 

巧妙に論点をすり替えてはあるが、それはこの数年来何度も議会の場でファラミアに煮え湯を飲まされてきた重臣達が、ファラミアを貶める為に画策した議事である事に疑う余地はなかった。

流石に何度もファラミアに苦い思いをさせられてきた重臣達だけあり、ファラミアをして答弁に幾分難儀するであろうと思われる質疑も提出されており、資料に目を落としていたファラミアの眉間に深い皺が刻まれた。

これまでは議会出席の為に特に準備の時間を割くという事もなかったファラミアだが、今回はそうもいくまいと思うと、多少なりとも気が重くなるのは否めなかった。

重臣達はファラミアに議会対応の準備をする暇を与えぬ様緊急の出席要請を提出したのだろうが、幸いこの数日は敵に目立つ動きもなく、議会の準備をする時間を捻出するには吝かではない状況だった。

 

ファラミアがそう思っていた矢先、警邏の兵等と共にコルマルレン近くの緑野を偵察中、オークの遊軍と遭遇し刃を交える事となった。

交戦自体は小競り合い程度のものであったが、討ち損じたオークを探し出す為コルマルレンからエフェル・ドゥアスに向かって取って返す事になった。

討ち損じたオークは辛くも南に向かう道に出る前に見つけ出して討ち取ったが、自軍の情報が敵の手に渡っておらぬ事を確かめる為、午後一杯を費やした。

 

ヘンネス・アンヌーンは敵の情報をを得る為の拠点である。

戦に於いて情報の正確さは戦況そのものを左右する可能性さえある。

敵もそれを心得ているからこそゴンドールの情報収集拠点がヘンネス・アンヌーンに在ると目処をつけ、執拗に偵察隊を送り出す。

この岩屋の場所を特定される危険は厳に避けねばならないのだ。

偽りの情報や間者による讒言、そして彼の冥王自身が甘言を弄してヌメノールを破滅へと導いたのは伝承に詳しい。

 

結局その日ファラミアは事後処理の為、議会の準備に時間を割く事が出来なかった。

 

翌日方向性を転換したファラミアは、出立を半日早め、その分ミナス・ティリスで議会の準備をする事にした。

午前中に副官であるトゥランバールと留守中の打合せをし、午後に準備を終え、いざ出発するという段になり長靴の紐が切れた。

嫌な予感がしたが既に準備は整っており、出発せぬ訳にはいかない。

 

予感は的中し、翌日の騎行は突然の激しい雷雨で足止めを余儀なくされた。

半日を浪費し、結局ミナス・ティリスに到着するまで2日半を要した。

ミナス・ティリスへの到着は議会の出席要請を受けた当初の予定通り、議会の召集される1日前となった。

 

第6階層で馬丁に馬を預け、疲れた身体を引き摺る様に厩舎から出て来たところでファラミアは、ばったり父・デネソールと鉢合わせた。

ただでさえ気分の滅入っていたその時のファラミアにとって父・デネソールは、出来うる事であれば帰城の挨拶も避けたい程の相手であったが、顔を合わせてしまったものは仕方が無い。

出来るだけ当たり障りなく慇懃に帰城の挨拶をしたのだが、常には第7階層から出る事さえ稀な父が第6階層に降りて来た事にふと興味をそそられたファラミアは、止せば良いものを、つい父に「父上はなぜこちらに?」と声を掛けてしまった。

既に息子に背を見せていた父は僅かに振り返り、底光りのする灰色の目を次男に向けると「そなたに申す必要はない」と、冷たく言って立ち去った。

どっと疲れが増したのを感じたファラミアは、せめて一刻も早くボロミアの顔を見ようと、縋る様な思いで第7階層に上がると足早に執政館の門扉を潜った。

しかし出迎えた侍従の一言で打ちのめされたファラミアはその場で完全に脱力した。

曰く「ボロミア様は角笛城からお戻りになっておられません」

 

