がんばれ!ファラミア
~執政家に首ったけ~
三点の力学(後編) 10
巻毛の少年は、結果として大いにセオドレドの役に立った。
伝書鳩さながらに伝文を携え、継嗣と将兵達の間を飛び回ったからだ。
グリマが少年のその行動に気付かなかったのは、思いの外世継ぎの部屋に留め置かれずに済んだ為、自由になる時間の大半を城内の探索に充てていたからである。
グリマは継嗣が自分を部屋に留め置かない理由を、少年が継嗣を籠絡した為であると、自分に都合よく信じ込んだ。
しかし当初の予定と大差ない時間を城内の探索に割いたにも関わらず、グリマが城内に見つけ出す事が出来た外部との通用口は一か所のみに止まっていた。
副官格という建前がある為、継嗣の居室を離れて城内にいるところを将兵達に見つかると彼等が何かとグリマに指示を仰いでくるからだ。
“その程度の事は自分で判断しろ!”
と怒鳴りたくなる事もしばしばではあったが、不審を招く行動は厳に避けねばならないという強い気持ちは、兵等の行動の不自然さに対するグリマの目を曇らせていた。
グリマが城内から外部への通用口を探っているらしいとの報告を受けるや、セオドレドは直ちに各通用口に配した警備兵を移動させる様副将達に指示を出した。
継嗣の指示を受け兵の配置を変えた副将達は城内でグリマを見かける度、副官に指示を仰ぐ風を装い、巧みに通用口を誤認させる情報を蛇の耳に吹き込んだ。
継嗣と将兵の橋渡しをしたのは巻毛の少年であるが、グリマを迷走させる息の合った連携は、長く行を共にした継嗣と兵等の信頼関係あってこそである。
セオドレドは部下との繋ぎをつける為少年を手懐けはしたが、その少年に信を置いてはいなかった。
少年がグリマに継嗣を籠絡したと信じ込ませたのも、決して継嗣の為などではなく、あくまで我が身可愛さの保身と知っている。
一度間諜として飼われた者は、例えそれが気に染まぬ主家であろうと余程の覚悟がない限り、決して主家に牙を剥く様な事はせぬと、セオドレドは十二分に心得ている。
ましてや少年は閨に忍ぶ間諜なのである。
少年が世継ぎの使いを受けるのは、世継ぎが与える蜜の味に少年が酔っているうちだけの事である。
いくら仕込みが甘いとはいえ、褥の熱をそれ程長く身の内に留めておく様では、閨の間者は務まらぬのだ。
それ故継嗣と将等の連絡には細心の注意が払われた。
少年が継嗣から副将に届けるのは数字を羅列しただけの紙片であり、副将から継嗣に託されるのもまた同様の紙片のみだ。
この紙片が万一グリマの手に渡ったところで、紙片に書かれた数字だけでは全く意味を成さぬのである。
ヘルム渓谷に午後の日差しが差し込む頃、セオドレドの居室では疲労困憊した巻毛の少年が継嗣の寝台にしどけない姿で横たわり、正体も無く眠りこけていた。
その傍らで半身を起こしたローハンの世継ぎは、少年に目もくれず数字が羅列された紙片を片手に書物の頁を繰っていた。
セオドレドはボロミア同様野外を駆け回る事を好み、室内に籠る事を好まない。
進んで書物に親しむ性質でもない。
しっとりと濡れた黒髪を煩気に掻き上げ乍ら
「腹黒卿殿であれば苦もない事であろうが…」
と独りごちたセオドレドはふと頁を繰る手を止め
「成程、これが“白金の騎士”の大元という訳か」
そう苦笑を漏らした。
“白金の騎士”とは、半年程前ミナス・ティリスの下層階で一時流行った俗歌の事である。
中つ国では広く知られた昔語りを替え歌にしたものだが、当時ミナス・ティリスに逗留していた放浪の吟遊詩人が、市井で耳にした噂話を昔語りに準え、俗歌に仕立てて歌ったのだ。
