がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
宿業 5
ファラミアは手にした出席承認書に目を遣り、苦い自嘲の笑みに口元を歪めた。
第6階層で会った若い兵等の言動と考え合わせれば、自分もまたデネソールの描いた大きな絵図の中の一片であると、ファラミアは悟ったのだ。
恐らく、ボロミアを慕う武官等には事前に根回しされていたのだろう。
審議会にはヘンネス・アンヌーンから戻ったファラミアが、執政家第2公子としての権能を以て兄と同席し、ボロミアの補佐をするであろうと。
文官と武官が表立って事を構える事は、国政の混乱を招きかねない危険を伴う。
デネソールは、重臣達の所業に不満を抱く一部の突出した武官が過激な行動に出るのを、未然に封じる手を打ったのだ。
常には親子の情など無きに等しき息子であるにも関わらず、執政家に生まれたというだけの血の繋がりさえ利用し、遊軍のいち大将に過ぎぬ身が、奸計を図って議会出席の承認を得ようとしたその相手である大侯・デネソールには、ファラミアの奸智など、既に易々と読まれていたという訳だ。
のみならず、大侯はファラミアが思いも及ばないところにまで手を打っている。
当然の事ながら、これが大侯の描いた絵図の上の事と知ったところで、ファラミアが出席承認書を必要としている事に変わりはない。
そして大侯の描いた絵図の通り、この世事に通じた弟公は、議場に巣食う老獪な重臣達から世慣れぬ兄を守るだろう。
そう思い至った刹那ファラミアは、突如己の行く手に巨大な氷壁が立ち上がる幻視を見るかの如き錯覚に襲われた。
手にした羊皮紙が氷の刃に変わり、手の中で凍っていく様に感じられ、ファラミアの背筋を冷たい汗が伝い落ちた。
「ファラミア!」
最初その声は、厚い氷壁を通してその中から届く幻聴の様に、ファラミアの耳に響いた。
それ故自分の顔を覗き込む温かな緑柱石の瞳が幻ではないと認識するまで、暫しの間を要した。
“ボロミア…”
その名を声に出す寸前、漸く現実に引き戻されたファラミアは、口元に上せかけた声を喉の奥に飲み込んだ。
代わりに「…兄上…」と、掠れた声を押し出した弟に
「如何致した?
顔色が優れぬ様だが」
と、ボロミアの澄んだ森の湖水の色の瞳が真っ直ぐに向けられた。
見詰められたファラミアは慌てて首を振り
「大丈夫です。
何でもありません」
と“何時もの笑顔”を“弟の顔”に素早く貼り付けて言った。
「兄上は教練の視察中だと伺いましたが、なぜこちらに?」
狼狽を隠す為そう問うファラミアに、日の光さえその笑顔の前では霞んで見えると言われる眩しい笑顔を向け、ボロミアが笑いかけた。
「そなたがヘンネス・アンヌーンから戻ったと聞き、一刻も早く顔が見たくてな。
父上に帰投のご挨拶に伺っているだろうと思いこちらに参ったのだ」
ファラミアはその笑顔とその言葉に、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられるのを感じた。
同時に、ファラミアの胸を凍えさせていた高き氷壁の影が溶け、冷え切っていた胸の内が、温かな南の海の光で満たされていった。
“抱き締めたい”
ファラミアは思った。
目の前に立つ、日の光そのものの様な温かな美しい人を。
“抱き締めたい。
抱き締めて口付けたい“と。
胸を満たすその温もりごと、自らの身の内に取り込んでしまいたい、と。
それはもう幾度か知れぬ時を、抱え耐えてきたファラミアを責め苛む切なる願いだった。
ファラミアは持てる理性の全てを以てその願いに耐えた。
非の打ち所無き弟の仮面の下に、その願いを押し込めて。
「こうして兄上とお会いするのも随分とお久しゅうございます。
まだ日も高うございます故遠乗りでもご一緒いたしましょうか?」
それ故ファラミアはこの様に言わねばならなかった。
