がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
名にし負う、王と呼ばるる 7 -疑惑-
あれは兄を見る弟の目ではない
断じて、ない
野伏の男は確信した
中つ国 第3紀 2998年 秋
その日ミナス・ティリスの第7階層は射干玉色の闇に包まれていた。
鎌の様に瘦せ細った下弦の月を覆い隠す雲は厚く、宵の口とは思えぬ闇を作っていた。
しかし“野伏の馳夫”にとって墨を流した様なその暗闇は少しも問題にならなかった。
夜目が利く、というだけでなく、第7階層の構造はソロンギルとして暮らした20数年の年月で隅々まで知り尽くしている。
アラゴルンが淀みない足取りで闇の中を執政館の南端に設けられた小さな園庭の脇まで歩を進めた時、雲間から細い月が顔を覗かせた。
素早く植込みの陰に身を隠したアラゴルンの目に、9年の間幾度も瞼の裏に描いた、月の光に輝く金の髪の色が飛び込んで来た。
9年前、アイゼンガルドの動向を探る為、行商人に身を窶してローハンの西境に入ったアラゴルンは、然したる情報を得られぬまま北方への帰途に就く事となった。
帰路を船でと決め、連絡船の出るエゼルロンドへと向かったアラゴルンは、その途上弟に会う為ドル・アムロスに向かっていたボロミアの一行と遭遇した。
ミナス・ティリスを離れて以来9年ぶりで見る、美しい少年へと成長したボロミアの姿を目の当たりにして、アラゴルンは抑え込んでいた恋情に火が付いた。
その時想いのよすがに眠るボロミアの金の髪を一房切り取ったアラゴルンは、灰色港に向かう船上で、水夫達が妻や恋人の名を腕に刺青している事を知り、自分の左肩にも刺青を施す事を思い立った。
想いは水夫達と同じだが、勿論アラゴルンはボロミアの名を腕に彫る訳にはいかない。
エルフ達にボロミアの名が知られかねない危険だけは絶対に冒せない。
もう一つ決してエルフ達に知られてならないのは、アラゴルンが切り髪を肌身離さず持っているという事だ。
それがエルフ達に知れれば、彼等はアラゴルンのその行動を怪しむだろう。
とは言え、ボロミアの髪を手元から離す事は耐えられない。
考えた末アラゴルンは、ボロミアの髪を燃やした灰を混ぜた墨で左肩に刺青を入れた。
彫ったのはエルフの言葉で“9”を示す“ネデア”という文字だ。
それはミナス・ティリスを離れてからエゼルロンド近くの岩場でボロミアに再会するまでの年数。
ボロミアへの想いを封じようと足掻いた月日を示す数字。
封じようにも封じられなかったその歳月の痛みを忘れまい、とアラゴルンは思ったのだ。
そしてそれはまた、エルフ達にアラゴルンの刺青が知れたところで、そこからボロミアの存在が露見する恐れのない事をも担保している。
だがアラゴルンがそれ程案ずるまでもなく、エルフ達にアラゴルンの刺青が知れる事はなかった。
そもそも夕星姫とは婚姻の誓いを交わした後には会う事もなく、裂け谷やロスロリアンを訪ねる際にも、肩に彫った刺青がエルフ達の目に触れる所以はなかったのである。
エルフ達の目に映るアラゴルンは表面上何一つ変わる事無く彼等の意に従っている様に見えた。
しかし彼の意識は着実に変わっていった。
それまでのアラゴルンは、“聴く力”の様に無意識のうちに発現する力は別として、積極的に自らの血に受け継がれる超常の力を使う事をしようとはしなかった。
だがアラゴルンは、ミナス・ティリスでボロミアの成長した姿を“視た”事で、自分の中に眠る“視る力”を意識し始めた。
実際に見た11歳のボロミアが、“先を見通す”という超常の力で“視た”ボロミアと、寸分違わなかった事で、更に気持ちは“視る力”を使う方向に傾いた。
ボロミアと離れて過ごす暮らしの中で、遠く見通す“視る力”を使えば、折々にボロミアの様子を知る事が出来るのだ。
とは言え、超常の力の中でも、特に“視る力”などは、視ようと思えばすぐに何でも視える様になる、という訳ではない。
一概に超常の力と言っても、行使する為には高い集中力も、行使する為の技術も必要なのである。
ではだからと言って、エルフ達にその術などを下手に尋ねでもして、無用な疑念を持たれる事は避けたかった。
アラゴルンはエルロンドの蔵書の中からその技術を記した書を探し出し、徐々にその技を身に付けていった。