後日その歌の内容を小耳に挟んだセオドレドは、彼の吟遊詩人がエドラスに現れたと聞き及ぶと城下に使いを出してメドゥセルドにその吟遊詩人を招き、自室で“白金の騎士”の歌を歌わせた。
その内容に「これは好い!」と膝を打って破顔したセオドレドは、俗歌を歌った吟遊詩人に大層な褒美まで与えたのだが、偶々その場に居合わせ継嗣の隣で共に歌を聞いていた年下の従妹は、何とも複雑な表情でローハンの世継ぎに目を向け「セオドレド様」と訝し気に眉を顰めたのだった。
「確かボロミア様には弟君がいらっしゃったのではありませんか?」
「ああ、いるぞ。
ヘンネス・アンヌーンに常駐の身だが、この歌が流行る前に一時ミナス・ティリスに戻っておった」
言いながらセオドレドはくっくっと笑う。
「セオドレド様?」
「いや、白き都でどの様な噂が囁かれておったか想像がつこうものだと思ってな」
その日一年ぶりでミナス・ティリスの大門を潜ったローハンの世継ぎは第6階層まで駆け上ると、副官と共に第7階層から駆け降りて来た友の顔を認めるや愛馬を飛び降り「会いたかったぞ!ボロミア!」と、愛しの君に駆け寄り力一杯“友”の身体を抱き締めた。
その頃には“ローハンより単騎にて継嗣来着”の報を受け、何事かと兵舎から飛び出した兵等が集まって来ていたが、副官を始め兵等も皆ローハンの世継ぎのその行動に唖然と目を見開き固まっていた。
しかし誰よりもまず一番に目を白黒させていたのは、突如現れた“友”の腕の中に有無を言わさず抱きすくめられた当のボロミア本人だったのだが、セオドレドはそんなボロミアの様子にも周りの反応にも一切構わず、抱き締めていた腕を一度解くと、改めてボロミアの肩に手を掛けて
「半年も顔を見ておらなんだのだ。
よく顔を見せよ」
と、目をしばたたかせているボロミアにずいっと顔を近付けた。
そのまま継嗣がボロミアに口付けするのではないかと思われた瞬間
「お久しゅうございます、セオドレド殿」
そう冷々とした氷の刃の様な声が、固まっていた空気を切り裂いた。
その声で呪縛が解けたかの様に兵等が一斉に声の先に目を向けると、そこには青い瞳の公子が辺りの空気を氷点下に凍て付かせる眼差しで、ローハンの世継ぎを見据えていた。
「おう、これはファラミア卿か、久しいな」
セオドレドはファラミアの凍て付く様な眼差しを意にも介さない。
「真に。
されど一国のお世継ぎともあろう御方が単騎にて他国へ御参着とは、聊か軽率ではございませぬか」
言いながらファラミアはセオドレドへと向かって歩を運ぶ。
「然したる御用がございます様にはお見受け致しかねますが」
さり気なく兄と継嗣の間に割って入ったファラミアは冴々とした冷たい瞳のままにっこりと継嗣に微笑み掛ける。
「然様、ボロミアの顔を見る以外然したる用はない」
平然と言い放ちファラミアを一瞥したセオドレドは、にんまりと人の悪い笑みを口の端に上らせる。
「見たところ卿は旅装の様だが、ヘンネスから戻ったところか?
それとも…戻るか?」
その時、二人の貴公子の間で交わされる剣呑な会話を固唾を飲んで見守っていた兵達の張り詰めた空気を根底から覆す様に、その場に全くそぐわないボロミアの、のんびりとした穏やかな声が響いた。
「そう言えばファラミア、そなた父上のところに出立のご挨拶に伺っていたのではないのか?」
兄の声にくるりとローハンの継嗣へ背を見せたファラミアは、セオドレドに向けていた氷の様な笑顔とは打って変わった花の綻ぶが如き艶やかな笑顔を兄に向けた。
「はい、それ故セオドレド殿の御到着に間に合いませんでした。
ですがこうしてセオドレド殿がミナス・ティリスにみえられたのですから、出立は日延べ致します」
「出立を日延べに?