夕餉の時刻はとうに過ぎていた為、冷たくなった侘しい食事を摂り、湯殿で旅の汚れを洗い流す頃にはすっかり疲労困憊したファラミアは、ふらふらと覚束無い足取りで居室に辿り着くと、這う様に夜具の中に潜り込んだのだった。

 

翌日ファラミアは朝餉の時刻をとうに過ぎた時刻まで寝過ごした。

食欲はなかったが、薬草茶でも飲もうと食堂に入ったファラミアは給仕の少年に、昨夜ファラミアが居室に下がった直後ボロミアが帰投したと聞き目を剥いた。

既にボロミアが朝餉を摂り園庭に向かったと聞き食堂を飛び出したファラミアの背に、給仕の少年が「お昼にお出しする豆のスープですが…」と言い募る声が消えていった。

 

ファラミアは、ボロミアの姿を求めて向かった園庭の、遥か手前でぴたりと足を止めた。

求める姿はあったが、一人ではなかった。

そこには療病院の藥師として働く婦人の姿もあったのだ。

今でこそ療病院の藥師として市井に身を置くその婦人は、嘗て“白の都一の名花”と謳われた名家の姫であった。

ファラミアも知るその婦人はボロミアとも浅からぬ縁がある。

遠く見通す目を持つファラミアは、その婦人と言葉を交わすボロミアの瞳に点る色合いの優しさに、じりっと焦げる様な胸の痛みを感じた。

 

くるりと踵を返したファラミアは、振り返らず都の書庫へと向かった。

議会が召集されるのは午後である。

 

昼餉の時刻まで書庫に篭って過ごしたファラミアが食堂の扉を開けた時、やはりそこにボロミアの姿はなかった。

部隊を先に帰投させ、自分は私的な理由でローハンに残ったからと、ボロミアは昼餉は兵舎で兵等と共に摂っているという事だった。

 

予測出来ぬ事ではなかったが、事此処に至ってファラミアの忍耐は限界を超えた。

 

昼餉に供される予定であった豆のスープが羊肉のシチューに代わったのも気に入らなかった。

執政家の食卓の貧しさを揶揄する為、重臣達はしばしば薄笑いと共に「総大将殿の好物は豆のスープだそうで」などと口にするが、ボロミアの好物が豆のスープであるのは、何も執政家の食卓が貧しいからではない。

確かに執政であるデネソールは贅沢を好まず、執政家の食事の卓に上る料理は重臣達の食すそれより遥かに倹しい。

しかし執政家の厨房を預かる料理人達は皆腕が良く、質素な食材を工夫し、実に見事に美味い食事を執政家の食卓に上げる。

豆のスープなどもその料理人達の自慢の一品であり、実際大層美味い。

斯く言うファラミアも豆のスープは大好物である。

そこに燻した豚肉の薄切りでも入っていれば、もう言う事なしである。

しかし珍しく新鮮で良質な羊肉を手に入れた厨房係にしてみれば、久しく都に帰らぬファラミアの為にと、腕を振るって献立を変えたのだという事が分かっているだけに、ファラミアも不機嫌を顔に出す様な事は勿論せぬ。

しかしそれだけに余計苛々は募る。

 

こうなるともうやる事なす事全てが気に食わない。

議会に出席する際会議室の扉の角で足の小指を打ち付けた事さえ腹が立つ。

 

割を食ったのは重臣達だ。

ファラミアを貶めるつもりが返り討ちにあった上、手加減のなくなったファラミアに完膚なきまでに叩きのめされ、ぐうの音も出ず椅子の上で縮こまるしかなかった。

これには普段重臣達を糾弾する為議会の場を紛糾させる事に吝かではない改革派の文官達でさえ同情を禁じ得なかったが、当のファラミアは言いたい事だけ言ってしまうと唖然とする文官達を残し、さっさと会議室を後にした。

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