だが遠く“視る力”を行使するうえで最も重要な事は視たいと思う相手との関係である。
血縁の関係があるのであれば、北方に在ってさえ南方の縁者を“視る”事も可能である、とは言われている。
その点アラゴルンは、ただ一方的にボロミアへの執着を抱いているだけである。
勿論血縁などあるはずもない。
それどころか、関係という関係を築ける程の時を、共に過ごした事すらないのだ。
本来であれば超常の力を以てしても遠方よりボロミアの姿を“視る”事など叶わない。
しかし図らずもボロミアの髪を灰にした墨で刺青を施した事が幸いした。
年と共に肉体の一部の様に馴染んでいくその刺青がアラゴルンとボロミアを繋いだ。
肩に彫った刺青と同じ年月をかけ、アラゴルンは遠く離れたボロミアの姿を目の前に“視る力”を行使出来る様になった。
流石に北方から“視る”という事は出来なかった為、少なくともエミン・ムイル辺りまでは出向かねばならなかったが、それでも“視る”事は出来た。
但し“視る”とは言っても、実際には目の前を過るほどの間でしかなく、その上力を行使する事は激しい消耗をも伴った。
当然その様な力はそうそう行使出来るものではない。
アラゴルンもそれは充分承知していた為、平素は出来うる限り気持ちを抑え込んだ。
それでもいずれ思いは勝る。
その日もパルス・ガレン辺りでアラゴルンは抑え込んでいた想いが臨界に達していた。
“視る力”を行使した。
アラゴルンのその眼前に、オークの矢で肩を射抜かれるボロミアの姿が過った。
アラゴルンは顔から血の気が引くのを感じた。
ボロミアが矢を射られた場所がオスギリアスである事は、過った背景に見て取れた。
直ぐにでもオスギリアスに向かいたい衝動に駆られたアラゴルンだが、それが無意味である事は火を見るよりも明らかだ。
アラゴルンがオスギリアスに到着する頃戦場に残されるのは敗者の痕跡だけだろう。
ではミナス・ティリスに入ればボロミアの様子を探れるかと言えば、それもそう容易だとは思われない。
ミナス・ティリスを離れて18年が経っているとは言っても、“ソロンギル”として20数年を過ごした都である。
下手をすればそれと気づかれないとも限らない。
アラゴルンは逸る気持ちを抑え、先ずはゴンドールの同盟国であるローハンの王都、エドラスへと向かう事にした。
同盟国であればミナス・ティリスの情報を得る事は比較的容易い。
ローハンでも客将として先王センゲルに仕えてはいたが期間は短かった。
そして現王セオデンは、アラゴルンが“ソロンギル”としてローハンの客将を務めていた頃には、まだ少年であったのだ。
万一セオデンに姿を見られたところで今のアラゴルンが嘗ての“ソロンギル”だとは気付くまい。
実際のところアラゴルンはそれ以前にもアイゼンガルドの動向を探る為、ローハンの西境には幾度か足を踏み入れており、その際角笛城の衛兵や城代などにも姿を見られているのだが、その度毎に行商人だの吟遊詩人だのに身を窶していたアラゴルンを、伝説の客将だと気づく者は誰一人いなかった。
但しそれはあくまでも角笛城での事であり、そもそも角笛城ではエドラス程には“ソロンギル”を知る者はない。
いずれはミナス・ティリスにも立ち入らねばならぬであろう事を考えれば、1度エドラスで自らの素性が余人に隠し遂せる事を確かめておくに如くない。
アラゴルンはそう判断したのだった。
首尾よくエドラスに入ったアラゴルンは、敢えて値の張る砂糖菓子等を商う行商人を装い、王宮の裏門から厨房係を訪ねた。
幸い厨房係はアラゴルンの知らぬ男に代替わりしており、北方から来た珍しい菓子を商う行商人を疑わなかった。
手の込んだ細工を施した砂糖菓子を見た厨房係の男は、寧ろ「いやぁ、こりゃあ丁度良いところに来た」と喜んだ。
「うちのお世継がこの菓子を見たら喜ばれるこったろう」
そういう厨房係の男に、菓子の入った箱を並べながらアラゴルンは聞いた。
「こちらのお世継様は菓子がお好きなんで?」
すると男は笑いながら盛大に手を振った。
「とんでもねぇ、セオドレド様は甘いもんはからきし駄目だ。
甘い菓子がお好きなのはゴンドールのボロミア様さぁ」
思いがけずボロミアの名を耳にして、アラゴルンはぎくり、と手を止めた。