心の内を見せぬ為、当たり障りない、弟らしい穏便な言葉を。
しかし意に反し、ファラミアの言葉に当のボロミアは僅かに表情を曇らせた。
「そうしたいのは山々なのだが…」
珍しく歯切れの悪いボロミアの口振りが、瞬時にその理由をファラミアに思い当たらせた。
「審議会、ですか?」
「ヘンネスにまで聞こえておったか」
ボロミアはそう言うと、決まり悪気に頬の辺りを撫でた。
「己の不勉強で議場を混乱させる訳にはゆかぬからな。
重臣達の用意した資料を読んでおるのだが…」
と、ボロミアは小さく吐息を零した。
「エルフ語を読むのも厄介だが、文官等の使う言葉はそれ以上だ。
なかなかに難解で難儀しておる」
ファラミアはそう言うボロミアの稚い少年の様な表情に目眩がしそうだった。
“知ってはいた。
無論知ってはいたが…。
それにしても…何とお人の良い…“
心許な気な様子で僅かに肩を落とし、やたらに顎の辺りを摩っているボロミアの姿は、否応なくファラミアの胸にボロミアへの愛しさを沸き上がらせた。
それはこの様な窮地にボロミアを追い込んだ重臣達への憤りを、遥かに凌駕した。
ぞくり、と腰に溜まる熱を感じたファラミアは、うっそりと零れそうになる苦笑いを噛み殺した。
ボロミアを求めて蟠る我が身の熱が、最早何程自らを欺き誤魔化そうと、目を背ける事が出来ぬ程膨れ上がっていると悟った時から、ファラミアは解放される事を望むその熱を、少しずつ、少しずつボロミアへと向け始めていた。
自らを律しきれず溢れた熱を少しずつ、慎重に、繊細に。
時にそれは触れる手の指先に、そして時に見詰める目の瞳の奥に込めて。
例えそれがボロミアの笑顔の前で、儚く気化する届かぬ望みと分かっていても、ファラミアはそうせずにはいられなかった。
“困った御方ですね、ボロミア”
ファラミアはそうして、溢れた想いのまま、ボロミアへと手を差し伸ばした。
“その様に無防備に頼りな気なお顔などなさって”
ボロミアの長く美しい指を手に取ると、ファラミアはきょとんとするボロミアに艶然と微笑みかけた。
“その様なお顔をなさっては、貴方に邪心を抱く者の欲情を煽ってしまおうというものですのに”
ボロミアの手を胸元に引き寄せたファラミアは、その艶かしい程に白く滑らかな手の甲に、柔らかく唇を押し当てた。
“ほら、この様に”
「ファラミア?」
訝し気に問うボロミアの声に目を上げたファラミアは、“兄”に答える“弟”の声で返した。
「兄上、私も審議会にご同席させてはいただけませぬか?
父上のご承認は頂いております」
「父上のご承認を?しかしどの様な…」
ファラミアは敢えてにっこりと微笑んだ。
「私も執政家に生まれた公子の身です。
兄上と共に我等が祖国を支える助けとなりたいのです」
無論この言葉は嘘ではない。
嘘ではないが、全くの真実でもない。
“我等が祖国”“我等が民”は、ボロミアにとっては殺し文句だ。
この様に真摯な言葉を口に出せば、凡そ人を疑うという事のない、この純真で生真面目な人は、ころりと苦もなく騙されてしまう。
案の定、「ファラミア…」と声を詰まらせたボロミアは、自分の手を取ったままの“弟”に、空いている自分の手を重ね、しっかりと強く握り締めた。
「そなたの心、この兄感じ入った。
我等兄弟、確かに手を携え、我等が祖国を支えようぞ」
そう言うボロミアの言葉に、ファラミアの胸は痛まねばならぬはずだった。
本来であればそのはずだったのだ。
だが既に堰が切れていたファラミアには、あらぬ妄想を掻き立てる様にファラミアを見詰める、潤んだ翡翠色の瞳の齎す効果の方が遥かに優っていた。
“本当に困ったお人だ、ボロミア”
ファラミアは承認書を持ったままの冷え切った掌をボロミアの温かい背に廻し、そしてその人の耳元で囁いた。
「それこそ我が望みです」
“私の”
「兄上」
“愛しい人”