しかしファラミア、それは父上の…」
言い差す兄にファラミアはにこりと微笑んで言う。
「ご心配には及びません。
父上のお許しは得ております」
それから3日後、ローハンから到着したセオドレドの副官に依って首根っこを押さえられた隣国の世継ぎは、従士と自軍の兵等に前後左右をがっちりと固められ、引き摺られる様にしてローハンへと帰って行った。
継嗣が逗留していた3日の間、ナス・ティリスの第7階層で繰り広げられた白の塔の君を巡る隣国の継嗣と弟君の攻防戦は、下層階から通って来る一兵卒や官吏の下役、下働きの女官などに由って尾ひれはひれを付けられ、密かな噂話となって民の間に広まっていた。
そして丁度その頃偶々ミナス・ティリスに逗留していた放浪の吟遊詩人がその噂をどう解釈したものか、昔語りに準え悲恋を語る俗歌に仕立て、“白金の騎士”の物語として歌ったのだ。
その俗歌の下敷きとなった“昔々ある南の国の小さな村で…”から始まる昔語りの大筋はこうである。
ある日村人が森で行き倒れている一人の娘を見つけ村に連れ帰ります。
しかし娘は自分が誰で何処から来て何処に行くのか、全ての記憶を失っていました。
娘を気の毒に思った村人達は娘を村に住まわせ皆で娘の面倒を見てやる事にします。
その娘は記憶こそ失っていましたが、気立てが良くその上大層美しかった為、忽ち国中に娘の評判が広まり、
遠い国の高貴な身分の者までがその娘を一目見ようと南の村にやって来る様になりました。
そのお陰で村には沢山の黄金が集まり、やがて娘は“黄金の乙女”と呼ばれる様になりました。
するとその噂は遂には遠い北の国に住む黒竜の耳にまで届き、竜は“黄金の乙女”を求め遥かな南の村へと舞い降りて
村人達にこう迫りました。
「“黄金の乙女”を俺によこせ。
よこさねばこの村を焼き滅ぼすぞ」
その時白金の甲冑に身を包んだ旅の騎士が黒竜の前に進み出て言いました。
「“黄金の乙女”を貴様には渡さぬ。
乙女が欲しくばこの私を倒してみせよ」
斯くて三日三晩黒竜と戦った騎士は遂にこの竜を討ち果たし“黄金の乙女”の前に跪きます。
“黄金の乙女”を一目見た時から恋に落ちていた騎士は乙女に愛の誓いを立て、“黄金の乙女”も喜んでこの誓いを受けます。
しかし誓いの口付けを交わす為騎士が白金の兜を取った時、その兜の下から現れた白金色の巻毛を目にした乙女の胸に、
失われていた記憶が蘇り、その騎士こそが幼い頃に生き別れとなった、探し求める実の兄だと知れるのです。
“黄金の乙女”は愛する“白金の騎士”が血を分けた実の兄であると知り、世を儚んで母なる大河アンドゥインに身を投げます。
残された“白金の騎士”は愛する乙女の死を深く嘆き悲しみ、身に帯びた白金の甲冑を脱ぎ捨てると手にした剣を折り、
南の村を後にすると何処へともなく去って行ったのでした。
幼い頃に初めてこの話を聞いた時、セオドレドは顔を顰めて言ったものだ。
「なぜこの娘は死なねばならぬのだ」
「それは愛する騎士様が血を分けた実の兄上だったからですよ」
そう答えた乳母に幼いセオドレドは
「なぜ実の兄ではいかんのだ?
互いに好き合うているのならそれで良いではないか」
と口を尖らせ乳母を困らせたのだが、その台詞は後年そっくりそのまま年下の従妹の口の端に上る事となる。
しかしその頃のセオドレドにそれを知る術はない。
ただ幼いながらもこのローハンの世継ぎは
「何も死ぬ事はないのだ。
生きておれば何か希望も持てようものを。
この話には希望がない。
私は希望のない話は好かん」
そう言って大いに憤慨したのだった。
セオドレドは書物を閉じ革表紙の表題に目を落とす。
『トゥーリン・トゥランバールのこと』
“弟卿があの俗歌を聞いておったらどの様に申す事であろうな”
黒竜を黒髪の魔王、“黄金の乙女”は黄金色の髪を持つ高貴な姫、“白金の騎士”は兄ではなく弟に置き換えられた俗歌は、昔語りと結末が大きく異なる。
“私としてやはり俗歌に歌われた”白金の騎士“の方が好ましいがな”
セオドレドは書物を膝の上に置くと、一つ大きく伸びをした。