「ボロミア…様?」
アラゴルンの様子など気にも留めず、厨房係の男は言う。
「ああ、同盟国の公子様でな、うちの若様とは昵懇の仲なんだが、先の戦で負傷されてな、うちの若様が見舞いにボロミア様のお好きな菓子を持って行くんだと。
だけどよぉ、俺等じゃゴンドールの公子様が召し上がる様な上品な菓子なんざ作れねぇからよ、正直困ってたんだ」
言いながら、菓子を見比べていた男は言葉を切って頭を掻いた。
「だめだ、俺にゃどれがいいか分かんねぇ。
取り合えず全部くれや。
あとは若様に選んでもらわぁ」
「へい、へい」
と代金を受け取ったアラゴルンは、男に細工物の小箱をひとつ差し出した。
「ほぉ、こりゃ見事な細工だなぁ」
と感嘆の声を上げた男に
「旅の手慰みに俺が作ったもんだが、儲けさせてもらったからな、景物と思って取っといてくれ。
お世継様が選んだ菓子をそれに入れりゃあ、丁度良い見舞いの品になるだろう?」
そうアラゴルンは、心の内を見せずに笑って見せた。
その後ローハンの一団がミナス・ティリスに出立するのを待って、アラゴルンは一行の後を付かず離れずの距離を保ちつつ、18年ぶりに白の塔を目指した。
エドラスに入った当初、アラゴルンはそう性急にミナス・ティリスに足を踏み入れようとは考えていなかった。
何と言っても20数年を過ごしたミナス・ティリスでは“ソロンギル”を知る者も多く、素性の知れる危険性は高いのだ。
ボロミアの情報が充分に得られさえすれば“視る力”を行使する事も、エミン・ムイルからより遥かに負担が軽い。
敢えて危険を冒してミナス・ティリスに立ち入るのは時期尚早というものである。
そしてボロミアの情報は驚く程容易く、充分得る事が出来た。
アラゴルンが思い設けぬ程、ボロミアはローハンで愛されていたのだ。
情報を得たアラゴルンは、本来であればそのまま北方に帰るはずだった。
だがアラゴルンは、集めた情報の中に、捨ててはおけぬ噂を聞いた。
“ローハンの継嗣は油断がならぬ”
ボロミアの傷病見舞いに行くと言うセオドレドを、アラゴルンは見過ごしには出来なかった。
危険を覚悟の上でミナス・ティリスに入ったアラゴルンだったが、拍子抜けする程彼を嘗ての英雄だと気づく者は無かった。
それは同じ頃、執政家の次男ファラミアが、初陣から2戦目で参加したニンダルヴの奇襲作戦で大勝を収め、城下が戦勝祝いに沸いていた為もあったが、城下の話題がボロミアを巡る同盟国の世継と執政家親子の攻防で持ち切りになっていた事もその訳だった。
そしてその話題はアラゴルンの胸中に、少なからぬ疑惑を掻き立てた。
世継の言動は予測の範疇であり、デネソールが息子を“悪い虫”から護ろうとするのは当然だ。
だが“弟”の存在は、アラゴルンに不穏な違和感を齎した。
都で誰もが口を揃えて噂する執政家兄弟の仲の良さは“些か度が過ぎている”と、アラゴルンには思われたのだ。
そしてそれは概ねボロミアが、というよりは弟であるファラミアの、兄に対する思慕の強さに由来した。
“確かめぬ訳にはいかぬ”
セオドレド一行がローハンへ発った日の夜、アラゴルンは勝手知ったる白き都の第7階層への道を上って行った。
「しかし兄上…」
その声の主を、植込みの陰から様子を窺うアラゴルンは、ボロミアの背中越しに捉えていた。
執政家の特徴である透ける様に白い肌、色味の薄い金の髪、冬の朝を思わせる澄んだ薄青い瞳を持つ端正な面差しは、彼がボロミアの弟である事を如実に物語っている。
「父上のお許しはいただいている。
そなたがニンダルヴから戻るのを待っていたのだ」
「ですがまだお身体が本当ではありません」
そう頑固に首を振る少年の頭に手を置き、その髪をくしゃくしゃっと搔き回したボロミアが、明るい声で笑って言う。
「養生するのは性に合わんのだ。
ペラルギアまでの海路に差し迫った危険はない。
案ずるな、ファラミア」
「兄上…」
その時アラゴルンは、薄青い瞳の奥に宿る秘めた熱を見た。
声に込められた微かな艶を聞いた。
“あれは兄を見る弟の目ではない。
断じて、ない“
ボロミアに肩を抱かれて歩み去る“弟”の、兄の腕にそっと触れる指先から立ち上る熱情の揺らめきを見て取ったアラゴルンは確信した。
自分にとって最も侮れぬ人物が何処に居るのかを。
-了-